第11話 ジョーズ
「いやー。
夏はやっぱりスイカですよ」
「だな」
僕たちは休診となる日曜日の午後。
るいさんが差し入れてくれた冷え冷えのスイカを食べていた。
「常連のお客様に農家の方がいらして、昨日三個も頂いたのです。
一晩店の冷蔵庫で冷やして、早速お持ちしました」
るいさんがとびっきりの笑顔だ。
姉や高校の頃からの腐れ縁で付き合いのある淑女連が、事あるごとに僕の視界の中でうろちょろしている。
僕は彼女たちに飼い慣らされ、色々と躾やもしかしたら洗脳もされている。
だから美人は見飽きているし何より耐性がある。
明眸皓歯だろうが妖艶だろうが動じないように条件付けされているのだ。
僕は“時計仕掛けのオレンジ”の主人公アレックス君に密かに共感しているくらいだ。
それはSSSの内緒ごとではあるが・・・。
https://kakuyomu.jp/my/works/16817330653569306112
それでもるいさんは、十分に鑑賞の余地がある才色兼備で感じの良いお嬢さんであると公式認定したい。
ともさんには、るいさんのお取り扱いをくれぐれも丁重にとお願いたいものだ。
涙が絵になる娘さんもいるが、るいさんは断然笑顔の方が魅力的で目の保養になる。
退廃を秘めた青年の疲れた目には、るいさんの笑顔がビタミンB₆やB₁₂よりも良く効く薬であることは確かなのだ。
夏休みの時期とはいえ学生であるるいさんはいざ知らず、ともさんと僕はお仕事の日々だ。
多摩丘陵を吹き抜けてくる南の風は、多少潮の香りを含んでいるような気がするからね。
学生の頃よく行った湘南の海がふと恋しくなる。
こうして休診の脱力に浸りながら、潮風を夢見てスイカを食べていると、なんだか学生の頃に戻ったかのような錯覚さえ覚える。
座の中に少女の明るい色彩があると、おっさん予備軍のくたびれかけた青年の心にも潤いが生じるものらしい。
笑いさざめくるいさんの愛くるしさや、屈託のないともさんのにこやかな相好を眺めていると、のどかで憂いのない時へのありがたさが身に染みるよ。
まるで低予算だが脚本は良く書けている青春映画を、一番前の席で見ているかのような眼福だね。
・・・なんだが、青春の回想に浸りながら渋茶を啜る御隠居さんみたいになってしまった。
・・・だがしかし、好事魔が多しとはよく言ったものである。
僕たちは駐車場に小さなテーブルを出してスイカを食べていた。
とも動物病院の駐車場は車輪の幅で芝生に枕木が埋め込んである。
設計者の目論見通り、芝草と木材のおかげで照り返しがほとんどない。
裏の雑木林を抜けてくる風とあいまって、駐車場はこうして屋外でくつろいだり、バーベキューにもうってつけなスペースなのだ。
病院の前は、住宅地をはずれた雑木林の中を通る道なので車の行き来もあまりない。
そんな駐車場で和気あいあいとスイカを食べていると突然、目の前に車が止まった。
「ああ、先生!
御在宅でよかったです」
言わずと知れた急患だった。
「後はるいにお任せ!
先生達は仕事して下さいな」
るいさんがそう言う前にともさんは既に立ち上がっていた。
僕は未練たらしく、せめてもう一口とスイカにかぶりつく。
「スイカは逃げたりしませんよ、加納先生。
早く、お仕事にいらっしゃい」
「は、はーいっ」
綺麗な女の人を鑑賞するのは好きだが、昔から実存としての女性は不得意だ。
運び込まれたのは溝部さんちの諭吉だった。
諭吉は筋肉質のマルチーズだ。
船舶技師のご主人とヨットで海に出ることも多いと仄聞する。
諭吉は洋犬には珍しく主人はおとうさん一人と思い定めている。
それもあってか、おかあさんと娘さんのことは舐め切っていて歯牙にも掛けない。
自儘で狷介な性格はスキッパーとクリソツかも。
予防注射の時もいつだって偉そうで、お父さんと一緒の時には僕が保定するのは難しい。
ただ、どうしたわけか、諭吉はともさんが注射をしたり保定しても怒らない。
そんな時にスキッパーの目を見れば、僕とともさんの人としての格の違いだと嘲笑の色を浮かべる。
同族がそういうのだからそうなんだろうと、僕も渋々ながら認めざるを得ない。
両雄あい立たずと言う。
そのことがあるのかどうか。
最近は諭吉が来院するとスキッパーは、決まって奥に引っ込むようになった。
スキッパーははなっから諭吉を相手にしていないのだが、諭吉は違う。
スキッパーを目にするとやたらと突っかかるのだ。
そうした事が度重なり、どうやらスキッパーは諭吉と顔を合わせるのが面倒になったらしい。
諭吉の狷介さはスキッパーと違って、賢さを伴わないだけまだましだが、可愛くは無い。
「今日は主人が留守で諭吉がちっとも言うことを聞かなくて・・・」
諭吉はどうやら熱中症のようだった。
「娘と諭吉を連れて車で森林公園までまいりました。
諭吉も公園では機嫌が良くて・・・
公園は涼しいし、お散歩してる時は特に問題も無かったのです」
ともさんがおかあさんに話しを聞いている間、僕はシンクで諭吉にシャワーを浴びせている。
診察台の上に乗せられた諭吉を見た瞬間に、ともさんの指示が飛んだのだ。
「加納先生。
諭吉を取り敢えず冷そう。
冷やしながら熱も測ってね」
諭吉の目は虚で呼吸は荒く、口の周りは唾液で濡れているが、だらりと垂れた舌は乾いて紫色だ。
直ぐにシンクまで運ぶため抱き上げると、身体が熱い。
肛門に差し込んだ体温計は四二度まで上がる。
「家に帰るまでは諭吉も上機嫌だったのです」
お母さんが泣いている娘さんを慰めながらともさんに説明している。
「諭吉はとにかく車に乗るのが大好きで、今日も大喜びでした。
主人が居ないのに車で森林公園に行ったのが悪かったのですね。
お昼頃に帰宅したのですが、どうしても車を降りないと言って聞かないのです。
以前にもそうした事がありました。
けれども主人がいれば諭吉も素直に言う事を聞いてくれるのです。
ですが今日は・・・」
「おとうさんがいらっしゃらないので言うことを聞かなかった?」
「そうなのです。
どうしても車から降りないと言い張って・・・。
仕方がないのでドアを全部開け放って諭吉の気が済むまで車に乗せておこうと・・・。
娘と着替えをして昼食の準備をすませて。
三十分ほどたってから迎えに行ったのですが、それでも車を降りないと・・・。
十五分おきくらいで様子は確かめていたのですが、二時間ほどでおかしくなってしまって・・・」
諭吉が熱中症になった経緯は聞こえてくるともさんの聴取で良く分かった。
武蔵山市の水道は井戸水のせいか夏でも水温が低い。
大量の冷水シャワーのおかげで諭吉の虚ろだった目にも光が戻ってきた。
「お休みかと思ったのですが、取るものも取り敢えず来てしまいました」
「すぐにお連れになって正解でした。
今、加納が諭吉の体温を下げています。
人や馬と違って犬は汗をかきませんからね。
熱中症が疑われるときはまず体温を下げてやることです。
脱水や電解質の補正を考えるのはその後です」
諭吉は正気に戻りつつあるようだ。
筋肉質の身体に力が入り始めるが分かる。
諭吉が少し首を傾け僕と目が合った瞬間だった。
「痛いーっ」
諭吉にいきなり咬まれた。
「どうやら諭吉が少し元気になって来たようですよ。
加納センセ。
諭吉を連れてきて」
僕は左の人差し指から血をダラダラ垂らしながらともさんの用意したタオルの上に諭吉をおいた。
「まあ!
諭吉!
命を救っていただいたというのになんてことを。
加納先生、本当に申し訳ありません」
おかあさんがおろおろしている様子を見て諭吉が満足そうな顔をする。
さっきまでの様子が嘘のようだ。
まだ少しぼんやりしているようだが高飛車で狷介な態度は六割方元通りだ。
「舌や歯茎の色は正常に戻りましたね。
思ったより症状は軽かったのでしょう。
多少の脱水はあるようなので輸液をしておきます」
ともさんはてきぱきと処置を済ませ、そのまましばらく様子を見ることになった。
小一時間ほど観察を続け、体温が平熱に戻っているのを確認する。
床に下ろすと歩様が正常なので、ともさんは諭吉を入院させず、帰宅させることにした。
僕としては、もうこれ以上諭吉の不興を買いたくなかったので正直ホッとした。
目は腫れぼったくなっているが、笑顔を浮かべる娘さんに抱かれた諭吉は、すっかり尊大な態度を取り戻している。
僕と目が合うと少し歯をむき出して唸り二回続けてくしゃみをした。
横でそれを見ていたおかあさんが、赤くなりながら僕に何度も頭を下げるのは、こちらがいたたまれなくなる程にお気の毒だった。
『諭吉の命を助けてくれたのは慌ててお前を病院に連れてきたおかあさんだよ?
命の恩人であるおかあさんに恥をかかせて本当に恩知らずな奴だな』
僕の心の声である。
僕はじんじん痛む指に絆創膏を張ってもらった。
るいさんにだ。
るいさんの優しい気配りで少し寛容な気持ちになったところ、スキッパーの視線に気付いた。
未熟者をあざ笑う目だった。
僕と目が合うとスキッパーは、さっき諭吉がやったのと寸分違わぬくしゃみを二回してのけ、ニヤリと口元を歪めた。
・・・僕は職業選択を間違えたのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます