第9話 西部戦線異状なし

 「さーてと。

飯にしようぜ。

・・・るいさんがまたロイジーナの新作ランチを考案したらしい。

久々の自信作らしい」

ともさんが上目使いで僕を見る。

「なんか僕ちょっと食欲がなくて・・・」

「そー言うなよ。

せっかくのるいさんのお招きだよ」

ともさんがなんだか泣きそうな目をする。


 るいさんはご近所の喫茶店、ロイジーナの看板娘さんだ。

御愛猫のにゃんたを治療してお命を救ってからと言うもの、ともさんが公私ともにお世話になっている。https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938/episodes/16817330652436350969

 るいさんはすこぶる付の可愛らしい娘さんだ。

大学が忙しいのに、店長であるお父様をお手伝いするため、暇を見てはお店に出ていらっしゃる。

アンナミラーズのウエイトレスさんみたいなハイウエストのジャンパースカートと白いブラウスは目にも麗しい。

るいさんお目当てのお客さんも多いそうだから、真に看板娘を地で行ってる感じだ。

 見た目やお行儀や人格、それに頭脳はハイスペックなるいさんだけど、料理の腕だけは戴けない。

るいさんはお父様の力に成ろうと、これまで数多のランチを考案なさってきた。

だがしかし、るいさんランチの試食に挑むにあたっては、僕レベルの美少女萌えではとても太刀打ちができない。

ともさんクラスの博愛精神と進取の気性をもってしても、時に挫け慚愧の涙を流すことがあるくらいだ。

 るいさんランチの脅威度については店長であるお父様も良くご存じだ。

チャレンジャーな僕らが人身御供のお勤めを果たした後は、必ず特別ランチをご馳走してくださる。

それがなければ覚悟が足りない、僕みたいな意気地なしのディレッタントしてはどうだろう。

試食にかこつけて美少女とお近付きになる栄誉を賜るより、己の心身の健やかさを選びたいところだ。


 「パイよ。

お前の気持ちは痛い程分かるが、この俺が「ここはひとつ」と、頭を下げて頼んでるんだ。

どうか俺と一緒に飛んでくれ!」

ともさんが顔を引きつらせて哀願する。

「飛ぶって、清水の舞台からですか?

それとも特攻隊の片道飛行ですか?

そんな酷いこと言ってると、るいさんにこそっと言いつけますよ?

確かに、るいさんのランチには暗黒面を感じます。

何処か得体のしれないシスめいた無作為の悪意が秘められている気がします。

だけど一時の忍耐の後で店長の絶品ランチにありつけるんです。

しかもただで。

るいさんのランチは、できればご遠慮申し上げたい。

「勘弁してくれ〜」

それは僕の嘘偽らざる、心の底から振り絞る絶叫ではあります。

だけど、考えてもご覧なさい。

るいさんが例えシスだとしても、僕のマスターであるともさんが、公私でお世話になっているお方です。

ともさんのお願いとあれば。

パダワンたる僕はるいさんランチに突撃して、見事玉と散る覚悟だって出来てます。

ともさんと一緒ならるいさんが導く暗黒面にも堕ちます。

そうじゃないんです。

さっきのハエウジ症です。

視覚と嗅覚が催吐中枢と直結しちゃったみたいで・・・」

「ともさんのためなら玉砕戦も厭いません」とるいさんランチへの覚悟を示した後、僕の食欲がない本当の理由をともさんに話した。

 

「何気にパイよ。

るいさんランチに酷い言い様と思うが・・・。

はぁ〜。

残念ながらアレを食い続ければ、俺もいつか暗黒面に堕ちる気がする・・・。

それであれか。

パイの食欲が失せたと言うのは、るいさんランチへの脅威ではなく、五郎左のハエウジ症のせいってことなんだな。

パイの言う通り、ハエウジ症は見た目は悲惨だしあの独特の臭気には確かに食欲を無くすな」

ともさんは「そうなの?るいさんのランチが嫌なんじゃないの?」と意外そうな顔をする。

るいさんの足跡だって拝みかねないくせに、ともさんも大概薄情な所がある。

 「ハエウジ症ってやつは、梅雨時から秋口にかけては決して珍しくないぞ。

パイは初めてだったか?」

「話には聞いてましたが、実際を目の前にすると予想以上の・・・」

僕は込み上げてくる胃の内容物で言葉を詰まらせる。

「・・・確かに。

俺も初めて遭遇した時には食欲がなくなったもんだ」


 ハエウジ症は悲惨な病態だ。

ともさんが言うのには、主に外飼いの老犬や病気の犬に発生する異常事態だという。

なんと生きている犬の身体にウジが湧くのだぜ。

排泄物や雨で毛が濡れるとどこからともなく現れるイエバエ、ニクバエ、キンバエが卵を産み付けるらしい。

濡れる原因は体表の化膿巣から滲む膿汁や体液でもよく、櫛の歯のような黄色い卵が被毛に産み付けられるとのことだ。

「ハエってヤツは、不思議と若くて健康な犬にはたからない」とともさんは首を傾げる。

 ともさんによれば、患部局所や身体中がウジだらけになる経過はそれこそあっと言う間らしい。

数日で皮膚は月面の様に穴ぼこだらけになり、穴の中ではモコモコしたウジ虫がゾワゾワと蠢くのですと。

ウジ虫は具体的には魚の釣り餌に使うサシとかバターワームとかいうアレだ。

 治療を進めるためにはまず、患部周辺を綺麗に洗浄しウジを取り除かなければならない。

この作業は術者の神経を痛めつける。

僕は今日初めてともさんの指示を受けながら治療に当たったのだ。

本当に気持ち悪くてえずきが止まらなかった。


 「見た目は例えようもなく陰惨だし臭いもまったく異様だがな。

実際のところハエウジ症は予後が良い。

ウジを取り去って患部を清浄化できれば普通の外傷より治りはいいな。

いやむしろ化膿巣にハエウジ症が発症したなら、膿汁と壊死組織をウジが餌にして綺麗に処理しちまう。

正常な皮膚に食らいついて穴をあけ、組織を食らった場合でも化膿はしない。

そこに目を付けた製薬会社がウジの分泌物から分離したアラントインという物質を薬にした。

アラントインには抗潰瘍作用があるらしい。

粉薬に成形されて、床擦れの治療なんかに応用されてるな」

ともさんがしたり顔で「怖くなんかないんだよ」と言う。

「・・・ほんとですか」

「嘘か真か。

第一次世界大戦の時、西部戦線の塹壕戦で負傷者をウジで治療したらしい。

イギリス軍の軍医が戦傷にウジを放って膿汁や壊死組織を食わせて化膿を抑えたらしい。

もちろん創傷の治癒過程じゃウジが分泌するアラントインも一役買ったろう」

「パウル・ボイメル君もそれ見たんですかね?」

「パウル・ボイメル君はドイツ軍だからどうだろうなー。

だがそんな歴史的実例に倣ってマゴットセラピーなんて療法が考案された」

「マゴットセラピー?

何ですかそれは」

「マゴットデブリーメント治療とも言うらしいんだがな。

無菌ウジを化膿した潰瘍性病変に置いて壊死組織を食べさせ、患部を清浄化して肉芽組織の再生を促すんだとさ。

糖尿病でおきる下肢末端の壊死組織の治療に役立つらしい。

抗生物質が効かない症例にも有効だって言うから案外優れものかもしれん」

ともさんは本当に博識だ。

「驚いちゃいますね。

するとさっき治療した柴犬の五郎左も元気になりますか?」

「五郎左は特に大きな合併症も無いしな。

飼い主の小山田さんも泣いて五郎左に謝ってたし。

屋内に入れてもらって充分に栄養取って面倒見てもらえば復活するだろ。

犬のハエウジ症は、自分で身体を舐めたり擦り付けたりなんていう、セルフなお手入れできなくなった老犬や病気の犬に発生する。

五郎左は年を取って少し認知障害が入ってるだけだからな。

ちゃんと面倒見てもらえば今しばらくは大丈夫だろうさ」

 僕はなんだかほっとした。

ともさんの話を聞いて、ハエウジ症に立ち向かう勇気を少し醸成できたような気がする。

だが、できればこの先もハエウジ症に慣れてしまうような環境に身を置きたくはないなと思う。

飼い主さんたちには老犬や病気の犬を注意深く見守って欲しい。

それがいつでもご飯をおいしく食べたい僕の切なる願いだ。


 「ハエウジ症の真実には意外な蘊蓄があったろ?

と言うことで、パイよ。

どうやら吐き気も治まったようだし、ぼちぼち食欲も出てきたんじゃないか。

見ると聞くとじゃ大違いって言ってな。

ウジにだって効用はあるのさ。

さあ、塹壕から這い出して勇んでロジーナに突撃するぞ!」

 見ると食べるとじゃそれこそ大違いなんですけど。

るいさんランチに向かって勇気を奮い起こして突撃することに、どんな効用があるのでしょう。

塹壕を出てイギリス軍に突撃したパウル・ボイメル君と同じくらいに哀れな代診に、どうぞそこんとこを分かり易くご教示ください。

そんなことは口が裂けても言えない。

店長の特別ランチだけを希望の縁として、僕は引かれ者の小唄を呟きながらドナドナされた。

May the Force be with you.














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