第3話 ハグに堕ちる

「いいのか、こんな俺を抱きしめて。彼女に振られたつらさを押し付けようとしているのに」

「私がダメっていったこと、あった?」

「ない」

「正俊の味方なんだから、私は」


 気持ちを抑えつける必要はなくなった。


 ゆっくりと凛花の胸に体を預けた。昔の凛花にはない、丸く柔らかい感触があった。


 懐かしい匂いから、楽しい記憶ばかりがよみがえってくる。


 前も、苦しいときはハグをして慰めてくれた。こうしていると、自分の悩みなんてちっぽけだと思えるのが常だ。


「俺はクズだ。浮気をするような性分だとさえ見抜けなかった。人を見る目がないんだ」

「そんなことないの。誰でも、本性を見抜くのはむずかしいの。腹の中なんて、誰しも人には見せられないもの」

「あいつにひと泡吹かせることすらできずに終わったんだ。ただ捨てられたんだ」


 あのときの木崎咲には、なにも響く気配がなかった。己の信念が間違っていないという、強い自信があった。


 こちらだけが傷を負って終わった。悔しいばかりだ。


「かっかしないでいいの。いずれ罰がくだるんだから」

「しかし、あいつの表向きの性格はいい。すぐには瓦解しない」

「大丈夫、時間の問題だから。あの人は、裸の王様みたいなもの」

「どうしてそう思うんだ?」

「正俊は、いまなにも考えなくていいの。ただ胸に埋もれて、忘れるだけで」


 いわれると、どうでもよくなってきた。


 木崎咲のことを知ったような発言なんて、気にすることじゃない。この甘い匂いに包まれていれば、終わったことについて考えることもないのだ……。


「ほら、落ち着いて。落ち着いて」


 トン、トンと背中を叩かれる。一定のリズムで、同じくらいの強さで。


 思考が持っていかれる。


 やがて自分が人形になっていきそうな、恐ろしくもあり心地よくもある感覚。このまま身を委ねてしまえば、その境地に達することができる。


「正俊が考えることはないの。すべて私に委ねて、現実から目を背けるの。素晴らしいことよ。きっとすぐわかるんだから」

「うん」

「いい返事」


 首を上に向けると、凛花の顔が見えた。柔和に微笑む様は、昔と変わらない。


 かつての凛花の姿が、オーバーラップしていく。脳内で時計の針がグルグルと巻き戻され、幼い頃の自分になった気になる。


 嘘を知らない純粋無垢だった時代の、ガラス細工のような思い出のなかに閉じこもっていく。自分からすすんで。


「正俊は私を……私だけを見ていればいいの。一時の気の迷いで、おかしな女の人と付き合ってしまったかもしれない。でも、本来あるべきは違う。私と、昔みたいにすごすこと。それが幸せなの」

「凛花とすごすことが、幸せ」

「えらいね。正俊はものわかりが前からいいから、助かるよ」

「へへへ」


 こんな笑い方、幼稚園か小学校以来だ。


「まだ、木崎咲とのことは抜けきらないかもしれない。でも、いずれ綺麗さっぱり頭から抜ける日がくる。そのときは――」

「そのときは?」

「いけない、おしゃべりがすぎちゃった」


 ぎゅっと、一段と強く抱きしめられた。


「正俊がやめてほしいっていうまで、このままにしておくから」

「いいの?」

「だって、私は期待を裏切らない幼馴染なんだよ」


 凛花は微笑んだ。


「だから、安心してね」



 凛花に抱きしめてもらうのをやめてもらってから、次第に自我を取り戻していった。


 一時的に、催眠に陥っていたかのようだ。いつもそうなのだ。ちょっと恐ろしいけれど、これを上回る快楽や安心を得られるものはそうそうない。


 あの女を忘れるには、これしかなかったのだ。


 いまとなっては、ああやって慰めてくれる凛花がいるのだから大丈夫、と思えるようになっていた。


 ハグの効果は絶大だ。


「回復してきたようでよかった」

「やっぱり、凛花は頼れる。一番見知ってる相手だし」

「私も同じことを思ってるよ」

「うれしいことをいってくれるね」

「気が向けば、付き合ってみても……なんちゃって」

「ハハハ。考えてみてもいいかもな」


 凛花と付き合うとしたら、なんとも移り身の早いことだ。


 あくまで凛花は幼馴染であって、恋愛の対象ではないはずだ。妹のような存在、とでもいうべきだろうか。


 このまま、昔どおりの関係でいられることが、なによりなのだ。


「わかった。じゃ、また気が向いたら会おうね」

「うん。一年ぶりくらいにちゃんと話した気がするけど、意外とすんなりいったような」

「たった一年だもん。私と過ごした十数年を思えば」

「数字でいわれると納得」


 名残惜しさを捨てきれぬまま、家に帰ることにした。


 母が早く帰ってきたらしい。珍しいものだ。


「え、もういっちゃうの?」

「長くいても、凛花に迷惑だし」

「迷惑じゃない。迷惑だなんていわないでよ」

「悪い、ちょっといいすぎたな」

「もぅ」

「ともかく、悩みを聞いてくれてほんと助かったよ」

「へへ。よかった、正俊の力になれるのが、なによりの幸せだから」


 バイバイ、と玄関に出て送ってくれた。凛花は満面の笑みを浮かべていた。


 やはり、幼馴染の力は偉大である。


 悩みがあれば、凛花に頼ればいい――簡単なことを、最近忘れていたようだった。

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