第3話
大学生になればアルバイトをする。高校生からやってる人もいるだろうけど、校則で禁止されてる事が多いからやらないか隠れてやるアルバイトだが、大学生はそんな校則も無く、遊ぶことも増えるのでほぼ必ずアルバイトをする。
だから晴れて大学生になった俺は、アルバイトを探した。探した職種は、車が好きで一度やってみたかったガソリンスタンドだ。楽らしいので出来ればセルフが良かった。
原付を持っているので多少遠いところまでは行けるが、出来れば遠くても十五分圏内が良い。
と、条件を絞って探してみると、幸運にも一つ良いところがあった。大学付属高校が面している長い坂をずっと下っていったところにある交差点の角に位置するセルフガソリンスタンドだ。家から原付で約十分と近く、時給も良い。そこで俺はすぐに応募し、そして見事採用された。此処まではパチンコ屋に行く少し前の話で、今日はその初出勤日だ。
制服は着てきても休憩室で着替えてもどちらでも良いと所長さんが言っていたのだが、制服でその辺をうろちょろするのもどうかと思い、とりあえずは早めに行って着替えることにした。
ガソリンスタンドに着いてから、邪魔にならないよう端のほうに原付を止める。挨拶も無しに休憩室で着替え始めるのは流石に良くないかと思い、俺は所長を探した。休憩室が何処か分からないし。
所長はピット内で車をいじっていた。客の車のオイル交換でもやってるのだろうか。
「おはようございます!」
俺が挨拶すると、所長は忙しいのか作業したまま「おう」とだけ返した。
「休憩室ってどこですか? 着替えたいんですけど」
「あ? ああ、右の方にあるぞ」
所長は最低限の事だけ言って、また作業を始めた。いや、右の方と言われても分かんないって。
いや、分かったかも知れない。右の方へ実際行ってみるとドアが一つだけあったから、きっとこれのことを行っているんだろう。入ったら不味い所なら謝ればいいや。そんな軽いノリで、俺はドアノブに手を掛ける。
「あ、先に着替えてるやつがいるから気ぃつけろよ」
所長がピットから大きな声を出した。……もう少しで開けそうだったぞ、危ないなあ。
「着替え終わったぞー」
外の会話が聞こえていたみたいで、中から誰かが教えてくれた。なんか聞いたことある声だったな。
「じゃあ入りますよ」
俺は今度こそ休憩室の扉を開けた。
中はそこそこ綺麗だ。でも煙草臭いな。奥によくわからない機会とシンクがある。あとはウォーターサーバー、冷蔵庫、電子レンジ、簡易机があり、休憩や昼飯を食べるくらいなら全く困らなさそうだ。
「ゲッ」
という声が聞こえた。そういえば休憩室の内装に目が行ってて中にいる人をよく見てなかったな。まああとでいくらでも自己紹介するだろうし、後でいいかなって気もあったんだけど。てか何が「ゲッ」だ、失礼だろ。
そんな失礼なやつの顔を拝むため、俺はその人の方へ目を向けた。
「あっ」
そして思わず声が漏れてしまった。ごく最近に見たことある人だったからだ。
「あー、いや……」
「一万円返してください」
「うぐ……。やっぱそうなるよなぁ」
俺はあの時の稲葉さんの仕打ちを忘れてはいない。俺がパチンコデビューするために持ってきた一万円を全部使いやがったのだ。だがここであったが百年目! というやつだぜ。
「お、おっけーおっけー。でも後でな」
「後っていつですか」
「今は無理だ。すぐ仕事だし金がねえ。ほんとごめんけど、もうちょい待ってくれ。な?」
「うーん」
ない袖は振れんてことか。じゃあ仕方ないのか?
なんて考えてたら逃げられてた。……取り立てていつかしっかり返して貰う。
あの後俺は制服に着替えた。面接のときに聞かれたから当然ちゃあ当然なんだけど、サイズはぴったりだ。
着替え休憩室を出ると、立ち話をしている所長と稲葉さんの方へ走った。
「着替え終わりました」
「おお。サイズは良いみたいだな」
「はい。丁度良いです」
「オッケー。じゃあ稲葉。藤井に仕事教えてやれ」
「うす」
稲葉さんが所長に返事をするが、やはり不安だ。こんな人が仕事出来るのか?
「じゃあ行くぞ、タク」
「あ、はい」
稲葉さんがついてこいと促すので、俺は後を追った。行き先は給油する所かと思ったが、沢山のタオルが入った棚とホースがある場所みたいだ。
「にしても新人がタクだったとはなー」
歩きながら、稲葉さんが気さくな感じで話しかけてくる。
「いやー。世間は狭いっつーか。こんなこともあるんだなー」
「ですね。ちゃんとお金返してください」
「わ、分かってるって。しつけえよ。がめついなあ」
「いや大事でしょ」
「へーへー」
稲葉さんはひらひらと手を振って俺の取り立てを躱すと、拳銃みたいな見た目のものが付いたホースを握る。
「これが高圧洗浄機な。これでまずざっと車の汚れを取るんだよ。あ、あたし達の仕事は主に手洗い洗車だってのは所長から聞いてるよな?」
そういえば面接の時にそんなことを言っていた気がする。手洗い洗車って、これで洗うことだったのか。
「聞いてます」
「おっけー。んでこっちが。っと、実際にやった方が分かりやすいわな」
稲葉さんは急に走ってどこかへ行ってしまった。俺はここで待ってればいいんだよな。
すると黒い乗用車がまあまあの速度でやってきた。そして急ハン急ブレーキで停まり、切り返して急発進でバックし車を所定の位置であろう場所に停める。運転荒っ。
「んじゃ、一回やってみっから。見とけよ」
稲葉さんはそう言うと、機械のスイッチを押して高圧洗浄機を動かす。そして圧力を上げてから、車の天井から水をかけ始めた。
「こうやって、上から下へ水流す。窓の雨よけとかはこうやって洗浄機を上に向けて、ちゃんと水が当たるようにな」
車の回りを一周して全体に水をかけ終わると、稲葉さんは洗浄機とは別のホースを持った。そしてムースと書かれているボタンを押す。すると数秒の間の後に沢山の泡が出てきた。
「次は泡を車の全体にかけていく。泡は多すぎず少なすぎず良い感じにな」
「はい」
稲葉さんは手首のスナップを効かせて、車の頭からバンパーまで丁度良い塩梅で泡を掛けていく。
「あとは両手にモップを持って、無駄なく車のボディーをなぞる。同じところをやらないことと、上から下へルートを作って無駄な動きを無くすのがコツな」
そう言って稲葉さんはテキパキとこなす。実際、水をかけ始めてから泡を落とし終わるまで五分も掛かっていなかった。
俺は稲葉さんの事を見誤っていたようだ。だってあんなパチンカスなら仕事もきっと出来ないと思うだろう? でも稲葉さんは、仕事は凄いみたいだ。本当に、なんとも残念な。
「分かったか? てか聞いてたか?」
稲葉さんはホースを綺麗にまとめながら俺に言う。説明は聞いていたが、稲葉さんの今までとのギャップのせいで半分くらい頭に入ってない気がする。こういうのを聞いてないって言うんだろうな。
「あ、はい」
「おっけー。じゃあやってみ。見てるから」
「はい」
返事はしたものの自信ないな。まあ初めてだし、少々間違えても許してもらえるだろう。俺は高圧洗浄機を握り、スイッチを押した。すると先から水が出てきたが、高圧と言える程の勢いは無い。
「ノズルの先の黒いとこをグッと引いてみ。強くなるから」
確かに先の方に黒い樹脂製のものが付いていたが、ただのデザインじゃなくて圧力を上げるためのものだったのか。
「わかりました」
実際に引いてみた。だがこれが結構固くてこずる。水圧は強くなってるような気はするが、どこまで引けば終わりなのかがいまいち分からなかった。
「いつまで引っ張ってんだよ。もう出来てるぞ」
ずっと引き続けている俺のことを、稲葉さんは笑う。もっと早く教えてくれればよかったのに。
「マジすか」
怒ってるとか悔しがってるとか思われたくなかったし、俺は適当に返事することにした。
高圧洗浄機の準備が出来たので天井から車に水をかけていく。上から下へ、窓の雨避けにも気をつけて、丁寧にだ。
「タク。泡落としてるわけじゃねえからざっとでいいぞ」
「あ、はい」
俺はアドバイス通り、丁寧さよりも速さに重点を置くことにした。確かに今から泡でこするんであって、今かけている水は汚れを落とすための準備に過ぎない。だからどちらかというとざっと全体に水が行くようにすればいいわけだ。
天井、車右側面、フロント、左側面、リアの順に水をかけ終わり、俺は次のステップに取り掛かった。ホースを泡が出る方に持ち替え、ムースのボタンを押し、小走りしながらざっと車に泡をつける。泡は均等とはいかないまでも、多すぎず少なすぎずな感じに出来たと思う。稲葉さんは何も言わない。
今度はモップを取り出して、また天井からこする。今洗っている車は全高がそこまで高くないので、そのままでも手が届いた。横の方に脚立が見えるが、大きな車はあれに乗って天井をやるのだろう。
「なあ。タクって大学生なんだよな」
今からやろうってところで、稲葉さんが話しかけてきた。暇だから世間話でもって感じなんだろうが、正直初めてのことをするって時に話までする余裕はないんだよなあ。
「そうですよ」
「どこ行ってんの?」
ふーん。とかで終わって欲しかったが、そりゃ深掘りしてくるよな。
「尾道の方です」
「尾道? また遠いとこに行ってんなあ。まあ通えなくは無いだろうけど」
「まあまあですね。遠いですけどなんとか行けてるって感じですかね」
「偉いなあ。大学サボってるあたしとは大違いだな」
「そんなこと無いですよ」
適当に話を切って終わろう。稲葉さんには悪いしどこの大学行ってんのかも気になるが、ちょっと余裕無くて流石に仕事にならないからな。
体のいたるところに泡をつけながら、何とかすべての工程を終えた。高圧洗浄機を使い、最初とは違って丁寧に水をかけて泡が残らないように落としきる。初めてにしては中々上手くできたんじゃないだろうか。
客観的な評価が欲しくて、俺は稲葉さんの方を見た。だが稲葉さんはよその方を向いていて、全く俺の方を見ていない。見といてやるって言ってたくせに見てないじゃんか。まあ目が離せない程危なっかしいわけではないという事でいいのかな。
「出来ました」
「お。おっけー。まあ洗車は大体そんな感じ。後は拭きあげとかもあるが、まあ今は良いだろう。じゃあお客さん来たら、一緒にやるから頼むぞ」
「あ、はい」
優しいのか興味が無いだけなのか分からないが、稲葉さんは軽い感じで言う。いきなり実践だけど、気負うなよっていう風に受け取っておこう。その方が気分いいし。
「とはいったものの、今日多分客ほとんど来ねえな。予約なんも入ってないんだよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。ラッキーだよな」
稲葉さんは嬉しそうだ。初日から仕事が無いというのはなんとも張り合いの無い事だが、暇なのは嬉しい事だ。いきなり忙しいとしんどい。
とはいえ何もしないと言うわけにはいかないだろうし、何かやることはあるんだろうか。
「じゃあ所長に何か言われるまで喋ってようぜ」
なんて考えてたが、そもそも稲葉さんには何か仕事を見つけてやろうという気すら無いようだった。
「え。いいんですか?」
「だって面倒だろ?」
「いや、まあ」
「あたしたちは時給制なんだから、いくら働こうが給料は変わんねえんだよ。だから、やることがあるなら別だが、無いならサボれるところはサボっていかねえとしんどいぜ」
うーん、確かに一理あるな。いや、でも良いのか? なんかよくない方向に流れていきそうになってる気がするが。
「そんなもんなんですかね」
「そんなもんだ。何事も気楽に、気楽にだ」
まあ稲葉さんがそうしようと言うので、そうすることにするか。けど凄く悪い事をしてるような気分になるな。
「つう訳だが、タク、こないだのパチンコお前打てて無かったよな」
まだ了承したわけではないのだが、稲葉さんは話し始めた。てか、またパチンコの話か。
「稲葉さんが俺の一万使っちゃったから打ててませんよ」
「当たりを引かせてくれない台が悪い」
マジかこの人。台のせいにしやがった。
「だからよ。今日シフト終わったらリベンジ行こうぜ」
「リベンジですか?」
「そう、リベンジ。それとも予定あったか?」
内容はアレだが、要はバイト先の美人な先輩に遊びに誘われているってことか? やばいどうしよう。十九年間生きてきたがこんなのは初めてだ。ただ内容が酷いんだよなあ。
「いや、ないです」
「お、いいじゃん!」
テンションが上がった稲葉さんが肩を組んできた。いや近い近い近い近い。稲葉さんはすらっとしてるのでアレが凄く当たってるみたいな漫画のようなことは無いが、それでも色々柔らかく、煙草の匂いがするけど別のなんだかいい匂いもして頭がパンクする。いやヤバいってマジで。
「じゃあ着替えたらパチンコ行くぞ!」
ああ。そうだったこの人パチンカスだった。それを思い出したらさっきまでのドキドキが薄れていく。あとやっぱ悔しい。不覚にもドキドキしてしまった自分が憎いわ。このままだといつか悪い人に騙されそうな気がする。
「……次は貸さないですよ」
「わかってるって!」
稲葉さんは今から遊園地に行く子供みたいな楽しそうな笑顔だった。行こうとしてた俺が言うのもなんだけど、場所がパチンコじゃなきゃなあ。
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