Ⅶ
冷たい滴が、オスカーの顔を濡らす。遠くの方で、雷鳴が轟いた。すぐに大雨になるな——そう思い、忌々しげに空を睨みつける。
ここに至るまで、オスカーの初任務——忌まわしき獣の捜索はとんとん拍子に進んでいた。醜聞を恥じてか、グレージェン修道院の僧たちはだんまりを決め込んだが、怪物が産まれた場に居合わせたという町医者に話を聞くと、医師ルッカはこれ以上ないほど協力的に事情聴取に応じ、怪物の人相書きまで提供してきたのだ。さらに幸運なことに、怪物が残した奇妙な足跡を街はずれの道で見つけることができた——そんな矢先の雨だった。
一時間と経たぬうちに、桶をひっくり返したかのような土砂降りとなる。道は水溜まりに沈み、残された痕跡を容赦なく溶かしてしまう。冷たい雨がブーツに染み込み、雨を吸った外套は重みを増した。大雨で視界が霞み、ろくに前が見えないが、それでもオスカーは、怪物の足跡が向かっていた先、林の方へ進んだ。
しばらく雨の中を歩き続けると、前方から誰かがこちらに向かって歩いてくるのに気付く。少しずつ近付くにつれて、その人物が旅の巡礼者だと判った。
「ご機嫌よう。貴方に創造主様の祝福がありますように」
若い巡礼者の男がオスカーに頭を下げる。男はびしょ濡れで、フードすら被っておらず、艶やかな黒髪が濡れて額に張り付き、金縁眼鏡のレンズは水滴で曇っていたが、まったく意に介さないようで、平然としていた。
「こんな大雨のなか、何方に? 聖騎士様?」
どうして判ったのだろう。思わず首を傾げてしまう。任務の性質上、聖騎士である事を必要以上に知られないために、身分の証たる鎧は本部に置いてきている。剣だけは帯びているが、武装をして旅する者は決して少なくないので、それだけで聖騎士とは分からないはずだ。
「何故、私が聖騎士だと?」
「姿勢や歩き方が聖騎士のようでしたので、そうだとお見受けしました。それだけのことです」
男が飄々と答える。曇ったレンズの奥にある目の色は窺えないが、別段不審には思えなかったので、オスカーはこの男に、怪物について訊ねることにした。
「実は、教会の命で異形の怪物を追っているのです。こんな姿の生き物を見かけませんでしたか?」
人相書きを差し出すと、男はそれを一瞥もすることなく、「あぁ。それなら森の方角へ向かいましたよ。数日前、街道を外れていくのを見かけました」と、笑顔で答えた。
「なにもせずに行かせたのですか?」
オスカーが咎めるように言うと、男が肩をすくめる。
「僕はただの巡礼者ですよ? 剣も無しに怪物に近付けるとでも?」
確かに道理だと、オスカーはそれ以上なにも言わなかった。
「任務の成功をお祈りしております。それでは」
男はそう言って、鼻歌を歌いながら、雨の帳の奥へと消えていく。
残されたオスカーは、この不思議な巡礼者との出逢いを、創造主に感謝していた。きっとさっきの男は、しもべを導くために創造主が遣わした天使に違いない。
思わぬ形で怪物の捜索が大きく前進したのだ。これが創造主の計らいでないなら、なんだろうか。
数日歩き続けると、森が視界の先に見えてくる。少し時間が経っているので、もしかしたら逃げられたかもしれないと思いながら足を踏み入れると、見間違いようのない、奇怪な足跡を見つけた。木立のなか、四足歩行とも二足歩行ともつかない、蹄か、人の手かも分からないような跡を辿る。獣の人相書きから想像される、醜く、穢らわしい全貌を想像して、オスカーは首筋に薄寒いものを感じた。
さらに数時間歩いたところで、小屋と呼ぶにはあまりに拙い、雨除けの木枠のようなものを見つける。太めの木の枝を支柱にし、蔦を織って雨風をしのぐ覆いにしていて、何者かによって造られたものなのは明らかだった。獣の足跡はここで途絶えている——ともすると、これは獣の手によるものか。
ゆっくりと剣を抜いた。もしも獣が物を作るほどの能を持ち合わせているなら、それはこの上なく恐ろしいことだ。果たして、この剣一本で乗り切れるだろうか。握りしめた真新しい刃が、頼りなく見えた。
ぽきり、と、背後で枝の折れる音がした。微かな気配を感じ、振り返って剣先を向けるが、湿った木々が並んでいるだけで、怪物の姿はない。すると続けて、背後——つい先ほどまで見ていた方から、誰かが息を飲む音がした。素早く身を翻し、剣を振り上げると、それまでどこかに身を隠していたのだろう、立ち尽くす怪物と目が合った。大の大人とさほど変わらない背丈の怪物は、その左半身が馬のように筋骨隆々で、比較的華奢な右半身を庇うように、背中を丸めて立っている。フードで貌の大部分は隠されていたが、突き出た鼻梁と、赤子の拳ほどはある前歯は、隠しようがないらしい。その姿は人相書きと比べて幾重にもまして醜く、恐ろしかった。
「……私を殺しに?」
オスカーが何か言うより先に、怪物が口を開いた。巨大で醜悪な姿からは想像も出来ないような、か細い、知性と悲哀を帯びた女の声だ。
「私はオスカー卿。セレス教会の聖騎士だ。教会の命で、お前を討ちにきた」
剣を握り直し、怪物の動向を窺う。怪物が少しでも動いたら、脳天に鋼を振り下ろすつもりだった。怪物はそんなオスカーをまじまじと見て、吼えるでも、暴れるでもなく、逃げる素振りも見せずに「聖騎士様……でしたか」と、哀しげに呟いた。答えずにいると、怪物が続ける。
「何故ですか?」
フードの奥にちらりと見える、スミレ色の瞳に覗かれた。悲しみと、苦痛に満ちた目だ。
「何故、私は殺されねばならないのでしょう? お教えくださいませんか?」
問いというよりも、懇願だった。
「……お前が、悪魔によって生み出されたものだからだ」
剣を振り上げたまま答えると、怪物がすすり泣く。小さな右手——女らしい手で顔を覆いながら、「やはり、そうなのですね」と怪物は言葉を漏らした。
「何かの間違いだと信じたかったのです。私は修道僧の体に宿り、創造主の教えを聞いて育ちました……自分が普通でないことはもう分かっています。それでも、私は同志たちと同じように創造主を愛しているのです。普通の信徒と変わらず教えを尊び、悪を忌み嫌っています。私はあなたと変わらない、創造主の忠実なしもべです」
どうしてか、オスカーはこの怪物が本心からそう語っていると直感していた。教会で暮らしていれば、表向きには分からないような、宗教の醜い側面を見ることもある。私腹を肥やす枢機卿や、ふしだらな修道女、力に酔った聖騎士——奥底の醜さをひた隠しにしながら、皆が口を揃えて「私は創造主の忠実なしもべです」と言うのを、オスカーは何度となく目にしていた。本来の意味を喪った、空っぽの言葉を聞いてきたからこそ、オスカーには、怪物の言葉が真実であることを、認めることができた。
「——それでも、私という存在の本質が悪ならば、仕方ないのでしょうね。理不尽だとは思いますが……産まれる過程で父を死なせ、逃げるときにも誰かを傷つけたのですから、裁かれるのも仕方のないことなのでしょう」
怪物は嘶くように溜息をつき、真っ直ぐオスカーの方を見た。
「……裁きを受けます。オスカー卿、教会への務めを果たしてくださいませ」
怪物がフードを取り去り、醜い灰の肌に似合わない、長く美しい金の鬣が露わになる。怪物が跪き、まるでここを斬れと言わんばかりに、首をぐっと伸ばした。
「ありがとうございました」
「なにが」
怪物が急に礼を言い出すので、驚いて声が裏返る。
「問答無用で斬ることも出来ましたでしょう。怪物の言葉に耳を傾けてくださるなんて、お優しいのですね」向けられた言葉は皮肉ではないようだった。
「そんなことは……」
どう答えるべきかわからず、口ごもる。怪物がほんの少し顔を上げ、視線が交わった。
「もうひとつだけ……もし、ほんの少しでも私を憐れむ心がおありなら、最期の祈りをお願いしても?」
最期の祈り——今際の際にある信徒のために、聖職者が捧げる特別な祈りだ。
「私は滅ぼされるべき忌み子です。そのことは受け入れましょう。ですが……せめて怪物としてではなく、信徒として逝きたいのです」
怪物の願いを聞いたとなれば、教会はいい顔をしないだろう。フィメル卿にも失望され、聖騎士の肩書を剥奪されるかもしれない。それがなんだというのだ。その程度の慈悲も示せず、なにが聖騎士だ——オスカーは祈り始めた。
「創造主よ。願わくばあなたのしもべたるこの者を——」
「あぁ……あなたに祝福あれ……」
願いが叶えられるとわかり、怪物が安堵したように目を閉じる。
祈りの言葉を唱えながら、オスカーは自身の剣を持つ手が、既に下されていることに気が付いた。斬れない。悪魔の創造物、忌まわしい怪物を殺しにきたはずが、そこにいたのは純粋な信仰心を持った、いち信徒だったのだ。自分は、すべての信徒を護る誓いを立てたばかりではないか。この者は見てくれこそ怪物だが、その心は人間よりも余程清らかだ。創造主を愛し、その教えを重んじている——この者は、信徒なのだ。
「聖騎士様——?」
気が付くと、怪物に見つめられていた。思案するうち、祈りの言葉も途切れていたようだ。
「……僕には出来ないよ」
そう言って、オスカーは剣を捨てる。怪物が驚いて顔を上げるのと、何者かが背後の木陰から躍り出るのは、ほぼ同時だった。
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