第6話 ディア・ドクター

 「ともさん。

だ、大丈夫ですか?」

ともさんが右の耳介から盛大に血を流している。

ともさんの細い目の奥で何かが光る。

大丈夫なわけがないだろうと言いたいに違いない。


 ともさんは大体いつでも・・・殆どいつだって冷静沈着で道理をわきまえた大人である。

ところがごくたまに直情径行というかエキセントリックというか。

突発的な情動の高まりやら個性的な思い付きに身を任せて、奇想天外な行動に出ることがある。

 股関節形成不全で起立不能になったビックを不憫に思い、いてもたってもいられなくなった時がそうだった。

ビックは大きな雄のジャーマンシェパードで、ともさんが浪人だった頃からの無二の親友だ。

そんなビックの股関節の病気が悪化して歩けなくなったのだ。

するとあろうことか、ともさんはビックを背負って何事かを話しかけながら毎晩、深夜の街を散歩し始めた。

https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938

クマのような大男がでかいシェパードをおんぶしてブツブツつぶやきながら深夜の街を徘徊する。

先ぶれを請け負ったジャックラッセルテリアのスキッパーが、辺りを威嚇しながらふたりの少し前を歩くのだ。

まるで百鬼夜行ではないか。

通報こそされなかったがご近所に事情を説明して回り、火消しに明け暮れたことは僕の記憶に生々しい。

 

 いつのことだったか。

朝出勤すると二日酔いのともさんが自分で自分に乳酸加リンゲルを点滴していた。

そんな姿に出くわした時には、さすがの僕も尊敬するともさんの正気を疑った。

けれども。

「ポカリより即効性があるし、コーラよりスカッと爽やかなんだぜ」

そう静かに説明をされて納得してしまった。

・・・いや、それでもいかんだろ。

いかんだろと思ったが、点滴ともさんを幾度も目撃する内、何がいかんのかよく分からなくなった。

考えてみれば形は違えど、僕だって自分で自分を治療するなんてことは日常茶飯なのだ。

 

 医師法第17条では『医師でなければ、医業をなしてはならない』とある。

厚生労働省の解釈では『医師法第17条に規定する「医業」とは、当該行為を行うに当たり、医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(「医行為」)を、反復継続する意思をもって行うことである』としている。

 獣医師はもちろん医師ではない。

獣医師は獣医師法の元で獣医業を行う。

獣医師法の第十七条では「獣医師でなければ、飼育動物(牛、馬、めん羊、山羊、豚、犬、猫、鶏、うずらその他獣医師が診療を行う必要があるものとして政令で定めるものに限る。)の診療を業務としてはならない」とある。

要するに医師は人間を対象とし、獣医師は飼育動物を対象とする医学者と言うことだ。

 ともさんは自己点滴を反復継続している。

この行為はともさんが人であるならば、医師法第17条に違反しているのは確かだ。

医師法第31条によれば第17条に違反すると『3年以下の懲役若しくは100万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する』とある。

ともさんは二日酔いを、自分の静脈に乳酸菌加リンゲルを点滴することで治療しているのだ。

すると、ともさんは前科の付く行為を重ねていることになる。

だがまてよ。

僕だって病院に常備されている薬を、自己診断で医師の処方箋なしで飲んだりしてる。 

僕も法を犯していることになるのだろうか。

・・・ここは自分の身を守る為にも。

ともさんの自己点滴なんて言う意表をつく振舞いを、深く追求するのははばかられるところだ。

ともさんの自己点滴については、見て見ぬふりをするのが無難と判断した。

そうして仕舞には、あくまで自分だけを対象とした医師法違反なら問題なかろう。

エイエイオーと、自ら握り拳を突き上げエールを送る気分になった。

良く良く考えてみれば、自己責任の範疇ということだ。

 自己責任で自分自身に診療行為をする状況を改めて考えてみればどうだろう。

例えば薬品棚の薬を飲むこと以外にだって、僕自身が色々やらかしてる過去はたっぷりある。

さすがに点滴や注射を自分に施すなんてところ迄は怖くて踏み込めない。

だが縫合程度の外科的処置ならおなじみの施術だったりする。

藪をつついたら蛇が出たと言うところか。


 ともさんの耳からダラダラ血が出ている現象には、僕みたいな平凡な人間では伺い知れない事情があるのだろう。

僕はともさんに何も尋ねずに応急手当をする。

治療ではない。

応急手当だ。

傷を生理食塩水で洗いガーゼを当てて包帯を巻く。

後は抗生物質の内服とともさんの再生力次第だ。

破傷風のワクチンは注射してるはずだし化膿もし難いはずだ。

 ちなみに、獣医学科に入学した新入生にいの一番に行われたのは破傷風のワクチン接種だった。

加えて、学生の頃からしょっちゅう怪我をしているせいだろう。

臨床系の獣医師は免疫能が高くなっているのか、総じて化膿し難い形質を獲得している気がする。

 

 なんだか聞きたくはなかったのだが、ともさんはおとなしく手当てをされている間に、しんみり一人語りを始めてしまった。

「今入院しているチャウチャウの花子。

昨日の夜に脱肛の手術をしたろう?

今さっき犬舎に様子を見に行ったんだよ。

そうしたら辛そうでな。

可哀そうで可哀そうで・・・抱きしめたら噛まれた」

「・・・。」

「凄く痛いが、俺には花子を責めることはできん」

「当たり前ですよ。

術後の疼痛もまだ酷いだろうに。

そんな奇矯なふるまいをされれば、僕が花子だって『こいつぶっ殺す!』って咬みつきますよ?」

「・・・」

「でも耳を咬まれるだけで済んでよかったじゃないですか。

犬は本当に殺意があるときには頸を狙ってきますからね。

あれは怖いものです」

僕は代診の頃に経験した災難を思い出していた。

「・・・パイよ。

犬と闘ったことがあるのか?」

「話してませんでしたっけ?

往診先でやらかしちゃいました」

「・・・やらかしてしまったというと?」

「後輩の大川。

ともさんも知ってるでしょ。

やつとは代診の頃同僚だったんですよ。

とある飼い主さんが持参した便を調べたら鞭虫卵が多数検出されましてね。

車がなくて病院には連れてこれないとおっしゃるので往診先の一つに組み入れた訳です。

その時のバディが大川です。

敵はビックと同じくらいでかいシェパードでした。

名前は世之介と言います。

そういや飼い主さんの名前は井原さんです。

井原さんちの世之介?

・・・ふざけた名前ですよ」

「パイよ。

お前シェパードと闘ったのか?

・・・勇者だな」

ともさんは痛みを忘れて細い目を見開く。

だが、犬の名前を聞いてからともさんの視線には明らかに“面白そう”という成分が混ざったのだ。

それを見逃す僕じゃない。

「冗談じゃないですよ。

世之介は元々切れやすい犬らしいんですけど、そういう大事な情報は事前に教えておいてくれってことですよ?」

「注射する前はおとなしそうだった?」

「そうですよ。

ヘラヘラ尻尾を振って、世之介と言うよりは与太郎って風情でした。

だけど井原さんが飼ってる世之介ですよ?

ちょっとツボに入りました。

そんな惚けた名前を聞いてつい油断してしまったんです。

注射が終わった瞬間ワンショットライターですよ。

煙草に火をつける程度なら良いですけど250キロ爆弾ですよあれは。

怒りが大爆発です。

その刹那、世之介を保定してた大川とリードを持ってた井原さんは、パッと逃げちゃって僕は取り残されました。

まあ、僕が大川や井原さんの立場だったらやっぱり逃げたでしょうから人のことは言えた義理じゃないんですけどね」

「・・・それで、その先は?」

ともさんは何だかワクワクしている。

「頸の後ろにトリザーブの皮下注だったんですけど痛かったんでしょうね。

世之介が唸り声を上げて暴れたら、大川のヤツ即保定を解いて飛び退きやがりました。

ひでぇ奴ですよ。

あいつは臨床家としての覚悟が足りてません。

世之介は大川が保定を解いていきなり拘束が無くなったからでしょう。

アタックの合図とでも思ったんですかね。

無警告で僕の咽喉ぼとけの辺りを狙ってきました。

ビビって悲鳴を上げた井原さんもリードを手放しちまいましたから、世之介は解き放たれた野獣確定ですよ。

あれって狼の頃の本能なんですかね。

とっさに立ち上がって右手で殴りつけて左手で咽喉元をかばったんですけどね」

僕はともさんに左の手首を見せる。

「・・・随分おおきな傷跡だな。

がっつり犬歯が入ったな」

「何度も執拗にジャンプして咽喉を狙って来るんですよ。

何回目かに深く嚙まれてそれで命拾いしました。

学生の頃ともさん、言ってたでしょ。

動物に手を噛まれたらひいちゃダメだって。

うっかり手を引くと傷が裂けるぞって。

そこで手首を噛ませたまま世之介を地面に押し倒して抑え込みました。

倍とは言いませんが例えシェパードでも僕と比べれば、体重は大人と子供くらい違いますからね。

大川のヤツ修羅場から十分距離を取って「せんぱーい。大丈夫ですかー」なんてすっとぼけたこと言ってるし。

井原さんはひきつけ起こしたように泣いてるし。

あれこそ阿鼻叫喚っていうやつでしょうよ」

「・・・それで、パイよ。

お前が今生きてここにいるってことはその苦境を何とか脱したってことだよな。

よく手首だけで済んだな」

包帯を巻き終わってもともさんは椅子から立ち上がらずにこちらを見上げるだけだ。

「まあ、ありがたいことに・・・。

シェパードっていっても世之介は所詮甘やかされたペットの駄犬ですからね。

警察犬でも軍用犬でもないんですから。

抑え込んでもあまり抵抗しませんでしたし。そのままの体勢でしばらく怒鳴りつけてたら、チビりながら正気を取り戻しましたよ。

最後にはすまなそうにピイピイ鳴きながらしっぽを振って僕の傷をなめてましたからね。

『ごめんしてくれ〜』って耳を寝かせて猛反省ですよ。

自分の極道な癇癖を猿でもできる反省で誤魔化して、軽薄で軟弱な名前に相応しい世之介にもどりました。

勇気を奮い起こした井原さんがリードを掴んで世之介を引っ張って行ったあとで、初めて足に震えが来ました」

「大川は?」

「あいつは最後の最後まで自分の安全確保を最優先にしてました。

それに本当にふざけた男なんです。

大川のヤツ、その日に限って免許証忘れやがって。

こっちは左手が使えないって言うのに「俺今日無免なんで運転できません」なんてぬかすんですよ」

「それはなかなか・・・勇者だな」

「ともさん。

ともさんの勇者感ってなんかおかしくありません?

まあよいです。

だから帰りは僕がハンドル、ブレーキ、アクセル、クラッチ担当で大川のヤツにシフトレバーを任せて病院に戻りました。

あの怪我のレベルは一般人だったら119番ですよ?」

「・・・それでも世之介が、すぐに反省できる賢いシェパードでよかったな、パイよ」

「てやんでぇ、おおべらぼうめが!

了見違いも大概にしやがれ!

・・・失礼しました。

・・・ともさんがシェパードに特別な思い入れがあるのは僕も知ってます。

だけど世之介が賢いだなんてそんな戯けたこと冗談でも言わないでください。

あんなのビックの眷属とはとても思えないただの阿呆犬ですよ。

僕、高校の一年まで身長が160センチだったんです。

いまは178センチになってそこそこ長身の部類ですけど、160センチのままだったら世之介の犬歯は僕の咽喉に届いていたと思いますよ?」

ちょっと恐怖が蘇った。

改めて考えてみるとあの時は色々なラッキーが重なっていたことに思い至る。

「その咬み傷は縫合の跡がないが、やっぱり病院へは行かなかったのか?」

「ともさん何をおっしゃいます。

ともさんもご存じでしょ?

代診なんて労働基準法の番外地で運用される使い捨ての傭兵みたいなもんですよ?

院長以下代診仲間のどいつもこいつも非人情なもんで「そりゃ大変だったな」で終わりです。

それに例の咬傷事故の届け出がありますからね。

手首には、向こう側が見えるかってくらいの穴が開きましたけど、幸い靭帯や大きな血管は無事でした。

ともさんに学生時代教えてもらった通り、ポピドンヨードスクラブで手洗い用のブラシを使って傷口をガシガシと・・・」

「傷口のブラシ洗浄をやったとはあっぱれ・・・勇者だな。

だけど咬傷事故の届け出。

あれはネックだよな」

「ネックですよ。

あれがあるおかげで迂闊に病院なんか行けやしません。

獣医のくせにドジを踏んで咬まれた僕が悪いっちゃ悪いんですけどね・・・一種の泣き寝入りです。

ブラシ洗浄は・・・もう痛くて気が遠くなりましたよ?

ちょっとエグかったですけど抗生剤飲んで開放創で二次治癒を待ちました。

創口が深かったので縫合はやめました。

その日もちろん午後の診療の受け持ち分はやり通しましたよ。

傷が治るまで皆勤です」

ともさんは腕組をして少し考えこんだ。

「まあ、そんなもんか」

「まあ、何処でもそんなもんですよ。

例え院長が咬まれたってそんなもんです。

飼い主さんへの手前もありますからね。

患畜に咬まれたくらいで騒いだら仲間から馬鹿にされちまいます。

獣医が犬に咬まれたら内々でことを済ませる。

それが鉄則でしょう。

ともさん、すぐに午前の診療が始まりますからね。

抗生物質はちゃんと飲んでおいて下さいよ。

あっ。

今のは僕の指示じゃありませんよ。

独り言です。

抗生物質を飲むのならあくまで自己責任でお願いします」

「おっ、おう」

 

 これはあまり知られていないことかもしれないが、犬に咬まれて病院へ行くと少々厄介なことになる。

咬傷事故が起きたら咬傷犬狂犬病検診票に基づいて、人を咬んだ犬が狂犬病かどうか調べることを求められる。

1956年まで日本でも狂犬病を発症した人がいたからね。

発症したら100%致死って言う感染症だけに、未だ当局の警戒度はマックスのままだ。

 人を咬んだ犬は日にちを開けて二回以上診察を受けさせ、診断書を作って役所に提出する必要があるのだ。

加えて飼い主は別途、咬傷事故の事故発生届を提出する必要もある。

これらの届け出は条例によって定められた義務ってことになっている。

 犬に咬まれた人が病院に掛かって咬傷事故が公になれば、菓子折り一つ持って頭を下げておしまいでは済まないのだ。

普通の一般人が犬に咬まれれば、獣医師が間に入って手順を踏み診断書を作る。

必要があれば加害犬に狂犬病のワクチンも接種する。

公的にはそこまでする必要があるし、飼い主さんと被害者の間で話がこじれると民事訴訟なんてこともありうる。

 だがしかし、診療中に獣医師が犬に咬まれたとしたらどうだろう。

僕が世之介に咬まれた時もそうだが、それは大抵の場合、ドジを踏んだ獣医師の不注意によるものだ。

咬傷事故の届け出には労力ともちろん費用も掛かる。

獣医師としては名誉にかけて、自分のミスで起きた咬傷事故で飼い主さんに負担をかけるわけにはいかないのだ。

獣医師が犬に咬まれたからと言ってホイホイ病院に行けば、お医者さんも職責上見過ごすわけにもいかず、いやがうえにもことは大きくなる。

僕が病院へ行かなかったのにはこんな裏がある。


 獣医師と咬み傷や引搔き傷は切っても切れない仲だ。

医療の知識があって、身近に外科の機材が揃っていて必要な薬品もあるのだ。

例え咬傷犬狂犬病検診票に従う診断の煩わしさがなくても、自分で自分に治療って言うのは当たり前の感覚だ。

 

 医師法第17条なんぞ、少なくとも自分に対しての施術については、はなっから頭になかったのだ。

ともさんの自己点滴を目撃してそのことに気付いた。

さすがに同僚の手を借りると明らかな医師法違反になるだろう。

そこで全ては自己責任の元での単独作業になるし、表向きは秘密ということにもなる。

 僕はさすがにともさんみたいに自分に点滴する度胸はないけれど、裂けた傷に無麻酔で縫合くらいはする。

自作自演のSMショーみたいなものだ。

大抵はそれで何とかなってしまうし大事になったことはない。

 僕の職業を知っている歯医者さんで抜歯した時、手持ちの抗生剤を適当に飲んでおけと言われたのだがそこは食い下がって薬を出してもらった。

病院にあるのとまったく同じ薬をもらって帰り家で飲んだ。

 実は動物病院で使っている薬には人体薬も多い。

だから歯医者さんの言う通りにしていれば医療費も安く済んだはずだがそうもいかない。

自分で抗生剤を飲んで本当に万が一の事故がおきたら、歯医者さんに責任が及んでしまうからだ。

 僕が医療行為を人体に施すのはあくまで自分限定だ。

家族にだって応急手当以外はしないしすぐ人の病院に連れていく。

薬の処方なんてもっての外だ。

 

 冷静になって考えてみると自分で自分への縫合処置なんぞ、実に野蛮な話ではある。











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