第4話 MOTHER マザー

 「動物の病気を治療するより、飼い主さんとの遣り取りの方が大変って気がしませんか?」

僕は受話器をそっと置く。

「どうしたい?」

ともさんが新聞から目を上げる。

「十日くらい前に鯖虎の猫を去勢しましたよね?

あの猫の飼い主さんからでした。

交通事故で亡くなったそうです。

事故にあった後、うちに連れてくる途中で死んだみたいです。

・・・お話からすると即死に近い感じでしょう」

「それはとんだことになったな。

猫も可哀そうだが飼い主さんもお気の毒に。

嫌な話だな」

ともさんが顔をしかめる。

「僕らではどうしようもないことですからね。

心からのお悔やみを申し上げました。

その後で『お力になれず申し訳ありませんでした』

と付け加えました。

そしたら受話器の向こうでいきなり大激怒です」

「・・・なぜに?」

ともさんの頭上に特大の?マークが浮かんだ。

「『謝るくらいならな最初から去勢手術なんてするな。

去勢手術なんかするからうちの子は事故にあったんだ。

どうしてくれるんだ』

と、来ました」

「・・・そりゃまた事態の斜め上を行く理不尽なお怒りだな」

ともさんがいつもは細い目を丸くして驚く。

「どうやら去勢さえすれば雄猫は行動が穏やかになる。

そうすれば外に出しても大丈夫ってお考えだったらしいです。

話が違うじゃないかと。

何処の誰に聞いたどんな話なんだかさっぱり分かりませんけど。

そうおっしゃって。

怒り狂ってらっしゃいました」

「パイが、

『お力になれずに申し訳ありませんでした』

って言ったのをピザパイの生地を広げるみたいに拡大解釈して、あれやこれやトッピングしたってことだな」

ともさんがたまげたなと嘆息して新聞をおく。

「『申し訳ありませんでした』

ってフレーズは、社交辞令と思ってチョイスしたんですけど・・・。

やっぱりまずかったですか?」

「いやそんことはないだろ。

アメリカみたいな訴訟社会ならどんな向きでも謝罪の言葉は禁句だろうが。

ここは日本だからねぇ。

取り敢えず、

『あなたは何も悪くありませんよ』

と言う気持ちを伝えるときに。

助力をできなくて申し訳なかったとへりくだった姿勢は示すからな。

いきり立つ相手を宥めるために、

『恐れ入りました』

なーんて心にもないことを言うことだってあるしね」

ともさんは『恐れ入谷の鬼子母神!』と寄り目をしながら下手糞な見栄を切って見せる。

「僕、余計なこと言っちゃいましたかね。

このところ飼い主さんに怒られてばっかです」

「気にするな。

後で冷静になってみれば、自分がめちゃくちゃ理不尽だってことに飼い主さんも気付くさ。

そういやパイがうちに来る前のことだが。

本当になんでもない膀胱炎になった猫がいてな。

なぜか飼い主さんが激怒したことがある。

その猫、膀胱炎になる一年くらい前に避妊手術をしたんだけどさ。

ある人にそれは避妊手術が原因に違いないって言われたんですと。

『そのある人ってどこのどなたですか。

どうも誤解がある様ですから当院と致しましてはぜひ誤解をお解きしたい。

つきましてはそのある人の連絡先をお教え頂けますか?』

ってお聞きしたらガチャ切りされてそれっきりだよ。

電話してきた人が何をしたかったのか、今でも分からないけれどね」

ともさんは、

「安心おし!」

と言ってにっこり笑った。


 「いつでも何処かの組織の人達、スパイみたいな人達があたくしのことを見張ってるんです。

スーパーにお買い物に行っても、お出かけしても。

もう、ずーっとそんなことが続いているんです。

今日だってここに来る道すがら後を付けられました。

今でもどこからかあたくしを見張っているに違いありません。

もう、あたくし怖くて怖くて」

入院していた猫の退院の日だった。

「・・・そ、それはお大変ですね」

僕はびっくりしてしまって、何をどう言って差し上げたら良いやら、いきなり途方に暮れた。

飼い主さんはもう結構お年を召していらっしゃる。

けれどもお若い頃は、さぞやモテモテでちやほやされた方なのかもしれない。

服装やお化粧、立ち居振る舞いから、僕はふと、そんなことを思った。

『自分の言葉には強い言霊が宿っていて男なら誰もその力に抗うことができない。

だって私は素敵な姿態と美貌に恵まれた才媛なのだから』

みたいなオーラの燃え滓が残っている。

みたいな・・・?

何処ぞのスパイに付け狙われているらしい飼い主さんには、そうしたある種の勢いがあった。

ある種ってのはどんな種類なんだ?説明してみろと言われても答えには窮する。

 私事で恐縮だが、僕は高校の頃にやむを得ぬ行きがかりで、とんでもない事態に巻き込まれたことがある。

その流れでついうっかり、血統書付きみたいな本物の才色兼備な淑女達とお近付きなってしまい、不本意ながら現在に至る。

https://kakuyomu.jp/my/works/16817330653569306112

 彼女たちはそもそも僕とは人としての格が違うし、いつだって太陽フレアみたいなオーラが全身から立ち昇っている。

仏様の光背とか天使の後光や輪っかは、そんなオーラの視覚化を試みた絵面じゃないか。

彼女たちと出会ってからの僕はそう考えるようになった。

そんなご大層なオーラをほんの小僧だった頃から見慣れている僕なのだ。

昔の夢が醒めない三流女優の小芝居みたいなセリフを聞かされても、僕は戸惑いすら感じない。

なんせ僕は本物を知っているからね。

その飼い主さんは、なんだか色々哀れな老嬢としか僕には思えなかった。

 「そうしたわけであたくしずーっとスパイに見張られていて銀行にも行けませんでしたの」

飼い主さんは、

「これをどーぞ」

と突然ケーキの箱を差し出した。

「それであたくし今日は、入院代をお支払いできるだけの持ち合わせがございませんの。

明日は見張りの目をなんとかごまかして銀行へまいります」

飼い主さんは目をキラキラと輝かせて、可愛いおつもりなのであろう。

かつては華やかだったかも知れない微笑みを開陳された。

彼女のとっておきだったのかもしれない。

皴のある頬にへこみができたのは、多分えくぼに違いない。

「それでしたら退院は明日でもかまいませんよ」

僕は確かに気圧されていた。

飼い主さんはガシッとキャリーの持ち手を掴んで、もう一度とっておきを披露した。

「・・・それでは、退院は今日で、お支払いは明日と言うことで結構ですよ?」

僕が冷や汗をかきながら愛そう良く笑いかけるとしてやったりというお顔になる。

「それでは明日お支払いにまいります。

ごめんあそばせ!」

いつでもどこでも、謎のエージェントに見張られているらしい飼い主さんが、意気揚々とお帰りになった。

 「あの飼い主さん、なんか変な電波でも受信なさってるんですかね?」

終始無言だったともさんがケーキの箱を開けてのぞき込んでいる。

「バーゼルのスワンシュークリームだぜ。

るいさん呼んでお茶にしよう」

るいさんはご近所の喫茶店ロイジーナの看板娘さんだ。

喫茶店のお嬢さんをお茶にお招きするというのもなんだかアレだけどね。

るいさんはともさんとは大の仲良しなのでそんなのもアリなのだ。https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648319304938


 結局のところ、あの元傾国の美女?らしき飼い主の老嬢さんは、とも動物病院へは二度と現れなかった。

ありていに言ってしまえばバーゼルのスワンシュークリームで入院治療費をチャラにしたってこった。

踏み倒すともいう。

そうでないのなら、いつも彼女を見張っている何処かのエージェントに拉致されるか暗殺されたに違いない。

・・・物騒な世の中になったものだ。











 「













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