Ⅵ
夜明け前、診察台に突っ伏すような格好でルッカは目を覚ました。頭が割れるように痛む。普段飲まない酒を浴びるほど飲んだせいだ。酒場を出てから家に辿り着くまでを思い返して、戦慄する——戸締りを忘れていた。ほとんど這うようにして診療所に帰り、階段を上がることが出来なかったので、そのまま一階の診察台に倒れ込んだのだった。慌てて診療所を調べたが、幸いにも高価な器具はなにも盗まれていないようで、ルッカが自分で動かした椅子やら以外、すべてが家を出たときと同じ状態だった——戸口から二階へと続く、血でできた足跡をのぞいて。
暖炉の灰に埋もれた火かき棒を引っ張り出し、武器のように握って、そのままゆっくりと一段ずつ、息を殺して階段を上った。寝室の扉の向こう側から、まるで馬の嘶きのような、啜り泣きのような音が聞こえてくる。
間違いない。あれが家の中に居る。
化け物が修道院長を蹴り殺す場面が、脳裏に甦った。仕留め損ねれば、自身も同じ末路を辿ることになる。そんなのは真っ平御免だ。ルッカは扉を蹴り開け、火かき棒を振りかぶったが、目の前の光景に固まってしまった。怪物が、医学書を広げて読んでいたのだ。驚いて顔を上げた怪物と目が合う。明るいところで見ると、その醜さがさらに際立った——ルッカから見て右側、人間らしい面影のある方の顔についた目がスミレ色なのに、初めて気付く。乳飲み子ほどの大きさだった体躯は、早くも大の大人に近い大きさにまで育っていた。
「……ごめんなサい。コろさないで」
怪物が口を開いた。震える声は濁っていたが、か細いそれは、少女のもののように聞こえる。
「……女だったのか」
火かき棒を降ろし、ルッカが呟くと、怪物は頷いた。
「ハい。たぶんそウです。男性キ……とやらガ、見当たリマせんので」
怪物の言葉は少しぎこちなく、発音も下手ではあったが、それは知性の不足からではなく、単に話し慣れていないだけという風だった。ふと、怪物が生まれてすぐに発した声を思い出す。やはりあれは、言葉だったのだ。
「やはり話せるんだな。それに、字が読めるのか」
「はい。はじめのウちは、カンタンな物しか読めまセんでしたが……イ、い、今はもう少し難しい物も読むことができます」
先程よりも流暢にそう言って、怪物は読んでいた本の表紙をルッカに向ける。表題は『上級薬学・応用』——比較的優秀なルッカでさえ理解するのに苦心した、難解な学問書だ。
「なんてことだ……」
あまりの衝撃に、ルッカは空いた口が塞がらないままだが、当の怪物はどこか悲しそうに項垂れている。
「……ですが、どれを読んでも、私についての記述が無いのです」
「そりゃあ、普通は男の腹からお前みたいなのが産まれることはないからな」
ルッカの言葉に、怪物が諦観の溜息を吐いた。
「……やはり、同志たちの言うように、私は『忌まわしきもの』なのでしょうか?」
「違うとは言えない」
おそらく自らの意志で生まれたでないだろう怪物を、哀れに思う気持ちはある。もし人間に生まれていれば、あるいはその頭脳をもって歴史に刻まれるような偉業を成し遂げたかもしれない。それでも、目の前の怪物が自然の摂理から外れた存在なのは疑いようのない事実であり、もとより繊細さを欠いたルッカは、この半人半獣の醜悪な女に、気休めの言葉をかけることはできなかった。怪物の右目——馬らしい方の目から涙が溢れ、人らしいスミレ色の目が深い悲哀に揺れる。その様子があまりに哀れだったので、ルッカは怪物が姿を隠して歩き回れるように、家を出た妻が残していったフード付きのガウンを着せてやり、怪物が読んでいた医学書をそのまま持たせて、診療所の裏口から送り出した。
「……創造主の祝福がありますように」
怪物は礼とともに祈りを捧げ、足を引きずりながら、薄明るくなった通りへと歩きだす。
早く行け——心のなかでそう叫びながら、ルッカは怪物の背中を見送った。診療所から怪物が出てくるのを万が一にも見られれば、誰も診療所に寄り付かなくなる。そんなことは、真っ平御免だった。
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