第13話 男はつらいよ
「先生。
酔っぱらっててごめんよ。
労働者はね。
一日の仕事を終えるとね。
呑まなきゃいられないんだよ」
黒田さんはいっそ無邪気とも思えるような満面の笑顔だが色は赤い。
黒田さんはいつもご自分のことを労働者と自慢げに仰る。
なるほど今日だって油汚れのついたグレーの工員服を着ていらっしゃる。
大手自動車メーカーが営む修理工場でメンテの仕事をなさっているのだ。
黒田さんはもう嫁がれた娘さんが、中学生の頃に拾ってきた柴犬そっくりの老犬を飼っていらっしゃる。
名を彦蔵と言う。
彦蔵のお散歩は工場から帰った黒田さんが、毎日楽しんでいる日課だ。
病院に御用がある時、黒田さんと彦蔵はいつも六時前後に来院される。
黒田さんは工場から帰宅して、そのまま着替えをなされずに彦蔵の散歩に出るのだろう。
「いいですねー。
私も早く仕事を終えて一杯やりたいですよ。
それじゃ、混合ワクチンの注射をします」
僕はともさんに三種混合ワクチンの注射器を渡す。
「先生も分かってるねー。
労働の後の一杯は格別なんだよ」
黒田さんの赤ら顔が嬉しそうだ。
思うに黒田さんは余り酒にはお強くない。
彦蔵の散歩のときにカップ酒かビールを一つ買い求めて公園のベンチで飲む。
黒田さんはそれが楽しみで彦蔵と散歩しているようなものだなんて仰っている。
けれどカップ酒一杯、缶ビール一本程度の酒量でいつも結構できあがっているからね。
酒を呑む口実で犬を飼ってるなんて大笑いしているのだけれどどうだろう
黒田さんが娘さんの残していった彦蔵を可愛がっているのは見ていて良く分かる。
毎年きちんとフィラリアの薬を飲ませているし、混合ワクチンの接種もお忘れになったことはない。
嫁いだ娘が残していった犬を可愛がる自分がちょっと恥ずかしいのかもしれない。
酒飲みの労働者というペルソナは、黒田さんの照れ隠しなのではあるまいかと僕は考えている。
「黒田さんって面白い人ですよね。
自分のこと労働者なんて言っちゃうし。
仕事の後の一杯じゃなくて、労働の後の一杯って必ず仰るし。
あれって、黒田さん一流の韜晦だったりするんですかね」
「いつもいたずら小僧みたいな目をして笑ってらっしゃるしな。
それはあるかもな。
わざわざ汚れた工員服で彦蔵の散歩してるしな。
なんだか工場労働者としてのご自分に満足されていて、一日の仕事の終わりに犬の散歩をして一杯やる。
そのことに無上の喜びを感じてるって風情だな。
『意味のある日、無駄な日があるのではない。この一日、またこの一日、毎日毎日が高価なのである』
なんてヤスパースは言ってるがな。
黒田さんは人生の達人かもしれん」
「ヤスパース?」
「ドイツの哲学者だよ。
ユダヤ人の奥さんをかばって自宅に立てこもり、ナチに抵抗を続けたっていう人だ。
気骨のある実存主義の代表的な哲学者さ」
ともさんはの教養は時に僕にめまいを催させる。
「しっかし、日々を楽しむって言っても黒田さんは小林とは大違いですね」
僕は自分の無教養から目を逸らすため、慌てて話を明後日の方向に持っていく。
「・・・おう。
確かにそうかもしれんな。
小林は人生を楽しんでるが断然エピキュリアンって口だな」
エピキュリアンくらいは僕も知っている。
古代ギリシャの哲学者エピクロスは快楽を人生の最高善と説いた。
エピキュリアンとはその学説を曲解して、官能的、刹那的な快楽を求めることに価値を見出した快楽主義者や享楽主義者のことを言う。
「確かにともさんが仰る通り。
あいつはエピキュリアンそのものと言えますね」
「それじゃ、田山先輩宜しくお願いします。
加納も当日は遅れんなよ。
お前受付なんだからな。
ちゃんとしたカッコしてこいよ。
それじゃな。
しっかり働けよー底辺労働者。
がんばれがんばれ代診!
フレーッフレーッ代診!」
小林は嵐のようにとも動物病院を訪れ竜巻の様に立ち去った。
「あいつ、ソアラに乗ってるんですね」
「だな。
どうやら実家を継ぐご褒美に買ってもらったらしい」
「とんでもないボンボンですね」
「とんでもないボンボンだな」
小林陽久は大学が僕と同期で、かつ同じ動物病院で代診を勤めた元同僚であり友人だった。
ともさんとは研究室の先輩後輩の関係だ。
「あいつ結婚するんですね」
「結婚するんだな」
小林は今度結婚することになり、ともさんにはスピーチを僕には式場の受付を依頼に来たのだった。
「式場は明治記念館ですって。
お金持ちは違いますね」
「金持ちは違うもんだな」
小林は都内の大病院の跡取り息子だ。
学生の頃から車だスキーだヨットだと、遊び方も半端じゃなかった。
金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、誰とでも仲良くなれる男だった。
誰に対しても平等に友好的だったが、自分に非の無い理不尽に対しては、相手を選ばず敵認定してやっつけた。
金持ちのクズ野郎であればアンチも多かったろうが、どちらかと言うと気持ちの良いナイスガイ寄りの男だった。
お金がある良い男とくれば女性にモテルし友達も多かった。
これで学校の成績でも悪ければ多少の溜飲も下がろうものだがあいにく頭も切れた。
「俺、本当は大工になりたかったんだよ」
大病院の跡継ぎにしては素っ頓狂な進路希望だったが、小林は密やかな望みを裏付けるように手先が器用だった。
忌々しいことに小林の外科手技は超一流なのだ。
「あいつは昔から金も才能もある、もってる男ですよ」
「だな」
事程左様に小林は有能なお坊ちゃんだったが、お坊ちゃん故の弱点も持っていた。
僕はそれを知っている。
「あいつわずか一年で代診を上がったんです」
「そうなのか」
小林と同じ釜の飯を食った前の病院はまるで蟹工船だった。
院長と小林の父親が先輩後輩の関係ということは聞いたことがある。
小林の父親は息子に後を継がせる前に試練を与えようとしたのだろうか。
獅子が子を谷に突き落とすっていうアレだ。
「4月1日が仕事始めだったんですけどね。
当人はそれを知らなかったらしいです。
小林が病院に現れたのは丁度一週間後でしたよ。
なんでも北海道で春スキーを楽しんでいたらしいんです。
こちとら初日から三連チャンで午前様だったと言うのに、ヤツときたら悪びれた風もなくて。
エイプリルフールかよって言って笑ってました。
だけど何年も前からそうしてたって感じでニコニコと、すぐ職場に溶け込みましたね。
あれは人徳と言うか一種の才能ですかね」
「ある意味大物だな」
苦労知らずなお坊ちゃま君は仕事はできた。
少なくとも僕よりできた。
人柄も良かった。
少なくとも僕より良かった。
「だけど小林にも弱点はありました」
「なんだか嬉しそうだな、ヲイ」
「何もかも負けじゃ僕も立つ瀬がありませんからね」
ついうっかり性格の悪さが露呈してしまった。
ともさんも苦笑いをしている。
「さすがの小林も生活環境を自分でコントロールできないのは辛かったようです」
「代診生活でか?」
「代診生活で、ですよ。
九時から十九時までの正規診療時間。
ほぼ常態化した残業。
夜中の呼び出し。
不定期な週休。
盆暮れ正月休みなし。
連休なし。
薄給は全然気にしてませんでしたけどね」
僕は肩をすくめて見せる。
「で、小林はどうなったんだい?」
「脂漏性皮膚炎か。
アトピー性皮膚炎か。
はたまた真菌症か。
全身に痒みを伴う皮膚炎が出ちゃいまして。
元々、代診は二年っていう約束だったらしいんですけど一年目で円満退職です。
あんなに苦しんでた皮膚炎が、家に帰って上げ膳据え膳生活に戻ったら、治療しなくても二週間で完治ですって。
小林曰く「ストレスが原因だろうぜ」ってことでしたね」
「小林ほど楽天的で飄々と人生を楽しんでるやつがか?
ストレスに弱いってか?」
「当人は「俺は育ちが良いので繊細なのさ」なんてほざいてましたけど。
本当にそうなんでしょうね」
「いやいや、お坊ちゃま君はストレスが弱点だったのか。
それは意外だな」
ともさんが妙に感心した様子でフムフムとうなずいている。
「僕の見る所、さっきも言ったように。
小林にとってのストレスは、どうやら仕事が忙しいとか人間関係がどうのこうのってことじゃないみたいです。
自分で納得のいくように環境をコントロールできない。
ストレスはこの一点につきるようです。
仕事の時間が長引こうと埋め合わせの自由時間が設定できればよし。
あれしろこれしろと言われても自分なりに考えて結果を出せればよし。
チャップリンの“モダン・タイムス”やルネ・クレールの“自由を我等に”みたいのは真っ平御免ってことらしいです」
「するとあれかい。
逆の見方をすれば。
仕事がどんなに忙しかろうが。
対人関係に軋轢あろうが。
小林は自分で決定して受け入れたことならストレスにはならないってことかい?」
「おそらくそうだと思います。
ともさんと同じであいつも研究室は内科でしょ?
あんな昼も夜もない一年三百六十五日日々是決戦みたいな研究室で結構楽しそうにやってましたからね。
強制的に入室させられたなら公衆衛生の教室だって持たなかったんじゃないですか?」
「と言うことはパイよ。
お前さんと小林が勤めていた病院は、噂には聞いていたがよっぽどだったってことかい?」
「そうですよ。
よっぽどな蟹工船でしたよ。
おかげさまで勉強にはなったし臨床経験もぶ厚く積めましたけどね。
何と言っても診療の密度と比重が半端なかったですから。
だけど僕はともさんに呼んで貰えて幸いでした。
こうして真っ当な人間として更生できましたからね」
「なるほどねー。
それは御同慶の至り。
それにしても小林ってのは面白いやつだな」
「そうなんです。
オモシロイやつなんですよ。
なんだか自由自在って言うか。
それで今度はいきなり結婚ですからね。
笑わせてくれます」
「そういや、親父さんも引退らしいな。
このあいだ内科OB会でそんな話を耳にしたぞ」
「そうなんですか。
するとあいつの病院はこれからますます大繁盛ですね」
「なぜに?」
「あいつの婚約者。
さっきともさんもお聞きになったでしょ?
大石蘭香さんって言うんですよ。
兵庫あたりの大病院の娘さんです。
容姿端麗明眸皓歯おまけに人格者で成績抜群という反則女子ですかね。
所謂、才色兼備っていうニーチェも驚く超人です」
「それは呆気にとられるね」
「僕みたいなオタクでネクラな底辺カーストのモブにとっては、常世に降臨した女神様ってところですかね。
卒業後は院に進んで、去年病理でドクターを取ったらしいですよ?
そんな花も実もあるインテリ小町が小林と所帯を持とうってんです。
かてて加えて二人とも資産家の坊ちゃん嬢ちゃんじゃないですか。
才能の中央集権です。
資産の集中です。
能力や富の不平等偏在ですよこれは」
「確かに。
業界でも最強の夫婦になりそうだな」
「シュプレヒコールの声と打ち振られる革命の赤旗が目に見えるようですよ。
結婚式では中島みゆきの“世情”でも歌ってやりたいところですが。
まあ、もうすぐ二十一世紀ですしね。
昭和の後がどんな時代になるのかなんて皆目見当がつきませんけどねぇ。
大部屋で一生を終えそうな僕みたいな同級生としては誇りに思える二人です。
スター街道まっしぐらなふたりには、幸せになってもらいたいもんですよ」
「だよな」
「だけど二人が結婚するだなんて。
共に六年間を過ごした級友としてはびっくりです。
小林と大石さんと言えば、学生時代は仲が悪いことで有名だったんですけどね。
楽観主義のおぼっちゃま君と出来過ぎお嬢様が険悪な仲なんて、まるでテッパン少女漫画みたいに妙な感じでした。
そういや二人の喧嘩は、みんなから忠臣蔵とか薔薇戦争とか言われてましたっけ。
結末は安手のドラマも顔負けの大団円ってわけですけど。
卒業した後二人にはいったい何があったんですかね?
今度、そこんとこ問い詰めてみますよ」
「・・・小林・・・大石・・・。
小林平八郎と大石内蔵助か?
それで忠臣蔵。
陽久・・・ヨーク家?
蘭香・・・ランカスター家?
白薔薇のヨークに赤薔薇のランカスターか?
それで薔薇戦争。
まるで判じ物だな」
ともさんが謎解きをして大笑いする。
「黒田さんっていつもお幸せそうな感じですよね。
油まみれになりながら一日働いて。
仕事が終わると家に帰って彦蔵の散歩がてら一杯やる。
時々一緒にいらっしゃる奥様も感じが良くてらして、ご夫婦仲も良さそうです」
「夫婦で来るときは黒田さん吞んでないな」
ともさんはまだクスクス笑っている。
「娘さんの旦那さんは小学校の先生で、娘さんとは幼馴染って黒田さん仰ってましたよね。
黒田さんには失礼ですけど山田洋二が引用しそうな日本の典型的庶民の家庭と、その慎ましやかな幸せって感じがしませんか?」
「いかにもパイの言う通り。
いっそ作り物臭いくらいに細やかで気配りが効いた小市民的幸福がそこにあるな。
先日お孫さんができたそうだしね。
・・・黒田さんの世代の大企業勤めなら年金も手厚いし老後の不安も少ないだろう。
あの世代。
俺たちの親世代は戦争で酷い目にあったのにくじけもせず。
高度経済成長時代の戦後日本を必死になってけん引してここまでたどり着いたんだ。
黒田さんは幸せにならなきゃいけない人達を代表するひとりだと思うぞ」
ともさんは妙に改まって真面目な表情になる。
「ですよね。
そこで小林と大石さんです。
ふたりともまだ若いですけど黒田さんおなじくらい善人だと思うし、仕事や人生にもちゃんと向き合っていると思うんです。
でもどうしてですかね。
両方の幸福を考えるとなんだか不公平な感じがしちゃって。
僕は小林のヤツを嫉んじゃってるのでこんな気持ちになるんですかね。
幸福に質量なんてものがあるなら、どんな幸福も光速と同じで不変って気がするんですけど」
僕はモブからすれば高嶺の花同士である小林と大石さんが結婚して。更に幸せになっていきそうな未来に嫉妬しているのだろうか。
何だか話している内に、惨めな気持ちが込み上げてきたのだった。
「パイよお前さん前言っていたよな。
産業獣医ならいざ知らずペットを診療してお金をもらう仕事って本当に人のためになってるのかってな。
こうも言ってたぞ。
農民や職人や芸術家、学者と違って、銀行員や政治家や獣医ってのは人類にとって必要不可欠なものじゃないってな。
確かにパイの言う通りだと俺も思う。
地球の外から知性ある存在がやってきて人類とは何ぞやと問われた時。
誇りをもって差し出せる人材は、農民と職人や芸術家、学者くらいだろうなってな。
俺たちの仕事は虚業と言ってしまえばその通りなのかもしれん。
毎日好きなことやっていて、それが仕事でたつきを立ておまんまを食ってる。
パイの気持ちの中じゃそんな自分の仲間。
それも仲間内でもトップを走る小林達と、地に足の着いた下駄履きの生活者である黒田さんを色々比べちまってるんだろう」
「そうなんですかね」
「パイのモヤモヤがすっきりと解消する魔法みたいな答えは多分ない。
だからな・・・」
「俺たちは好きで仕事していているのに、仕事の相手がありがとうございましたと言って報酬を支払ってくださる。
頭を下げられてお金まで貰える。
そのことをゆめゆめ忘れるべからず。
もう先に、ともさんが僕を諭してくれた言葉は決して忘れませんよ?」
「パイよ。
お前の口から聞かされるとなんだか偉そうで少し気恥ずかしくなるな。
まあ、そいつを忘れなければ黒田さんみたいな社会にとって本当に必要な人達のため、俺たちみたいな者だって少しはお役に立てるってもんだぜ」
ともさんは大きな手で僕の頭をわしゃわしゃと撫でる。
真っこと、男女の仲なぞわからないものだが、願わくば小林や大石さんがともさんみたいな人生観を持っていれば良いな。
心からそう思った。
真っこと、難しいことなんだけどね。
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