第10話 千と千尋の神隠し
「ともさーん。
高峰さんから唐揚げをいただきました」
高峰さんは僕達とも動物病院の男所帯を心配なさって、時々高栄養の副食を差し入れて下さる気の良いオバサマだ。
「おっ。
嬉しいね」
ともさんは新聞を放り出すと、高峰さんにお礼を言おうと席を立つ。
ちょっとしたタイミングのズレだった。
お皿のラップを元に戻す際のことである。
僕の横を通るともさんの身体が、お皿に触れ唐揚げが一つ転がり落ちた。
「おっと、すまん」
「拾っておきます。
スキッパーにでもお裾分けしときます」
僕がそう言い終わる間もなかった。
それ程までに、当のスキッパーの動きは素早かった。
「あっ、コラ」
チャンスを狙っていたとまでは言わない。
ちょっとしたタイミングの一致だった。
スキッパーは唐揚げに食らいつき余裕の目付きで飲み込んだ。
飲み込んだかのように見えた。
「んッ。
どうしたスキッパー」
してやったりと言う視線を投げてきたスキッパーの様子が変だ。
口を開いてえずくような動作をする。
生意気な目付きが何やら哀願のそれに代わる。
目下の僕に助けを求めてる風だ。
「・・・唐揚げ。
咽喉につまったの?」
慌てて駆け寄ると『そんなの見りゃわかるだろ。早く何とかしろ』と態度だけは高飛車だ。
僕はスキッパーを抱き上げると焦って背中を叩いてみたが苦しそうに藻掻くだけだ。
「ちょっと待て。
スキッパー。
今鉗子で取ってやる」
スキッパーは涙目で『もう待てねー』訴えかける。
「おう、どうしたい?」
そのタイミングで高峰さんへのお礼を済ませたともさんが戻ってきた。
「スキッパーが咽喉に唐揚げを詰まらせちゃったみたいで。
今、鉗子でとろうかと」
「どれ。
貸してみな」
ともさんは片手でスキッパーの両足を持ってつかみ上げると上下に振ってバンバン背中を叩いた。
すると、スポっという感じで唐揚げが転がり落ちた。
床に下ろしてもらったスキッパーは『本当に無能で使えないヤツだなおまえは!』と言う視線を僕に投げかける。
ともさんには『ありがとうよ。だが少し乱暴だぞ』と一瞥をくれ水を飲みに行ってしまった。
「すんません。
僕、動揺しちゃって」
「あれでダメなら押さえつけて鉗子だがな。
すぐに取れて良かった。
餅が咽喉につっかえた時は掃除機も有効らしい」
ともさんはスキッパー、少し太ったなと言いながら笑った。
「不注意でした。
まさかあのスキッパーが、唐揚げをのどに詰まらせるなんて不調法を演じるとは。
夢にも思いませんでした。
あっ」
僕は後ろに忍び寄ったスキッパーに膝カックンをくらう。
「なんだ、スキッパー意地汚いお前が悪いんだろ!」
スキッパーはワンワンと吠えながら歯をむき出して侮蔑の視線を向けてきた。
『藪医者のくせに聞いた風な口ききやがって』と言ってるのが分かった。
「まあ、まあ、スキッパー。
そのくらいにしといてやれ。
まだパイもひよっこだがな、この間はお手柄だったんだぞ。
司馬さんちのダッタンな。
食道閉塞を見事解決してくれたぞ。
おまえも覚えてるだろ?」
ともさんが仲裁に入ってくれる。
するとスキッパーはフンと鼻を鳴らした。
『あれでお前の手柄といえるのか?
笑止。
だが今日の所は、ともに免じて勘弁してやる』
スキッパーは目で捨て台詞を吐くと奥に引っ込んでしまった。
「・・・見事解決は言い過ぎですよ」
「いやいや、臨床家としてはなかなか良い判断だったぞ。
俺もすぐには思いつかなかった」
にこにこしながらともさんは僕を褒めてくれた。
先週の土曜日。
午後の診療が終わる間際のことだ。
これから焼肉食べ放題でビールを呑もうと二人でそわそわしているところだった。
司馬さんご夫婦が件のダッタンを抱いて病院に飛び込んできたのだ。
ダッタンは齢一六歳になろうかと言うパピヨンだ。
白内障で目が良く見えず、聴力も失って認知障害もかなり進んでいる。
「先生。
終わり間際にすみません。
さっき、ダッタンに鶏ササミの燻製をあげたんですがそれから様子がおかしくなってしまって」
御亭主が酷く動転している。
夫人はダッタンをバスタオルにくるんで涙目になっている。
「ササミの燻製を与えたというのは確かですか」
ともさんはおふたりを落ち着かせようとしているのだろう。
低くゆっくりとした声で尋ねる。
「そうなんです。
食が進むので毎晩、ごはん前にあげてるんです。
それが、今日に限って・・・」
御亭主の目が少し血走っている。
「病院に来るまで、具体的にはどういった様子でしたか」
ともさんは僕が用意したカルテに稟告を書き取り始める。
「燻製をあげてからなんだか生唾を飲み込むような動作ばかりして。
何度か水を飲んだのですがしばらくするともどしてしまって。
病院ももう終わりだし、様子を見ようかともおもったんですが」
「連れてきてもらって良かったです。
時間のことはお気になさらずに。
それで、もどしたものには何か混ざってましたか。
燻製を上げる前に食べたものとか。
胆汁が混ざると黄色い吐瀉物がでることもあります」
「吐いたものには色もついてないし何も混ざってませんでした。
三時ごろ卵ボーロをあげたんですが」
「ただの水って感じでしたか?」
「・・・そうです。
飲んだ水がそのまま出たような。
なあ?」
御亭主は夫人を見る。
「・・・はい。
タオルは水だけが染みたように見えました。
未消化の食べ物は含まれず色もついてませんでした。
ただの水のようでした」
夫人は涙ぐみながらも意外としっかりした答えを寄越した。
「加納先生。
レントゲンを撮るよ。
準備して。
少しだけ造影剤を飲ませる」
ともさんは僕にオーダーを出すと司馬ご夫妻に向き直る。
「おそらく、鶏ササミの燻製は食道に詰まっているのだと思います。
飲んだ水は燻製の詰まっている場所から直接逆流したのでただの水みたいに見えたのでしょう。
燻製は胃の手前で詰まっていますね。
だから吐いたものには胃の内容物が含まれてないし、色も着いていなかったのです。
これからほんの少し造影剤を飲ませてレントゲンを撮り、それが事実かを確かめます」
結論から言えばダッタンの症状の原因はともさんの見立て通り食道閉塞だった。
胸腔内の心基底部で異物がつかえていた。
形からすると丸のみにした鶏ササミの燻製だろう。
食道には弾力があるので、ある程度の大きさ迄なら、唐揚げみたいな塊でも胃まで辿り着ける。
だが食道には易々と通り抜けられない関門もある。
食道が心臓の上を通る心基底部と胃の入り口である噴門だ。
この二か所は大きな固まりが詰まり易い。
「さてどうする?
うちには内視鏡なんて気の利いたものはないしな。
軽く押して胃まで押し込めれば重畳。
多分消化されちまうだろ」
ダッタンは老犬なので司馬さんの許可を取って麻酔をかけ気管チューブを入れた。
心電モニターに問題はない。
「少し細めの気管チューブを使って押し込んでみるか」
気管チューブなら食道を傷つける可能性は低い。
ダッタンの口内には既に気管チューブが入っている。
そこに更にもう一本チューブが入る絵面は初めて見る。
手術台の上で仰向けに寝たダッタンの気管が二階だとすると食道は一階になる。
頸を前から見ると手前が気管でその裏側に食道があるからね。
「抵抗が強くて押し込めんな。
さて次はどうする?
ダッタンの年齢を考えると開胸はできんしな。
内視鏡のある病院を紹介するしかないか?」
ともさんが特に焦る様子もなく僕に話を振ってくる。
「押して駄目なら引いて見なって水前寺清子も言ってますよ」
問われた僕はちょっと焦っていた。
いつの間にやら足元にいたスキッパーが『ホントかよ』と僕を馬鹿にした目を向けてくる。
滅菌した状況下のオペではないのでスキッパーが見物にきていたのだ。
「そうは言っても心基底部まで届く長い止血鉗子なんてないしな・・・。
だが待てよ、パイ。
そいつはグッドアイデアかもしれん。
スキッパーよ。
パイの考えは正しいぞ」
ともさんが声のトーンを上げる。
「フィラリアのつり出し鉗子持ってきてくれ」
スキッパーはともさんを見上げて力強く尻尾を振っている。
スキッパーもそれはいけると思ったのだろう。
フィラリアのつり出し鉗子は正式名称をアリゲーター鉗子という。
長さが30㎝ほどある細長い鉗子である。
鉗子の先っちょだけが、ワニの口みたいに開閉する仕組みになっている。
犬の心臓糸状虫、俗に言うフィラリアは犬の心臓に寄生する寄生虫である。
フィラリアはソーメンのような色形長さの線虫だ。
蚊が媒介する寄生虫だが初めは目に見えないくらい小さい。
そんな小ちゃな虫も、半年ほど血管内で成長するとソーメンみたいになる。
感染したての頃は肺の毛細血管を通過できるので、肺動脈から肺静脈へと流れていけそうだ。
けれども、成長するとそうもいかなくなるのだろう。
ソーメンは毛細血管を通過できずに肺動脈の中で押せ押せの渋滞となる。
渋滞しているソーメンがある程度沢山になると、やがて心臓の弁がうまく機能できなくなることがある。
するとどうだろう。
酷い心雑音が聞こえて血尿も出るようになるのだ。
心雑音と血尿は、死へのカウントダウンが開始された合図でもある。
こうした、フィラリアの感染で時折発生する心雑音や血尿を特徴とす急性症状を、後大静脈症候群(vena caval syndrome)という。
業界じゃベナカバで通るごくありふれた病気だ。
蛇足ながら、ベナカバの手術ができるようになれば代診も一人前といえるだろうか。
手術の成否は、頚静脈からアリゲーター鉗子を入れて心臓まで挿入する手技の巧拙につきる。
心臓まで首尾よくアリゲーター鉗子が入れば、渋滞してもつれ合ったソーメンを吊りだすことができる。
これはやったものにしか分からないだろうが、かなり気持ちの良い手術だ。
ゾロゾロとソーメンが吊りだせるとたちまち心雑音がなくなる。
そうなれば手術は成功だ。
やがて血尿も治まって死にそうだった犬が元気になる。
ベナカバの手術は起承転結がはっきりしていて成果は劇的だ。
閑話休題。
前置きが長くなったがともさんは、フィラリアを吊りだすアリゲーター鉗子を使って、食道を閉塞している異物を吊りだそうというのである。
「・・・イージー過ぎるな」
ともさんは既に入っているチューブの先端までアリゲーター鉗子を入れ難なく閉塞異物を掴んだ。
そのままチューブごと鉗子を引き抜くと先っちょには、ふやけた鶏ササミの燻製が掴まれている。
異物はやはり鶏ササミの燻製だった。
「パイよ。
押して駄目なら引いてみな。
良いアドバイスだった。
アリゲーター鉗子はもともとが脆弱な大静脈内を手探りの操作で使う器械だからな。
太い気管チューブの中なら挿入は何のことは無い。
先端に異物があるのは分かってるしな。
いやいや、イージーなオペであった」
ともさんはよくやったと褒めてくれたがそれほどのことかと思う。
実際にアリゲーター鉗子を使うことに思い至ったのはともさんだしね。
スキッパーだって足元で『そうだ、そうだ』と言っている。
ダッタンは麻酔から覚めるとキョトンとした顔で司馬夫人に抱かれた。
夫妻は見送るともさんに何度も頭を下げながら、夜の街をお帰りになった。
「今日の焼き肉は俺の奢りだ。
パイよ。
ビールもたらふくお吞み」
ともさんはいつもにまして上機嫌である。
水前寺清子に感謝だ。
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