第5話 昼顔
「これって、真っ黒ですけど梅干しの種みたいですね」
「そうだな。
梅の種ってことには間違いないだろうな」
手術室での会話である。
その日僕たちはあるビーグル犬の開腹手術をしていた。
僕たちと言っても執刀はもちろんともさんで、僕は外回りの助手だ。
ビーグルのソータはここ数日嘔吐を繰り返していた。
レントゲンを撮った結果、小腸に異物があることが分かりともさんはこれを腸閉塞と診断した。
そこで早速の手術と言う訳だ。
小腸からともさんが取り出したのは真っ黒になった梅干しの種?だった。
「ソータのやつ、三か月位前に梅の実を拾い食いしたことがあったろ?
飼い主の藤井さん、ご夫婦で慌ててソータを連れてきたよな」
ともさんは話しながら腸管縫合を始める。
「ええ、でもあの時は催吐剤を使っても梅の実、出ませんでしたね。
元気も食欲もあったし。
『それじゃしばらく様子を見ましょう』
ってことになったんですよ」
「レントゲンを撮りたかったんだけどな」
「藤井さんちは奥様がレントゲンをお嫌いなんですよね。
今回も最初は、
『レントゲンを使って欲しくない』
って仰ってましたから」
「たまにそう言う飼い主さんがいるな。
医療に必要と頭では分かっていても。
放射線を浴びるってのは、人によっては凄くハードルが高い選択みたいだね」
ともさんの手は早い。
腸管縫合があっと言う間に終わる。
「日本人には広島、長崎の記憶がありますからね。
・・・子供の頃、ゴビ砂漠で頻繁に核兵器の実験をやってたの憶えてますか?
偏西風に乗って飛んで来る放射能のせいで『雨に濡れると禿げるぞ』って。
そんなもっともらしい噂話がありませんでしたか?」
「あった、あった。
俺もまだ小学生だったからな。
ことが含む深刻な事情なんてまるで考えずにみんなで盛り上がった記憶がある。
学校帰りに雨が降って、傘がなかったりすりゃ大騒ぎだったな。
広島長崎で被爆した人たちがあれを見ていたらどう思ったろう。
今になって考えてみれば、俺たちは随分と無神経なことをしていたんだな。
第五福竜丸のこともあるし、ゴジラだってそうさ。
放射線ってのは日本人の民族的トラウマかもな」
ともさんは閉腹にとりかかる。
「・・・それでだ。
ソータのやつ梅を食ってからしばらくは何ともなかったのに、
『一ヵ月くらい前から時々吐き気があった』
って藤井さん言ってたよな。
すると少なくとも二カ月間は無症状だったってことだ」
「そうです。
吐き気がするようになったのはここ一月のことだそうです。
だけど、
『縦抱っこして、しばらくよしよししてるとケロッと治ってしまった』
っておっしゃってました。
吐き気が治まってしまえば他に何の問題もなかったと、そう言うことらしいです」
「結構頻繁だったらしいじゃないか」
ともさんは皮膚の縫合を始める。
「そうなんですよ。
週に何度も。
だけど縦抱っこしてよしよしすればすぐに治っちゃうので、そのまま様子見ていたってわけです」
「それが、今回は縦抱っこしても吐き気は治まらなかったってことだよな」
手術が終わりともさんは術衣を脱ぎ、器械を片付けはじめる。
僕はガス麻酔の器械の前でソータの自発呼吸を確かめ、気管チューブを抜管するタイミングをはかっている。
「この梅干しみたいな種って真っ黒だろ。
多分胃の中で長いこと消化液に晒されて変色したんだな。
胃酸による表面の酸化だろう」
ともさんが膿盆に置いた摘出物を鉗子の先でつつきながらしげしげと眺めている。
「塩酸で炭化しちゃったんですかね?
いったいどうしたわけでソータの胃の中で梅干しの種が炭化するってんです?」
ともさんが膿盆から顔を上げニヤリと笑う。
「ここで私の推理を一つ披露しよう。
ワトソン君心して傾聴したまえ。
飼い主の藤井さんから聞き取った稟告によれば。
ソータは三か月前、庭に落ちた梅の実をうっかり飲み込んだということだ。
それからは目立つ症状もなく二カ月の月日が流れた。
藤井さんがソータの不始末を忘れかけていた頃。
突然彼は不定期な嘔吐を繰り返すようになった。
それがおよそ一月前からのことだ。
ここまでの事実経過に間違いはないね、ワトソン君」
「・・・ああ、おおむねそうだ、ホームズ。
ソータの不定期な嘔吐はちょうど一月ほど前に始まった」
僕はともさんのノリに付き合うことにした。
抜管も済み点滴の流量を調整して、後はソータを入院犬舎に戻すだけだ。
「その不定期な嘔吐にはある不可思議な特徴があった」
「その通りだ、ホームズ。
ソータが嘔気を訴えた時、藤井さんが縦抱っこをするとすぐに嘔気が治まるのだ」
「そこだよ、ワトソン君。
原因はどんなものであれ縦抱っこをすれば治まる吐き気など聞いたことがない。
内科や外科の教科書をいくら調べてみたってそんな症例は載ってはいない。
君だってそう思うだろ?
ところが、縦抱っこすればすぐに治まってしまう。
そんな奇妙なソータの吐き気はどうしたことだろう。
この三日ほどは、とうとう静まるどころか悪化の一途をたどった」
ともさんは目をきらりと光らせて僕を見る。
僕は入院犬舎のケージにまだ意識の戻らないソータを横たえ扉を閉じた。
点滴瓶を持って横にいたともさんが輸液ポンプに点滴セットを仕掛けた。
「ソータは三ヵ月前に梅の実を誤って飲み込んだ。
二月ほどはなんともなかったのに、一月ほど前から不定期に嘔吐を繰り返すようになった。
ところが不思議なことにソータの嘔吐は、飼い主さんが縦抱っこをするとすぐに治まってしまう。
しばらくはそんな調子だったが元気も食欲もあったので、ついつい病院へ連れてくるのを怠ってしまった。
それが悪かったのかどうか。
三日前からは縦抱っこをしても嘔吐が止まらなくなってしまった。
この事件に関わっていると考えられるソータの履歴を追ってみるとこうなる。
ようやく病院に連れてこられたソータにレントゲンを掛けてみれば、そこには明白な腸閉塞の所見が認められた。
すぐに手術に踏み切ったところ、古くて酸化した梅の種が小腸を閉塞させていた。
ことは明白だよ、ワトソン君」
「確かに、腸閉塞の原因は三月前に飲み込んだ梅が原因だろう。
それは僕にも分かる。
だがホームズ。
なぜ腸閉塞にいたるまで三か月もかかったのだ?
一月前から起きていた縦抱っこをすれば治まる嘔気も不可解だ」
「ワトソン。
君には分からんか。
あの種の大きさを思い出してみろ。
ソータは比較的小柄だがあの種はビーグル犬の小腸を閉塞させる大きさだ。
小梅ではない。
ソータが飲み込んだのは、種に見合った比較的大きな梅の実だったのだ。
ソータはおそらく苦労してそれを飲み込んだはずだ。
もう少し実が大きければ心臓の上の辺りを通過できず、そのまま胸郭内で食道を閉塞させていたろう。
なんとか食道を通過して胃にたどり着いた梅の実だったが、噴門(胃の食道側の入り口)を逆に通るのは難しく、幽門(胃の十二指腸側の出口)を通過するには大き過ぎたのだろう。
ソータが梅の実を飲み込んだ時期を考えれば固い青梅だったはずだ。
青梅の果肉は二か月かけて胃の中で少しずつ消化され、しまいには幽門にスポッと収まるくらいの大きさまで小さくなったに違いない。
幽門に収まった半消化の梅の実はちょうど栓のような働きをしたのだろう。
嘔気は梅の実による幽門閉鎖の結果だ」
「しかしホームズそれではおかしくないか。
ほぼ一月の間、ソータを縦抱っこしてやれば嘔気は完全に治まって、元気よく生活できていたんだぜ。
梅の実が幽門を栓塞していたのであればそうはいくまい」
「そこが、この事件の実に面白いところだよワトソン君。
おそらく、幽門に栓をした梅の実は縦抱っこと言う特別な体位を取ると簡単にはずれたのだろうね、最初の内は。
梅の実は幽門の栓子となった後も徐々に果肉が消化され続けた。
そして事件が起きた三日前に時は至る。
梅の実の果肉はあらかた消化され、三日前ついに晴れて幽門を通過できる種の大きさまで小さくなったのだ。
だが幽門を通過できたものの、種がそのまま小腸を進むことは適わなかった。
君も御覧じた通り、腸閉塞と言う事態を引き起こしたのだよ、ワトソン君」
二人並んで手を洗っているときに、ソータの目が覚めた。
しばらく経過を観察してから一杯やりに行こうという話がでる。
「もっともらしい推理だが、それは本当かい、ホームズ?」
「・・・どうだろう。
分からんな。
そんなことがあったのかのと。
ちょっと思いついただけさ、パイよ。
真実は分からんがそれらしい感じだろ?」
ともさんが子供みたいな朗らかな笑い声を立てる。
朗らかなともさんの笑いは絵面的にはちょっとアレだった。
るいさんあたりは可愛いなんて言いそうだ。
だが、子供みたいに朗らかに笑うシャーロック・ホームズの姿を想像して見たまえ諸君。
その時僕がどう感じたかは推して知るべしである。
この仕事をしていると不思議な相関に出会うことが多い。
気合を入れて勉強した分野の患畜がタイムリーに病院へやってくるとか。
何の根拠もないのに、直感的に在庫を増やした薬品がどんどん使われて、結果として難局をしのげたとか。
似たような症例を立て続けに何例も経験するとか。
特に症例の短日間における反復や連続という経験は、思えば枚挙に暇がない程だ。
先週末にソータの腸閉塞の手術があったばかりだというのに。
今日はこれからマルチーズのアカネちゃんに、開腹手術をすることになったのだ。
アカネちゃんもソータと同じように突然の嘔吐が二日ほど続いていた。
早速レントゲンを撮ったところ、やはり小腸に何か異物があって腸閉塞の所見が認められる。
閉塞物は何かもやっとした感じで、ともさんもブツを特定できないと首をひねるばかりだった。
「何か心当たりはありませんか?」
シャウカステンにかざしたレントゲン写真を見ながらあれやこれやと飼い主さんへの質問が続いた。
稟告は簡潔を良しとするともさんが、いつになく饒舌で根掘り葉掘りという感じで話をしている。
「それが・・・わたくしには全く心当たりがないのです。
アカネは普段からゴミ箱を漁ったりしない子ですし。
隅々まで調べてはみたのですが。
アカネが出入りする部屋からなくなっている物はありませんでした。
見落としはないと思います。
もちろん、食べるものにもいつも気を配っています・・・。
最近はお気に入りのドライフードに、レトルトを少しトッピングして与えております。
お散歩のときも、歩いているよりは抱っこしていることが多いくらいなのです。
アカネが道端で拾い食いをした可能性は低いかと思います」
飼い主さんは真っ白なアカネちゃんと同じくらい真っ白なワンピースをお召しになったお嬢さんだった。
大きな麦わら帽子をかぶって来院したお嬢さんは年の頃なら二十歳少し前。
清純派をお題に神様が立体造形したかのようなテッパンのはかなさをまとった少女?女子大生?だった。
ともさんの質問に答える口調は穏やかで、頭の良さを感じさせる論理思考と言葉のチョイスだ。
何より可愛いらしいお声が、お嬢さんの邪気の感じられない魅力的な美貌を引き立てて余りある。
真に見て良し話して良し聞いて良しと、三拍子揃った鄙には稀なお嬢さんだ。
普段は不愛想なスキッパーが、お腹を見せて愛嬌を振りまいたくらいなのだから、お嬢さんの善美は本物なのだろう。
正直そんなスキッパーの姿を見たのは初めてだったし、同じ眷属のアカネちゃんには一顧だもしなかったのには驚いた。
人を嗅ぎ分ける鼻と人を見分ける目には一家言あるジャック・ラッセル・テリアのスキッパーがそれほどまでに高く評価したのだ。
お嬢さんはことによると、一昔前に流行った“地上に降りた最後の天使”ってやつの実態バージョンかもしれない。
その夜アカネちゃんの手術が行われた。
「僕、もう女性不信で二度と立ち直れそうにありません・・・」
「・・・まあ、そう言うな。
人間存在っての往々にして見ると聞くとじゃ大違いなのさ。
パイよ。
得手勝手な独りよがりで女性を評価し、その人の預かり知らぬ幻想で祭り上げるでない。
スタンダールも恋愛論の中で貴婦人に言わせているぞ。
『殿方はわたくしたちを高く持ち上げておいて、後は落ちるにまかせるのですわ』ってな」
ともさんが難しい顔をする。
「綺麗ごとなんてたくさんです。
聞いた風な口きいてるんじゃねー、ですよ。
ともさん、そんなことおっしゃいますけど、もしアカネちゃんの飼い主がるいさんだったらどうします?」
「・・・出家して旅に出る」
「でしょ?
これはもう夢見る男子の魂を一刀両断でぶった切る辻斬りものの案件ですよ?」
アカネちゃんのオペはともさんの超絶術式であっという間に終わったのだ。
問題はそこではない。
問題は腸閉塞を引き起こしたブツにあった。
僕も以前、話には聞いたことがあった。
だがそんなのは、業界の珍談奇談与太話でそれこそ噺の類だと思っていた。
事実は小説より奇なりである。
ブツは・・・なんと使用済みの避妊具だったのだ。
通常は術後、腸閉塞であれば摘出した誤飲物を見せながら飼い主さんに手術の説明と今後の心得についてお話しをする。
だが今回ばかりはそれは忍びないということになった。
まるで物語の中からやって来たみたいに美しく清純そうなお嬢さんを相手にだよ。
使用済みの避妊具を、それも三つも前にしていったい何を語れば良いと言うんだい?
ともさんも僕もそんな度胸は持ち合わせていない。
職業倫理を欠いたチキンな奴らだとそしられようとも。
できないことは不可能と言う無理な話の想定外で、ともさんも僕も全ては無かったことにしたいのだった。
アカネちゃんにもなんてもんを誤飲したんだと、小一時間は説教したいところだ。
あろうことかあんなもんを。
それも三つも。
いかもの食いにもほどがある。
ソータの時は“ともホームズ”の推理をとくとくと語って、飼い主さんにも好評でありました。
だが今回はそうもいかない。
いかないだろう。
「なんか変なビニール片が詰まってましたぁー。
お散歩のときに、うっかり食べてしまったんでしょうかねぇー。
お気づきになりませんでしたぁー?
仕方がないですよぉー。
よくあることですぅー。
アカネちゃんもしょうがないワンコですねぇー、アハハ」
で手仕舞いとすることにした。
とも動物病院の獣医師ふたりにトラウマを叩き込み、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のスティグマを刻み込んだお嬢さんはあくまで清く正しく美しく。
さぞやお淑やかな礼と挨拶をされ病院を辞去することだろう。
これもまた知らぬが仏ってやつなんだろうか。
ボクわかんないや。
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