第3話 彼女が水着にきがえたら
「なんて失礼な。
うちのオスカルはカエルなんて食べません!」
僕はバブルの時代には、過酷な代診生活を送っていたので、ろくにテレビも見なかった。
そのせいか、すっかり世間の流行り廃りには疎くなっている。
目の前でお怒りなのは、やけにタイトで肩の張ったワンピースを着たおねーさんである。
段がない長い髪、太い眉、濃いアイシャドウ、赤い口紅とくしゃみが出そうなパフュームには思わずひるんだ。
姉を含めて知り合いの女性に、そうしたファッションの人を見かけた記憶がないからかもしれない。
それとも僕が皆の真実を知らなかっただけか。
そこで、僕には会社役員をしている親友みたいなポジションの女友達がいるのを思い出した。
そう言えばその女友達が、おねーさんと同じようななりをしているのを街で見かけたことがある。
見たこともない真剣な眼差しで車から降りて来てきて、立派なビルに入って行った。
時間帯を考えれば当然、仕事中だったのだろう。
僕と顔を合わせるプライベートではついぞ見ない、美々しいおめかしと身支度だった。
その時の彼女は、まるで他所の知らない女の人みたいで、僕は思わず足がすくんでしまった。
声をかけるどころか、彼女に気付かれないようにこそこそ隠れてしまったことまでついでに思いだした。
そんなちょっと、僕的にはドン引きしちゃうような意匠を凝らしたおねーさんがいきなり怒りだした。
その挙げ句捨て台詞を残して帰ってしまったのだ。
「ともさん。
あのおねーさん怒ってお帰りになっちゃいました。
カエルが嫌いなんですかね」
「人間ってのは本当に難しい生き物だな。
依頼に答えて結果を出す。
それで怒られたんじゃ立場がないよな」
ともさんは大笑いしている。
「検便してくれって言ったのはあのおねーさんですよ」
僕はオスカルの便が入ったちいさな容器のふたを閉めて廃棄ボックスに放り込んだ。
容器は化粧品のサンプル容器なのだろう。
猫の便の匂いと香料の香りが混合して何か危険な臭気を放っていた。
「マンソン裂頭条虫とツボガタ吸虫のダブルコンボですよ。
お住いのご住所と外遊びをする猫って言う条件を考えれば、おやつにカエルを食べてるのは確かでしょ?」
僕は今更ながらに腹が立ってきた。
「まあ、あの場合の最適解は、
『おや、お腹に何やら悪い虫がいるみたいですね。
ふたつのタイプの悪い虫がいるみたいですから両方ともお注射で退治しましょうね』
だな?」
ともさんはまだ笑っている。
「『消化管に寄生する寄生虫がいます。
それも二種類。
サナダムシとジストマです。
お住いの付近であれば主にカエルが媒介する寄生虫です。
多分オスカルは頻繁にカエルを食べているのでしょう。
それが原因でサナダムシとジストマが消化管に寄生する結果となったのです。
直ぐにでも注射で駆虫しましょう』
じゃダメですか?」
「あのお姉さんの怒りっぷりからすると『駄目なこともある』だな。
ほら、ネコっ可愛がりでキスしたり一緒に寝たりする人っているだろ?
可愛いオスカルが外で生きたカエルをむしゃむしゃ食べている。
・・・その結果なんだぜ。
腹に虫が湧いたのは。
理性では分かっちゃいるが想像したら感情が、ってことかな。
いや、もちろんパイみたいに、
『正確な所をズバッと言ってもらった方が良い』
って言う人がほとんどだと思うぞ」
ともさんの朗らかな笑いが苦笑いに変わった。
サービス業なんだから言葉を選べってこったろ。
若輩者は飼い主さんに対する思いやりに欠けるということらしい。
「・・・そうですね。
その通りだと思います。
今度から気を付けます」
「まあ、そう気にするな。
明日にはお姉さん。
今度はオスカルを連れてやってくるよ。
冷静になれば放ってはおけないさ。
愛猫に寄生虫がいるとなれば自分にも移るかもしれんからな」
ともさんが慰めてくれた。
「マンソンとツボガタはともかく。
人獣共通感染症ってのは、正直なところどんなもんなんですかね?」
「マンソンもツボガタも生活環を考えると人に寄生する可能性は限りなく低いな。
カエルや蛇を生で食ったり便を口に入れるなんてこともまず想定外だからな。
そういや寄生虫学教室の今井先生から、興味深い感染例の逸話を聞いたことがある。
おばあさんがな、猫の蚤取りをしてたんだと。
取った蚤をプチって潰すのに爪を使うってのはよく聞く話だろ?
ところがそのおばあさん。
蚤を爪ではなく歯で潰しちまった。
それで運悪く、瓜実条虫の経口感染が成立した。
さずがに講義室がざわついたよ。
まあそんなこともあるからな。
人獣共通感染症ってのは知らないところで蔓延してるかもな。
寄生虫以外にもウイルス感染症なんかはだな。
農耕が始まって、人類が家畜と近接した生活を営むようになってからバリエーションが増えたって言う説があるしな」
「そういえばインフルエンザは中国の雲南省で人と豚と鶏の感染トライアングルができていて。
時々そこから強毒化したウイルスが出現して流行に繋がるという話を聞いたことがあります。
種特異性のあるウイルスが種の壁を越えると強毒になるそうですからね」
ともさんはそれそれと指をぴこぴこさせた。
「実は猫や犬の屋内飼育ってのは結構問題ありなのかもしれませんね」
「それはあるだろう。
ちなみに、人間にとって感染症や伝染病の分野で最も危険、かつ物理的にも脅威そのものって生き物がなんだか分かるか?」
ともさんがちょっと意地の悪そうな顔をする。
「・・・ネズミとか?」
「ブッブーッ。
人間にとって一番危険な生き物は人間だよ」
翌日オスカルを連れたおねーさんが病院にやって来た。
「昨日は失礼しました」
そうおっしゃってペコリと頭を下げたおねーさんの装いは、ジーパンにコットンシャツ。
今日は打って変わって化粧っ気のないお顔だ。
険が取れたと言うか、僕よりずっと年上だと感じた印象ががらりと変わる。
面差しが、いっそ幼げになった。
うろんな言い方をすればビキニよりスクール水着が似合いそうな?
・・・ふと背中に寒気が走る。
僕が女性を軽んじ侮るようなことを考えるだけでフルボッコにしてくる女友達二人組を思い出したのだ。
「まだまだ躾が足りていないようね」
耳元に冷え冷えの囁き声がきこえてくるようだ。
僕はひとりで猛省して、気休めに十字を切ってみた。
とにかく考えを巡らせてみて、昨日のファッションとメイクはおねーさんがまとう武装の一部だったのかもしれないと思い至った。
僕は動物病院と大学という狭い世界しか知らない。
外の社会は華やかに見えるけれども、僕などの想像も及ばない修羅場が展開する世界なのかもしれないな。
街で見かけた別人のような女友達も、あの装いが戦乙女の武装と考えれば腑に落ちる。
おねーさんの恐ろし気な迫力が脳裏に蘇り、僕は掌と拳でポンっと手を打った。
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