第15話 そして父になる
「マックスのやつ今日も元気マックスです」
僕はヘトヘトに疲れ切って病院に戻った。
マックスはただ今入院中のスコティッシュテリアだ。
僕はモルトウイスキーはアイラが一番と思っているがブレンデッドウイスキーはどうだろう。
バリエーションが多過ぎて正直どれが一番とは決め難い。
どれもボトルは個性的で、最近はレコードのジャケ買いみたいに、ボトル買いをしてしまうこともある。
数多いボトルの意匠のなかでも、僕が一番気に入っているのはブラックアンドホワイトという銘柄だ。
このウイスキーのラベルには二頭の犬が描かれている。
白毛と黒毛の犬のイラストだ。
スコティッシュテリアはその内の黒い方である。
ちなみに白い方はウエストハイランドホワイトテリアと言う。
ちなみに、ともさんは無類のウイスキー好きだ。
床下収納庫の中は貰い物やら自分で買ったコレクションやらで、ワインセラーならぬウイスキーセラーと化している。
ともさんの夜毎の薫陶もあり、嬉しいことに僕も少しは蘊蓄を語れるようになった。
スコティッシュテリアやウエストハイランドホワイトテリアは小型害獣駆除犬なんてカテゴリーに分類されている。
かつては農場でネズミを駆逐したり、アナグマやキツネを狩るお仕事をしていたという。
ウイスキーは八年とか十二年とか。
あるいはそれ以上の長い年月。
樽に詰めたまま寝かせて熟成させる必要がある。
その大切なウイスキー樽をネズミに齧られないように、スコティッシュテリアやウエストハイランドホワイトテリアが鼻を効かせ目を光らせていた。
姿形は可愛らしいがその実剽悍な犬たちは、樽の貯蔵庫で歩哨の任務に就いていたのだ。
<Black&Whiteのラベルはそんな逸話とウイスキーの名前を意匠化して創作されました>
なんて話もあるそうだがどうやらそれはガセらしい。
ブラックアンドホワイトは、当初は黒いボトルに白いラベルだったことが、その名の由来であるようだ。
ラベルのイラストに至っては創業者のジェイムズ・ブキャナンが見物したドッグショーにあると言う。
どうやら彼の見物していたドッグショーで、偶然優勝をしたのがこの黒白二頭の犬。
スコティッシュテリアとウエストハイランドホワイトテリアだったらしいのだ。
彼の目に偶然止まった犬がラベルデザインのヒントになったわけだ。
もし、ドッグショーで優勝した犬が、黒白ツートンのボーダーコリーだったら?
そんな想像をするとちょっと楽しくなる。
事程左様に、伝説の種明かしは往々にしてちょっとつまらない。
いずれにせよネズミを駆逐したりアナグマやキツネを狩る先祖を持ったせいなのか。
マックスは敏捷で活動的な犬だ。
おまけに頑固で遊び好きときている。
犬がそんな性質を持っていればどんなことが起きるかと言うと、それは火を見るより明らかだ。
一度散歩に連れ出そうものなら、容易なことじゃ家には戻れないということだ。
目一杯身体を動かして楽しんで、心の底から満足しない限りマックスの散歩は終わらない。
それは僕がグダグダになるまで消耗するということと同義だ。
正直なところ、散歩は散策と心得るスキッパーをマックスにも見習ってほしいくらいだ。
少しは牽制になるかと思い、一度スキッパーに同行をお願いしたことがある。
もちろん秒で断られた。
同じテリアだしイギリスが故郷なのだから気も合うだろうと思ったがそこは僕が甘かった。
ジャックラッセルテリアはイングランド、そしてスコティッシュテリアはスコットランド出身なんですってよ奥さん。
「あんな田舎者なんかにお愛想なんぞ使えるか」
と、いうことらしわね。
鼻でフンッとされて侮蔑の眼差しを向けられたのだからたまらない。
スキッパーには下手をするとマックスより下に見られてる僕だった。
「ごくろうさん。
丁寧にもてなしてやってくれよ。
なんせマックスは、るいさんの大親友が溺愛している御愛犬だ。
ゆめゆめ粗相のないようにな」
マックスについてはともさんも頼りにならない。
僕がぼやいてもくさしても、ともさんはマックスの肩を持ちそうだ。
「もちろんVIP待遇でお世話させていただいてますとも。
ヨーロッパのお土産は何でしょう?」
マックスの飼い主は、るいさんの大学のお友達だ。
夏休みを利用してお友達はるいさんとお二人でヨーロッパ周遊の旅に出た。
そのるいさんのたってのお願いで、マックスをお預かりしているという次第だ。
なんでもお嬢さんは自宅通学だが、ご両親の旅行も時期が重なってしまったのだという。
そこでるいさんがともさんを思い出したという訳だ。
るいさんは、ともさんが自分のお願いを聞いてくれるかどうかなんて露程も心配していないからね。
ともさんには、るいさんのお願いを聞かないと言う選択肢は元より存在しない。
るいさんはそのことを充分承知しているのさ。
ともさんの提案で、預かりついでにそれなら去勢の手術もしちゃいましょってことになった。
それでマックスの扱いは入院ってことになってる。
とも動物病院は、なるべく犬猫を入院させないというともさんの方針で運営されている。
去勢や避妊手術程度なら日帰りだ。
連続点滴の必要のない症例なら、結構大きな外科手術でもその日のうちに返してしまうことが多い。
そのまま放置というわけではないよ?
入院をさせる代わりに連日通院をしてもらうってこった。
飼い主さんは少し大変だけどこのやり方には利点も多いんだよ?
とも動物病院でも元々容体が急変しそうな症例は最初から入院させる。
でも病院の実情を考えると、完全看護が行える人間の病院のような訳にいかないのは確かだ。
一晩中付ききりで看護するのはマンパワーの点からも無理がある。
入院している犬猫に枕元のブザーを押してもらうなんてできない相談だ。
余程の大病院でも夜間当直の獣医師を置くところはないだろう。
元より動物病院には、終日看護師が詰めるナースステーションなどと言う気の利いた施設もない。
むしろ術後経過の観察は犬や猫のご家族の方が目が行き届く。
それは自明の理だろう。
ご家族が術後の異変に気付いたらすぐ病院に連絡してもらう。
その方が恐らく救命率も高い。
こちらとしては夜間の電話にでる用意があれば就寝にも支障はない。
当夜の飲酒を控えるくらいでことは済む。
術後の犬猫も飼い主に甘え放題で入院のストレスが掛からないせいか立ち直りが早い。
飼い主にとっても愛犬や愛猫と一緒にいられるわけだし余分な入院の費用も掛からない。
犬猫、家族、病院三方にWin-Win-Winの関係だ。
もちろん数時間おきに治療が必要な症例は入院治療とする。
飼い主さんによっては、こちらが不要と考えても入院を希望されることもある。
その辺は飼い主さんのご希望とこちらの都合を考えて臨機応変の対応となる。
けれども。
「毎日通院していただけるなら、入院させなくても在宅療養が可能ですよ?」
そうお伝えすると圧倒的に在宅療養を選ぶ飼い主さんが多い。
マックスの手術は去勢手術だったので、本来は日帰りコースになる。
ところがお嬢さんは、るいさんとともにヨーロッパに旅立つ。
お嬢さんのご両親も別建てでご旅行だ。
本来ならとも動物病院は犬猫のお預かり業務をしていない。
それなのにマックスを預かるとなれば、ともさんのことだ。
口実がいると考えたのだろう。
ともさんは知恵を絞って「そんなら預かり中に去勢手術をすればいいんじゃね」と思い付いた訳だ。
マックスは術後に特別入院をさせる言う口実ができて、ともさんは晴れやかな顔で決裁した。
そんなまどろっこしいことしなくても、るいさんのお願いだよ?
私情で例外を作るのが心苦しかったとか?
いつも預かりの依頼は断ってるからね。
だけど例外結構なんじゃないかと思う。
自分の病院なんだからさ。
それとも僕の目があるから?
そうだとしたらともさんも可愛いものだ。
院長なんだから病院の運営をどうしようと勝手放題なんだよ?
ともさんも何を照れているんだか。
最近は麻酔の技術が進んだので手術をした動物の回復は早い。
マックスも昼過ぎに手術をして閉院の七時には結構元気を取り戻していた。
夏とはいえ日が落ちれば気温も下がる。
ましてとも動物病院は森の中にあった。
だから森林公園に繋がる遊歩道を歩けば、日没を待たなくても結構涼しげだ。
僕は初日からすぐ、術後のマックスを連れておトイレ散歩に出た。
六時間程前に手術をしたばかりだし僕とは面識もない。
そのせいか初日のマックスは明らかにミニマムだった。
だがマックスがミニマムだったのは初日だけだった。
「マックスはホントに運動が好きですよ。
こっちが引き摺られますからね。
せがまれるんで僕も走りますが自転車で引き運動する方が良いかもです」
るいさんたちのヨーロッパ旅行は二週間だ。
今日で丁度折り返しの一週間になる。
マックスは入院生活にすぐ慣れた。
僕やともさんを警戒していたのも翌日までだった。
マックスはスキッパーとも仲良しになりたがったがこれはうまくいかなかった。
スキッパーが鼻もひっかけなかったのだ。
マックスは三日目には最初からうちの子だったようなはっちゃけぶりだった。
飼い主のことはすっかり忘れたかのような適応振りだった。
今は盛夏でもあり日によっては朝の日光も驚くほど強烈だったりする。
マックスは特別待遇のお犬様なので、僕は毎朝五時起きの早出をして散歩をさせている。
まるで学生の頃に放り込まれた牧場実習で課せられた早起きみたいだ。
夏の朝未だき。
平地林の大気は爽やかだ。
露で湿った草や樹皮は清涼な芳香を放ち、眠気を僕の身体からすっかり洗い流してくれる。
無数に立ち並ぶ雑木の内、幾本かの状態によっては、森の空気に樹液の匂いが混ざる。
僕はマックスを散歩させることをだけを目的として雑木林を歩いている。
だがクヌギやカシの樹液の匂いを嗅げばどうだろう。
久しく思い出すことのなかった少年の頃に培った狩猟本能が目覚めるのを感じる。
それはあの懐かしい思い出にも繋がっている。
https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938
よく手入れをされた雑木林の近くには谷地があるだろう。
そこに美しい田んぼがあれば、ほぼ確実にカブトムシが居る。
カブトムシはお百姓さんが田んぼに漉き込む堆肥に好んで卵を産む。
里山の雑木林は堆肥を作ったり、薪や柴を得るために整備された人工林なのだ。
だから手入れの行き届いた雑木林があるということは、近所の農家がしっかり落ち葉で堆肥を作っているということと同義だ。
マックスは散歩の時、頸が締まりそうになる程に四肢と体幹の筋肉を働かせる。
まるで蒸気機関車の様に荒い息を付き、力いっぱいにリードを持つ僕をけん引する。
そんなマックスでも涼やかな早朝の空気は気持ちが良いのだろう。
時折立ち止まっては鼻を高く掲げてクンクンと嗅覚を効かせて情報収集をしている。
嗅覚によって得られる近接地域の情報がいかなるものなのか。
それについては僕たち人間にはとても想像がつかない。
けれどもきっと、カブトムシについての情報だって手厚く集めているだろう。
たかが人の嗅覚だってその存在を嗅ぎ分けられるんだからね。
小道の脇にある茂みにも入り込んで行くのでマックスの毛は露に濡れて少し重たげだ。
病院に戻ったらタオルで拭いてブラッシングをしてから朝食の用意になる。
午後にオペがなければ運動場でマックスと水遊びも良いだろう。
水遊びはスキッパーも好きなので誘えば彼も参加するかもしれない。
僕とマックスはほんの数日で友達になれた。
傲慢で人を人とも思わないスキッパーとはえらい違いだ。
マックスは散歩をして食餌をの世話をして一緒に昼寝をする僕のことを尊敬してくれる。
マックスの視線とスキッパーの視線を比べればそれが良く分かる。
そうして二週間。
るいさんたちが旅から戻ってちょっとした椿事が持ち上がった。
「マックスー。
ただいまー。
元気にお留守番してまちたかぁ~」
マックスの飼い主であるお嬢さんは優し気な面差しを持つ可愛らしいお嬢さんだった。
同じテリアなら大きくて力強いスコティッシュテリアより、小さくて華奢なヨークシャーテリアお似合いと言う感じだ。
マックスの行動や仕草を観察しているとどうだろう。
お嬢さんが彼を溺愛しながらも躾を怠っていないことが良く分かる。
専門的な立場から見ても、まずは理想的な飼い主と言える。
「ウーッワンワン。
ガウーッ」
ところがあろうことか。
マックスはいきなりお嬢さんに吠え掛かったのだ。
そうして歯をむき出して攻撃的な威嚇をしてから得意そうに僕を振り返る。
もちろん尻尾も力強く振っている。
ウーッワンワン、ガウーッからの一連の動作を人の言葉に翻訳すればばこうなるだろう。
「なんだおめー。
人様の名前を気安く呼ぶんじゃねーよ、カス。
しばくぞコラ!
ねえボス。
ボスからもあの無礼者になんか言ってやってくださいよ〜」
ってな感じろう。
瞬時に場が凍り付き、スキッパーがだけがあきれ返ったと言う表情を見せる。
病院の中では時間が止まり、マックス以外みな動きも言葉もない。
僕に走り寄り、前足をズボンにかけて二足立ちになったマックスが、千切れんばかりに尻尾を振っている。
静止した空間に存在する音と動きはそれだけだ。
いつもはマイペースなスキッパーも、さすがにこれはまずいと思ったのだろう。
これも浮世の義理と気を利かせて、凍り付いた場の空気を融かす行動にでた。
マックスに向かって二言三言吠えかけて叱責したのだ。
スキッパーに叱られて、次に凍り付いたのはマックスだった。
しばらくするとマックスは僕から足を下ろしお嬢さんの方を振り返る。
そうして改めて僕を見上げると「しまったぁ」という表情になって耳を伏せる。
マックスは少しちびりながら匍匐前進のような低姿勢でお嬢さんの足元まで進みへそ天の体勢をとった。
マックスの動いた跡にはオシッコのラインができている。
ちびりながらのへそ天は犬の土下座なのだろうか。
お嬢さんはマックスに吠えられ威嚇されたのが余程ショックだったのだろう。
しゃがみ込んでマックスを撫で始めたが大きな瞳から涙がこぼれている。
ショックの冷めやらぬお嬢さんと彼女にしがみついて必死の言い訳を試みるマックスが痛々しい。
お嬢さんはマックスを抱き上げてもただ遠くをみつめて虚ろな目をしている。
抱かれるマックスは激しく降る尻尾でちびったおしっこをまき散らしながらピーピー言ってる。
「あの、マックスちゃんも悪気はないのよね。
ちょっと忘れっちゃったって言うか。
・・・とも先生のことが好きになっちゃっただけなのよね?
そんなの全然大したことないわ。
大丈夫。
愛はDiversityでなんぼよ?
秋の空と同じ。
心変わりなんて引くも進むも簡単なことなんだから。
ねっ?」
るいさんはそんな二人を、しどろもどろの慰撫ととんちんかんなとりなしで更に追い込んでいる。
やがて珍妙な修羅場を演じたトホホな三人組がうつうつと病院を出て行った。
「犬もやらかしちまうってことはあるんですね。
ばつの悪そうな顔をする犬なんて初めて見ましたよ」
「あれだな。
マックスは環境に対する順応力が高い犬なんだろうな。
るいさんの友達は学校もあるしあまり散歩はしていないのかもしれん。
パイは朝晩。
散歩に連れ出して。
餌をやって。
色々面倒を見て。
一緒に昼寝して。
水遊びして。
日がな一日つかず離れずだったからなぁ。
マックスは盛大な勘違いをして。
やらかしちゃったんだろうな。
パイよ。
心を尽くす親身なおもてなしってのは、その気もないのに女の子を手懐けるテクの応用ですかな?
お前さんも佐那子ちゃんやら晶子ちゃんやらルーシーちゃんやら雪美ちゃんやら。
暖簾に腕押し柳に風なんて感じの飄々とした風体でその実モテモテだしするし。
女の子ばかりか犬までもとは。
余程な手練れの者とお見受けした」
https://kakuyomu.jp/my/works/16817330653569306112
マックスの世話を一切合切僕に押し付けたくせに。
僕と彼女たちの関係性がご主人様と下僕って言う実情を知ってるくせに。
ともさんがニヤリと人の悪い笑いを浮かべる。
「それでもマックスはスキッパーに叱られてすぐに事の次第を察したのは賢かった。
るいさんの親友には気の毒したがな」
仕方ないよと、ともさんはこんどは人の良さそうな顔で朗らかに笑う。
「少し僕も調子に乗り過ぎました」
マックスがいなくなって、僕も大いに寂しくなってしまったのはここだけの秘密だ。
柄にもなく僕をポンポンしにきたスキッパーにはお見通しだったようだが。
スキッパーにも優しいところはある。
「ところでるいさんったら「愛はDiversityでなんぼ」なんて仰ってましたよ?
それから「心変わりなんて引くも進むも簡単なことなんだから」なーんてことも仰ってましたね」
僕と腐れ縁の魔女たちとの実情は知られても、彼女たちとの真実は決して明かせない。
https://kakuyomu.jp/my/works/16817330653569306112
そんな僕のお悩みに、一石投じてきたともさんへの細やかな意趣返しである。
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