第17話 洗脳解けて、記憶は消える
待ちに待った催眠術。
鮮明な聴覚は、外で流れている音楽を捉えた。ギターやドラムの音だ。振動が、微かにこの教室まで伝わってくる。
「後夜祭、始まったな」
「うん。私たちには関係ない時間」
誰かがくる気配は微塵もない。正真正銘、ここに流れるのはふたりだけの時間。
体は凛花の愛情を求めていた。いまの俺にとって、愛情とは催眠術による治療にほかならない。
「始めるよ、正俊。ちゃんと戻ってきてね」
あまり動かせない手で、小さくサムズアップをつくった。
「あなたは、広大な海の中に沈んでいく。深く、深く……」
ここから始まった。
凛花の言葉は、直に脳に届けられるような浸透力があった。奥の方へと沈んでいく。浮遊感に襲われ、俺の体から自由は奪われた。
「沈んでいくのは、体だけじゃない。意識もまた、沈んでいく」
すっかり体がダメになった。今度のターゲットは意識。
「頭の中が、ドロドロに溶けていく。すでに溶けているなら、液体になって蒸発する」
頭の中はトロトロだった。甘い夢の中を
「蒸発……」
「そう。頭の中は、スカスカになる。空っぽの頭、抜け出す雑念。無になるの。初めは、思考が荒波のように流れていく。でも、次第におさまる」
文化祭、雨、浮気、如月光、不信感、孤独……。
単語が次々と流れてくる。激流に飲まれて、余計な言葉は追いやられていく。鋭い言葉から角が取れ、厳選される。
「正俊は忘れる。余計なことは、覚えなくていい。私が背負うのだから」
頭の中にたっぷり溜まった水が抜けていく。体は深海へと沈みつつある。綺麗な対比。
「空っぽになっていく、自我が失われていく。がらんどうの心になる、透明で澄みきった、ガラスのように脆い心になる」
体と心の中の汚れが削ぎ落とされる。空っぽに向かっていく心。自我が失われていく。俺は誰だ、俺は、いったい……なんのために、ここに……。
「淀みのない心は、私と同化する。海の底から、私は浮き上がる。落ちていく正俊の体を、私が支える」
「体を、支える」
「うん。そして、だんだんと暗くなる。上からの日差しがなくなり、世界は暗黒に染まる」
すでに視界は真っ暗。想像のなかでも、ついに光が消える。
「孤独な光なき宇宙。そのなかで、自分の生まれたままの姿がある」
「俺しかいない……」
「そこに、忽然と現れる上里凛花。私もまた、生まれたままの姿。わずかに光をまとって、ぷかぷかと浮遊している。」
均整のとれた、凛花のスタイル。死後の霊を思わせる、儚い姿。
「透明な私たちの体は、浮遊したまま近づく。そして、ひとつに重なる。同化する」
ふたりは抱擁するように平行移動をする。抱きしめられることはない。俺の中へと、凛花が吸い込まれ、消えた。
「同化した後、流れてくるのは私の情報。空っぽの頭の中に、とめどなく流れてくる」
言葉のとおり、凛花の情報が、雨後の
聖徳太子じゃないが、同時に何十という凛花の声を聞き取っていく。無意識のうちに、すべての情報が入っていく。
「正俊は私、私は正俊。精神ごと一緒になるのは、至上の体験」
「ま、正俊は私、私は正俊」
「違かったね。『俺は凛花、凛花は俺』。どうぞ」
「俺は凛花、凛花は俺……」
「くり返して、くり返して」
「俺は――」
何度も何度も、呪文のように唱えた。
空っぽの頭が、さらにクリアになる。言葉は深く、深く浸透していく。それが初めから当たり前のようなことだと、刷り込まれていく。
「いい子ね。次が最後。『凛花は味方』。これだけ」
「凛花は味方、凛花は味方――」
同じくらい、くり返した。凛花がいうから、従った。そうしていると、落ち着いたから。
「よくできたね」
「うん」
「えらいね、正俊」
ポン、ポン、ポン。
三回、頭に手を当てられた。
ポン、ポン、ポン。
「私の教えは、頭を三回叩いたら思い出すこと。直接想起しなくていいの。潜在意識が反応してくれれば、十分。『俺は凛花、凛花は俺』。『凛花は味方』」
ポン、ポン、ポン。
頭がぐらりと揺れる。俺は凛花、凛花は俺。凛花は味方……。
「きょうはここまで。だいぶ深いところまでいったみたい。じゃあ、戻らないとね」
いって、意識が引き上げられていく。想像の中の凛花は消える。深海から俺の体は引き上げられ、そして……。
* * *
「う……うっ」
気づいたとき、俺は椅子の上に座っていた。後ろで手なんか組んでいる。
「気づいた?」
「俺は、どうしてここに……」
体の調子がよかった。軽く興奮している。長く持続しているようだ。
「文化祭から逃げ出したんだよ。そして、ここにきた」
「ここにきて、凛花に提案されて……あれ、そこから先が思い出せ」
「寝てたの、正俊は。椅子に座って、ゆっくりね」
後ろで組んだ手を前に回す。ヒモ状の痕が残っていた。
「なんだ、これ」
「気のせい。なにかぶつけたんじゃない?」
「いや、そんなことは……」
「なにもなかったの。正俊は、なにもなかったの」
ポン、ポン、ポン。
頭を三回叩かれると、ぐらりと意識が揺れかけた。
刹那、泡沫の快楽。
ふたたび凛花を見る。やけにかわいく見えた。これまでにないくらい、美しい。
「凛花……」
「ふふふ、正俊ったらとろんとしちゃって」
「おかしいな、頭を叩かれたら、飛びそうになって」
体からいやに拒否反応が出たが、理由はわからなかった。
俺と凛花はなにもなかった。椅子に座って、ただ寝ていただけだ。
そうとは思えない自分がいるのが、末恐ろしかった。
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