第7話 さくら

 「しかし参りましたね」

「まあ、無理せず地道にな」

その日ともさんと僕は猫の便秘に取り組んでいた。

なぜか猫には便秘が多い。

北アフリカのリビア山猫を先祖とするだけに、生理的な水分管理がタイトなせいがあるのかもしれない。

人や犬みたいに水をガブガブ飲む猫なんて聞いたことがない。

だが、宿便からも極限まで水分を搾り取ろうとするなら、猫が便秘がちになるのも無理はない。

 水分を大事にする猫の生理は、腎臓が一生懸命働いてなるべく尿から水を回収するなんてまねもしている。

そのことで人や犬よりも腎臓への負担は大きくなっているはずだ。

結果として濃縮された尿が、膀胱炎や尿石症の原因に繋がったりと、便秘以外の不都合を引き起こしもする。

この辺も猫特有の現象だろうか。


 「パイよ、交代だ」

僕たちは麻酔をかけた便秘猫の肛門から人差し指を突っ込んで、少しづつ宿便を掻き出している。

浣腸もしているので、宿便は処置の開始時よりは多少柔らかくなっている。

それでも石のように固い便の塊は容易に肛門を通過しない。

 この便秘猫、桑田さんちのエリーの診断はレントゲンを使うまでもない。

触診だけでキュウリと言うよりは、太めの京ニンジン程の硬い宿便が触診で丸分かりだった。

直腸から下行結腸を満たし、胃の辺りから横行結腸の半ばあたりまで、がっつり触知できた。


 「しかしえらい収量ですね」

僕はともさんより一足先に手袋を外して手を洗い輸液と抗生剤の準備をした。

「大量だな。

エリーは骨盤に変形もないしまだそれほどの歳じゃないんだがな」

ともさんが少し汚れたエリーの下半身を洗い新しいタオルの上に横たえた。

エリーはまだ麻酔から醒めていない。

 交通事故などで骨盤が変形すると肛門から内診の指が入らないほどに骨盤腔が狭まることがある。

こうした障害を抱えた猫は便秘をきたし易い。

「排尿を我慢しすぎて下部尿路疾患を患ったり。

排便を我慢しすぎて便秘に成ったり。

猫ってのは本当に難儀な生き物ですよね」

手早く注射を終えると僕は、宿便の掻き出し処置で発生した大量の汚れ物の後始末に取り掛かる。

「俺たちにはあんまり経験というか縁がないことだが、女性は便秘の人が多いらしいな」

入院ケージにエリーを入れてきたともさんが、手を洗いながら「ホントだよ」と言ってこっちを見る。

「そうなんですか?」

親しい女友達も姉もそんなことはおくびに出したこともない。

そりゃ当たり前だろう。

花も恥じらう何とかだ。

「便秘でお腹が苦しい」なんて口が裂けても言わないだろう。

「ロイジーナのるいさんとこの猫。

にゃんたがちょっと便秘気味の時があったろう?

相談されてまあ色々。

色々の後、雑談の時に聞いたんだが女の人はどうもそうなりがちらしい」

『相談されてまあ色々』の色々が気になるがそこはあえて追及を避けた。

「るいさんも便秘なんですか?」

「馬鹿言え。

そんなこと知るか。

そもそもるいさんみたいな美しい女性は、排泄なんぞという不浄な行為とは無縁なんだぜ。

ものを知らん無礼者め!

パイよ。

良く覚えておけ。

まあ、るいさんのことは脇に置く。

それがな。

るいさんの大学の友達に学寮住まいの女の子がいるのだと。

その子がどうしても寮のトイレで用が足せないらしい。

精神的なアレらしい。

るいさんの大学は戦前からの由緒正しいお嬢様学校だからな。

その友達も乳母日傘で大切に育てられた名家のお嬢さんなんだろう。

週末になるとわざわざ静岡の実家まで新幹線で帰って用を足すらしい」

「驚き桃の木山椒の木、ブリキに狸に洗濯機、あたりき車力よ車引き!」

「なんだいそりゃ」

ともさんが細い目を丸くする。

「おばあちゃんから伝授された、江戸っ子が驚いた時の正式なお作法です」

「・・・なるほど。

パイの驚きが良く分かった。

・・・るいさんからそんな話を聞いてもう一つ。

ついでに思い出したことがある。

昔、渡辺淳一の医療エッセイで読んだんだけどな。

渡辺淳一が北海道でまだ臨床医をしていた頃のことだそうだ。

重度の便秘症の女性がいてその治療で苦労したって言う話だ。

渡辺淳一はその女性の治療にある道具を使ったんだが何を使ったと思う?」

「ともさんが、わざわざクイズにするところ見ると、よっぽどの魔道具か秘密兵器ですね」

「いやいや、それほど御大層なもんじゃないが、ちょっと俺らでは思いつかないアイテムかな。

だが、そのアイテムはうちの病院にもあるぞ」

「・・・薬匙とか鉗子とか?」

「ブッブーッ。

それじゃ当たり前すぎるだろう。

ノミとハンマーだと。

ノミとハンマーで石のように秘結した宿便を少しづつ割り砕いていったのだと」

「こいつは魂消た驚いた、たいしたもんだよ蛙の小便、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」

「・・・」

「寅さんなら口上付きで驚く事例ですよ、そりゃ。

秘結を崩すのにノミとハンマーを使うなんて。

渡辺淳一は大工さんも兼業してたんですか?」

その患者さんは本当にお気の毒です」

「確かになぁ。

女性を相手にそんな治療じゃなぁ。

でも大工道具じゃないと思うぞ。

渡辺淳一は外科医だからな。

ノミとハンマーなんてかまして読者相手に話を盛ってるな。

本当に使ったのは、骨のみとマレットじゃないか。

それでもガッツンガッツンやって洗面器一杯に出たって言うからな。

処置を受けた女性はさぞや恥ずかしかったろうな」

「るいさんの話も渡辺淳一の話も、語る人が語れば胡乱な与太話で終わりそうですけど実話でしょ?

それを考えると、猫の便秘なんて可愛いものですね」

もうしばらく手術室の換気扇は回しておく必要がありそうだ。

この匂いはやっぱりたまらない。

「酷い秘結は状況によっては手術が必要になるんだぜ。

パイよ。

猫の便秘をけっして軽々に考えるでない」

ともさんが「メシにしよう」と言って術着を脱いだ。

「前の病院では便の掻き出しは素手でやらされました。

ともさんのとこじゃゴム手袋を使わせてもらえますけど、どうです。

ブラシで洗ったって指に少し匂いが移るでしょ?

前の病院じゃいくら洗っても匂いが落ちなくて。

食事の時は往生しました」

僕も術着を脱ぎ、ともさんのと一緒に洗濯機に放り込もうとふたつを丸める。

「そりゃ大変だったな」

「と、言っても、スカンクのマリちゃんよりはなんぼかましですけどね」https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938/episodes/16817330652397447243

ともさんは大笑いを初め、こうなるとしばらくは治まりが付かないだろう。

ともさんが涙を流しながら笑いこけている内に、僕は汚れた術衣を洗濯機に放り込みに行くことにする。

ハイターのつけ置き洗いが必要だろうなと思った。






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