第8話 フラットライナーズ

 「やばいです。

いきなり心停止です」

「焦んなくて良いからチョコっと心臓マッサージをよろしく」

老犬に発症した子宮蓄膿症の手術中に発生した突然のトラブルだった。

それまでなんの問題もなかった心電モニターが、いきなりフラットラインになったのだ。

なぜか呼吸は続いている。

外回り担当の僕はすぐに心臓マッサージを始める。

『焦んなくてよい』なんて言って全く動揺することなく手術を続行するともさんはなんなんだ。

突然の心停止だよ?

普通めちゃめちゃ焦るだろう?


 「なっ?

大丈夫だったろう」

ともさんの言う通り30秒ほど心臓マッサージを続けたら心臓の鼓動は再開した。

その後心電計に全く異常は見られないしバイタルに問題はない。

「年寄りの犬にはこんなことよくあるよ。

放っておいたって元に戻ったかもな」

ともさんは鼻歌まじりで膿の溜まった子宮を取り出す。

後は閉腹するだけだ。

「もし僕が術者だったらパニくったところです。

いきなり心電モニターがフラットラインになってアラートが喚き散らすんですよ?

こっちの心臓も止まるかと思いました」

「事前の検査でも問題なかったしね。

術中も心停止するまでバイタルに異常はなかったろ?

心停止後も呼吸は止まらなかったしな。

機械はその時点での状況を正確に知らせるだけだからさ。

アラートの警報音は確かにドキドキするけどな」

「心停止前のバイタルは心電図も教科書通りだし、呼吸と体温も正常。

血圧も毛細血管再充満時間はずっと正常でした」

「なんせ一五歳だからさ。

この歳になると術中のトラブルなんてなんでもありだよ。

そもそも今回の一時的な心停止はトラブルの内にも入らない、かもな」

ともさんの口調はのんびりだが手は早く閉腹は確実に進む。


 「それにしても、患畜がレントゲン写真付きで他院から回ってくるなんて珍しいですよね」

僕はガス麻酔を切るタイミングを計りつつ点滴の速度をチェックする。

「写真はイマイチ不明瞭だったし。

非開放タイプで膣からの排膿や出血もないし。

何より白血球数が正常ってのはな。

判断に迷ったのだろうな。

超音波エコーを使うと嘘みたいに診断が楽らしいが、高くて普通の病院じゃ手がでんだろう。

将来的には性能も上がって安くなるだろうがな。

・・・そしたらウチでも買えるかなー。

ビンボーはやだねー」

「でも紹介状の記載には多飲多渇多尿とありましたよ?

前回の発情時期を考え併せたらどうです?」

「それで試験開腹かい?

パイはなかなかの勇者じゃな」

ともさんが面白そうな顔をする。

「そんなこと言ってともさんってば、紹介状に目を通してチラッとレントゲン見たら。

すぐに切るって決めちゃったじゃないですか。

・・・それにともさん、紹介状を読む前に犬の顔見て「こりゃパイオかも」って呟いたの僕、聞いてましたよ」

 

 子宮蓄膿症(パイオメトラ)は避妊手術をしていない犬に見られる病気だ。

狼だった時代から、犬は雌に大きな負担が掛かるシステムを持っている。

そのシステムは「乳幼児死亡率を下げてやろう」という、ある意味画期的な犬と言う種の生存戦略の要になっている。

 システムの概要はこうだ。

雌犬には年に二回の発情があるのだが、その度に偽妊娠と言う現象が起きる。

偽妊娠とはその名の通り偽の妊娠のことだ。

交尾もせず受精や着床もないのに、犬の卵巣と子宮は発情の後、まるで妊娠した時と同じプロセスを辿る。

当然乳腺も乳管も発達して妊娠期間である二カ月を過ぎればお乳も出るようになる。

 面白いことに出産を経験しなくても、偽妊娠をした雌犬には母性すら目覚める。

発情の時期から数えて授乳に相当する期間。

出産しなかった愛犬が、ぬいぐるみを子犬に見立てて世話する姿はままごとの様で可愛らしい。

雌犬を飼ったことがある人ならば、そんな愛犬の振る舞いに覚えがあるかもしれない。

 こうした無駄とも思える雌犬の変化が、なぜ犬と言う種の生存戦略になるのだろうか。

答えは簡単だ。

それは血族で構成される群れの雌達が、生まれた子犬を寄ってたかって授乳し世話をすることにある。

答えはそれにつきる。

 群れの雌犬達は発情が同期するので偽妊娠の期間も一緒だ。

すると本当に妊娠して子供を産んだ母犬が、突然死んだとしてもどうだろう。

遺された子犬には乳母が何頭もいる計算になるので、無事に育つ確率が上がるだろう。

結果として、乳幼児死亡率は画期的に低くなりはしまいか。

乳幼児死亡率の低下は群れ、ひいては種の繁栄に直結すると考えられるのだ。

 だが種としての利益を得る一方で、雌犬は冷徹とも言える対価を要求される。

当然と言えば当然だが出産を経ないにしろ、雌犬の年二回の発情にもれなくついてくる偽妊娠は、相当な身体的負担になる。

年に二度繰り返される繰り返されるホルモンの暴風雨は卵巣や子宮、乳腺、乳管を確実に痛めつける。

それは結果として、子宮蓄膿症や乳腺の腫瘍形成を引き起こす原因ともなるのだ。

 狼や犬は雌の健康や寿命を犠牲にして種の存続と繁栄を図った。

けれども愛玩犬や家庭犬は群れの子育てに参加しないし進化の妙味とも無縁だ。

そうである以上、何かとリスキーな生殖器は早めに取ってしまうが吉である。

避妊手術を受ければ、愛犬が健やかに長生きできる確率は各段に上がるのだ。

犬の避妊手術が推奨される明朗快活な理屈である。


 「パイオは慣れてくると何となく表情で分かるんだよ」

ともさんが表皮を閉じ終わり、僕はガス麻酔を切る。

「なんかそれって素人をけむに巻く与太話みたいですね」

この後は気管チューブを抜管するタイミングを見ながら心電モニターを外す。

今回は術中心停止があったので心電モニターはぎりぎりまでつけておこうと思う。

「俺も最初はそう思ったんだけどな。

俺の師匠が言うんだよ。

診察室に入ってきた犬を一目見てパイオだなってな。

これがまた良く当たる」

ともさんは手術に使った器械の片づけをはじめる。

僕は疑わしいなという目線でともさんを見るが、ともさんは軽い諧謔を含んだ笑みを浮かべる。

結局のところ子宮蓄膿症は顔を見れば分かるという俗説の明確な根拠は教えてもらえない。

 「なんだかインチキ人相学みたいな話になっちまったな。

うまく説明できないんだが。

ホント、なんとなくなんだよ」

器械を洗い始めたともさんを横目に僕は抜管して心電モニターを外し、話題を変えることにする。

「子宮蓄膿症が犬の表情で分かるって駄法螺については、眉に唾を付けて話半分ってことにしときます。

それにしても、こうしてごろんってバットに乗った子宮と卵巣を見てると、なんだか解剖実習を思い出しませんか?」

いつもながら摘出臓器の生々しさには格別なものがある。

「・・・あれは辛い実習だったな。

辛いなんてもんじゃなかったな」

「ですよねー。

月曜日の午後から始まって毎日毎日土曜日まで。

午後は時間無制限のデスマッチですもんね」

「その日に解剖した部位についてのレポートは翌日に提出。

実習の後で前日に学んだ部位の口頭試問だもんな」

「そうですよ。

毎日レポートを書いて。

和名とラテン名を一晩で覚えて。

翌日は口頭試問ですからね。

あのスケジュールを考えた教授は鬼畜の類に違いありません」

「だよな。

要領の悪いやつなんか一週間ほとんど寝とらんのじゃないか」

「まあ、午前中の講義は寝てましたよね、みんな」

僕はともさんと顔を合わせて思わずぶるってしまった。

 それほどまでに解剖実習は過酷だった。

大学に入学して間もない頃に先輩から「獣医科は頭より体力だぜ」と言われた意味が身に染みて分かった実習でもあった。

 「泌尿生殖器って金曜日くらいでしたっけ?

もうなんかその頃はいい加減頭が煮えちゃってて。

後から考えると穴を掘っても入りたい。

なーんて恥ずかしいこともありましたっけ」

「ほう?

恥ずかしいこととは?」

「帰りの電車で帰宅方向が同じ同級生がいたんですよ。

ふたりで吊革にぶら下がりながら、vaginaeがどったらuterusがなんたらpudendumがかんたらって、変なテンションで議論する訳ですよ。

もちろん一八禁の和名も交えながらです。

議論の相手は女子学生ですからね。

・・・結構可愛い子でした。

実習の後なんでホルマリンと死臭で、僕らからは結構異臭が漂っていたと思いますしね。

ふたりとも眠くて目は血走ってるし顔色は悪いし髪はばさばさだし。

まるでゾンビの男女が猥談してるみたいだったと思います。

さぞやシュールな見世物だったにちがいありません」

ともさんが腹を抱えて笑い出す。

「そのときは疲労やらレポートやら口頭試問の心配やらで全く気付きませんでしたけど。

近くにいた乗客の皆さんはドン引きだったと思いますよ?」




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