第15話 耳元で囁いて、洗脳したら

 俺と凛花のほかに、誰もいない教室。


 荷物を床に置くと、凛花はこちらに迫ってきた。


「なあ、いきなりどうしたんだんだよ」

「傷を癒やすの」


 どういうことだ、と訴えても、返答はなかった。そろり、そろりと後ずさっていく。次第に壁が近づく。


 目を合わせられない。きっと、お化け屋敷にいたときの凛花の目をしている。そんな姿は願い下げだ。


「怖いぞ、凛花。なにをするかいってくれるだけでいい。だから、黙って近づかないでくれ」

「無理な注文よ、正俊」


 抵抗むなしく、背中がぴたりと壁に張り付いた。


 手を伸ばされ、顎の下にあてられた。くいっと持ち上げられる。


 舐め回すような視線を向けられては、目を逸らすこともできない。捕食者を前にした草食動物だ。下手な真似はできない。


「かわいいね、正俊は。かわいそうはかわいい。嫌だよね、あんな姿を見せられちゃ」


 顎を起点にして、凛花の指は俺の顔の輪郭を撫でていく。わずかに触れているだけだ。くすぐったく、変な声をあげてしまいそうになる。


「でも大丈夫。木崎咲の終焉は近いの。如月君の様子を見れば一発でわかった。あの下衆女に向けられているのは、愛情じゃなくて憐憫なの」


 話の内容が半分しか入ってこない。暴走して、ひとりの世界に閉じこもった凛花の方に気がとられている。


 違う、こんなの凛花じゃない。程よい距離感であり続ける幼馴染のはずだ。


 間違っても、俺の嫌がることはしない。


「すんすん……ふぅ……」


 顔が近づく。鼻で俺の匂いを嗅いでいる。


「あぁ……正俊の匂いだ。変わらないね、落ち着く」

「凛花、こちらの世界に戻ってくれ。あきらかにおかしい。俺の目を見て、正気に戻ってくれ」


 勇気がいるが、凛花の瞳をじっと覗き込んだ。


 目からハイライトが消えていた。木崎咲と口論をしていたとき以上に、である。魂を抜かれ、悪霊が取り憑いたかのようだ。呆然、いや恍惚としている。


「いい目だね。人を信じない、かわいそうな目」


 俺の髪を手にとって弄びながら、凛花は語りかけた。


「かわいそう、か。たしかに、さっきの木崎たちにはいい気はしなかった。嫌な再会だった。不憫そのものだ」

「違うの、さっきだけじゃなくて、ずっと。正俊は、常に落とし穴にはまっていく生き方をしてる。かわいそうに」

「ここまでなんとかやってる」

「私がいなかったらどう? やっていけた?」

「そ、それは」


 否定できなかった。


 もし凛花がいなかったら、俺はなにに頼っていたのだろう。立ち直れただろうか。高校まで上がることができていただろうか。


「きっと厳しい。私のおごりじゃない。特大の害虫は、私がちまちまと駆除してきた。そのまま襲われていたら……いまここにはいない」

「凛花が大事だってことはわかる。だからといって、一方的に迫られるのは――」


 手から俺の髪を離すと、耳元に口を寄せてきた。


「――じゃあ、同意を取ればいいんだよね」


 囁き声。


 電話越しでさえ、とびきりの快感だった。いまのは生だ。破壊力は、前の比ではない。


 足がまた、震え出した。今度は、恐怖のためではなかった。


「正俊は、私にこうされたい」

「い、いや。俺は違う」

「じゃあ、やめてほしいの?」


 ふぅ、と生暖かい息を吹き込まれる。


「やめてほしくはない」

「心地いいから、だよね」

「あ、ああ」


 この状況から逃れたい、とは不思議と思えなかった。このまま囁かれて、脳までドロドロに溶かしてほしいなんていう、破滅的願望に支配されつつある。


「なら、私に慰められても、いいよね?」

「そ、それは」

「囁かれるの、嫌い?」

「嫌いじゃない、好きだ」

「じゃあ、私を受け入れてくれるね。返事はイエスかノーだけ。首を縦に振ったらイエス。横に振ったらノー。さぁ、答えて?」


 ずっと耳元がぞくぞくしている。


 誘導尋問もいいところだ。はなからイエス・オア・イエスのようなものだ。いけないことをしている、とかろうじて残された理性が叫ぶ。


 叫びは、凛花の呼び声にかき消される。あちらは心の準備ができている。あとはこちらがオーケーを出せばいいだけなのだ。


 ゆっくりと、首を縦に振った。断る理由はなかった。


「いい子ね、正俊。あなたも私みたいに、期待を裏切らない幼馴染のようね」

「ああ」


 まともに会話をする気力さえ失せていた。この空間にいることさえできれば、あとはどうでもよかった。


「じゃあまずは、椅子に座ろっか。後ろから持ってきて」


 命令どおり、椅子を取り出した。机や椅子は、教室の後ろ半分に追いやられていた。最前列のひと席を拝借して、教室の前半分、その中央に設置する。


「次は」

「そうね……」


 凛花は教室を見回すと、求めていたものを発見したらしい。軽い足取りでそれをとると、両端を持ってぴんと伸ばした。


「ヒモ、こんなところにあった。手間がかかると思ってたんだけど。文化祭だからだね、きっと」


 ひょんなことでは切れそうにない、丈夫そうなヒモだった。


「なぜヒモ?」

「決まってるでしょう。ヒモはなにをするために使うのか」


 両手で端からやや中央に近いところを、両手でつかみ、ぴんと張った。


「――縛るの、正俊を」

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