パンジー

@isagiyo

パンジー

一 色


まだ小さかった頃、保育園に通う際車の窓を通してパンジーが見えた。川の土手を挟んで沢山生えていて、川に面して一列ずつ色が違っており長方形のレンガに囲まれていた。保育園にもパンジーが植えてあったので、先生に聞いて名前を知った。初めて名前を知った時、何とも言えない違和感を感じた。もう少し荘厳で威厳のありそうな名前が適切なんじゃないかと思えてならなかった。彼等はいつも自分を花壇から優しく見守ると言うよりは、無言の圧力を添えて監視している感じがする。なので、違和感を覚えると共に、そんなひ弱そうな名前に対する彼等の怒りの矛先が自分に向かってきやしないかとヒヤヒヤした程だ。

登園中も保育園で遊んでいる時も色鮮やかなパンジーが側にあったせいか、いつの間にか僕の頭は彼等に侵されていた。というのも、僕は人に対する印象を専らその人の色で判断するようになっていたからだ。例えば、僕の母親は紺色、父親は抹茶色、保育園の先生はピンク色である。そして不思議なことに、その色は時々変わる。母親は普段紺色であるが、父親と喧嘩する時は赤色になる。それに対して父親は普段抹茶色だが、青になる。しかし、全員が色づいてみてる訳では無い。ある程度関係を築かないとその人の色は見えないので、街中を道行く人は何色でもあるような、何色でも無いような不思議な感覚だ。

そんな訳で、僕はきっとパンジーに呪われている。何もしてないのに、僕は一生ある程度関係を築いた人を見る際に彼等の監査を経由しなければならない訳だ。

そして僕は中学二年生で、学校に登校している最中だ。登下校の通路には近くに小さな森があって、気が向いた時はそこを経由するのだが、今はそこを歩いている。始業式が始まってしばらく経った。森に桜の木はないが、どこからか飛んできた花びらがポイ捨てされた湿った空き缶に張り付いている。今日はよく晴れていて、木漏れ日に照らされると空き缶すら何か訴えかけているようだ。

歩いていくと、所々若葉が枯葉の隙間から可愛らしく顔を覗かせている。偽善から意識的に踏むのを避けながら進んでいく。そもそもこの道を選ばなければと言われればそこで終わりだが、自分の意思で小さな命を救ったと思うと神々しい森の情景も相まって、とても良い気持ちになる。

しかし、僕が今こんなことを出来るのも、この森にはパンジーが無いからだ。彼らが居たらこんな身勝手で独りよがりなことは出来ない。僕がたまにこの森に来るのは、監視から逃れるためという一面もあった。いつから彼等をこんなにも恐れる様になったのだろう。最初はあんなに新鮮で心地よかったのに、今は通学路の川で群がっている彼等に憎しみさえ感じる。色が原因だろうか、日常に色が溢れると誰でも目が痛くなってくるものだ。それとも香りが原因だろうか、見るだけで胃の中が甘ったるくてムカムカするような、あるいは少し酸っぱくて鼻を刺すような匂いが香ってしまう。

森を出たら学校はもうすぐそこだ。道路沿いに進めば一分足らずで校門をくぐれる。教室にはいると、複数人で話していた男子の一人に声をかけられた。少し背が小さくてガタイの良い体つきだ。

「おはよう、小山」それに対して僕は返す。

「おはよう、水谷」席に着く僕を追って彼はいつも通り他愛ない話を始めた。水谷は小学校の頃からの友達で、趣味も合う為二年で同じクラスになってから増々よく話すようになった。色は紺色で母親と同じだが、恐らくどちらも少し神経質な所がある事に由来するのだろう。

時間を置いてドアが開き、木曽が入ってきた。肥満気味で頭は坊主にしている。彼は窓側に溜まっているグループに入り込んで話し始めた。席に座っている藤戸という男子の方を向いて、わざとらしく大きな声で話している。

「今日は多めだな」

「な、何かあったのかな」彼等が見ている背が小さくて天然パーマの目立つ藤戸という子は、フケが多いという事で彼等の玩具になっていた。彼はいつも制服のブレザーをフケで汚しており、その癖夏場でも中々脱ごうとしないのが面白いのだろう。

「嫌だよな、あれ。先生に何とかしてもらいたいけど、多分動いてくれないだろうな。」水谷が言った。勿論本心でそういった訳じゃない。僕がそれをじっと見つめているので、木曽に何か言われる前に警告しているのだ。どうやら水谷は、僕が正義感からその現場に今にも飛び出していこうとしている様に見えたらしい。

木曽は紫、藤戸は黄緑である。どちらもあまり話したことは無いが、一年の頃も二人とも同じクラスで、会話を聞いたり見ていたりしたら分かった。藤戸は黄緑だといったが、実は今灰色に変わってきている。前までは木曽にからかわれたり、肩にぶつかられた時にしかならなかったのに、植物が根を伸ばすような形で、灰色が彼の中で広がっていっている。これは一体どういう事なのだろうか。僕の中で色とはその人の個性そのものである。木曽にいじめを受けて、彼の個性は変化しているのだろうか。そんなことを考えながら、僕は水谷に向き直って話を聞いていた。

扉がまた空いた。今度は白石が入ってきた。彼女の飾り気の無いおさげの髪型が目に入った瞬間、自分の胸が軽くなるのを感じた。姿を見ただけで僕の心で凝り固まっていたもの、強ばっていたものが全て解けて溶けて消えてゆく。彼女の色は白である。一切の穢れのない完璧な純白である。別に特別美人ということでもない。しかし彼女と少しでも会話をした人なら、彼女の魂の純潔を知るだろう。

「おはよう」彼女が必要以上に明るく、しかし硬い笑顔で挨拶してきた。僕は極力俯きながら、最新の注意を払って、なんとも思われないように返した。一体どうして僕のことが見えてしまうんだ。

「おはよう」

彼女とは1年の頃もクラスが同じで、何も知らなかった僕は積極的に仲良くしていた。初めて彼女の色を見て僕は驚愕した。是非とも仲良くなりたいと、恋心とも気づかずに純粋に思った。しかし木曽と藤戸の出来事に直面してから、こんな考えが頭をよぎった。もし僕のせいで藤戸と同じような植物の根が彼女の色に付いて、それが一生取れなくなったらと。そう考えると、背筋が強ばるのを感じる。もし僕の色が木曽と同じ紫だったら(最も、人の色に影響を与えるのが本当に当事者の色に関係するのかも分からないが)。何故か自分自身の色は全く検討がつかない為、彼女と関わるのが恐ろしくて堪らなくなった。パンジーはきっと僕の心の中から、僕の色のフィルターを通してものを見ている。空気の色が分からないように、僕の色も流石の彼等も判断できないのだろう。

木曽と藤戸の関係を見て彼女との関係に亀裂が入ってしまった。こんな心配事元々知らなければ良かったのだろうか。そう考えると二人が憎らしくて仕方がない。というか、そもそも僕には僕の色は見えないのだから、僕にとってはきっと純白のままだ。何故今も彼女が純白だと言い切れるのだろうか。僕に関わった人全てがもう既に僕にだけ認識できない根を植え付けてしまっているのではないか。そんな考えが湧かない訳でも無いが、今更彼女と関わる度胸も無い。

担任の今村先生が教室に入ってきた。彼女はかなり若くて、美人に見える。それはきっと、メイクの色使いが上手いからだろう。チークの落ち着いた調子のかなり注意しないと見えない血色や、きっと上から新しく描き足しているであろう、眉毛の上品なくすんだ茶色は、こんな言い方変かもしれないが自然の本来の姿の様に思えてならない。そこからはえもいえぬ生命力が伝わってくる。パンジーの煩くて下品な色とはまるで違う。しかし彼等はそんな彼女に、無慈悲に黄色を塗りたくる。

一日の授業が終わった。教室のカーテンが夕日を机に吐き出して反射させている。まだ人がいるはずなのに、こうした風景に注意を奪われてか僕一人みたいだ。さっさと荷物をまとめて昇降口を出ると、春の暖かくて爽やかな空気で肺が満たされる。その感動と心地良さがその身に合わないために、溢れ出てしまうのを無意識に恐れてか、体が膨れ上がっていく感覚を覚えた。息も必要以上に深く吸う。

幸福に満たされたまま川沿いに歩いてゆく。桜の花びらを乗せて流れる水面が夕日が反射してあの森に落ちていた空き缶と重なる。そういえばと川とは反対の方を見ると、桜が咲き乱れていた。どうして気が付かなかったのだろう。その落ち着いた調子の桜色は、いくらでも見ていられる気がした。しかし、綺麗なものだけを見続ける事なんて出来ない。綺麗なものを見るには、汚いものを見なきゃいけない。そんな事を僕に伝えているみたいに、保育園の時見ていたものとは違うパンジーが川の傍に咲いている。色の配置は無造作で、こちらに顔を向けている。彼等の視線が僕の身に突き刺さり、溜まっていた幸福が気のぬけるような音を立てて空気をだらしなく吹き出す風船のように、僕の中から抜け出てゆくのを感じた。幸福はどこへ行ったのだろう。そう問われたら彼等はこう返すだろう。

「そんなものは元々無い。」

彼等は僕に日常を与える。僕を日常に留めて平常心を保たせてくれているのだ。いくら僕が彼等を退けようとしても、僕は彼等無しでは生きていけないのだろう。そうでなければ何故森に行かなかったのだろう。


二 自尊心

今日は雨が降っている。ビニール傘を透かして木々を覗くと、葉の緑と曇り空の薄い水色が雨粒の中で交わるのが見える。湿気と草木が香る。ぬるい空気が首筋を撫でた。若葉を避けて進んでゆく。夏が近づき数が増えてきたので、避けるのが難しい。

学校に着くと水谷が僕の机にふざけて座っていた。白石と話せないのが寂しくて、最近は彼と以前に増して仲良くしている。彼女の代用品を用意しなければならなくて、それには水谷が居ないといけないのが憎たらしい。

それはそうと彼はかなりの美形だった。運動も得意で女子からモテそうだが、彼自身は女性が怖いらしい。僕は彼のそんな部分に自分でも不思議な程の親近感を感じた。そして口には出さないがある確信を持っていた。彼が恐れているのは母親だと。

僕は水谷の考えていることは全て理解出来ているつもりだった。元々人の表情の変化に敏感であった上に、彼は顔に出やすいので、会話をしていて楽だったし、予想外の事を言われて考え事をさせられることもない。なので僕は特別好意を込めて彼を慕っていたが、なぜ彼が僕を慕ってくれていたのかも考えるべきだったのかもしれない。彼はしきりに僕に抱きついたり手を握ってきたりしていて、そういう冗談だと流していたが、その日の昼休みに彼は僕の予想外のことを言った。

「もし俺が女だったら、俺と付き合えるか。」勿論冗談かもしれないと思ったが、彼はやはり顔に出やすい質であった。これまでにない程真剣な顔でこう言われた僕は頭の中が真っ白になりながらも素っ気なく(もう少し優しく突き放してあげたかったのだが)答えた。

「出来ない」彼はそれを聞くとじゃあ友達のままで居ようと笑顔で答えてその話は終わった。

どうして気づかなかったのだろう。僕は恐ろしくて堪らない気持ちになった。彼の好意を気色悪く思ったわけでは決してない。予想外の事を言われたのが恐ろしかったのだ。しかしそれとは裏腹に僕の中で男性的な自尊心が満たされてゆくのを感じた。少年愛の一つ上の名誉を勝ち取った気分になる自分が不気味に思えた。

得体の知れない高揚感はどうやっても払拭できないまま学校が終わった。僕はパンジーにだけでなく、水谷にも呪われた。きっとそうだ。この先も呪われ続けるのだろうか。しかしこういった呪いが僕に常識をすり込んで社会に適応させることは疑う余地がない。そんなことを考えながら自然と僕は森に入っていた。

雨はすっかり止んで木漏れ日が雨粒を必死に抱えた若葉を照らす。避けてやる体力はあったが、そんな気にはならなかった。構わず踏みつけて進んでゆくのには背徳感にも似た快感がある。ふと上の方に目を向けると緑のカーテンの隙間から日光が虹色に光っている。そんな様子を呆然と眺めていた。

その時だった。日光の虹色が僕の中に入り込んでゆく感覚が全身に走った。僕が虹になり、色を体現している。色を認識するのが僕なのだから、僕の中に色があるのは当然である。そんな考えてもみなかったが思えば当然の事を悟った。

そこから何だか変な感覚だ。色がやけに目に染みる。見慣れたはずの湿った樹木の吸い込まれそうな焦げ茶が、日を浴びて散々と光を放つく葉の緑が、やけに新鮮に、まるで初めて見る光景のように目に映る。そんな風景に促されたようにふと僕は自分に意識を向けてみた。なせか確信を持って僕は認識できないはずの僕の色を確認した。

紫と黄緑だった。まさか、どうして僕の色がそうなんだ。わからないにしてもある程度予想はしていた。最悪の可能性は想定していなかった訳でもないが、やはり自分はオレンジや紺色といった奥深さを持っているはずだと心のどこかで確信していた。木曽と藤戸と同じ色なんて。それに二色とは、人にはどちらが見えているのだろうか、それとも両方か。そもそも他の人にはそんな感覚ないからそんなのわからないか。というか何故今になって見えたんだろう。巡り巡る疑問を抱えて、半ば呆然として歩いた。僕に紫色がある。これは藤戸に灰色の根を植え付けた木曽の色だ。つまり僕にはきっと人を傷つける様な要素がある、水谷が脳裏に浮かんだ。やはり僕は白石とは関われないんだ。

しかし本当にそうだろうか。興奮も冷めぬまま、突如僕にそんな一種開き直った疑問が浮かんだ。そもそも色がなんだと言うんだ。とうして僕の色が紫だからって人の色を変えてしまうと言い切れるんだ。今まで僕は慎重になり過ぎてたんじゃないか。そもそも僕がこんな親切心で苦しんでも、当の彼女は何にも知らないで僕が急に無愛想になったと思っているに違い無い。なんて薄情なんだろう。それにそんな彼女もどうせその内誰かに汚される、決まってる、きっとそうだ。その前に僕が罪悪感を伴って、消えゆく純白に敬意を込めて葬ってやった方が良いんじゃないのか。

そこまで考えて僕は急に活気づいてきた。今までどうして気づかなかったんだろう。そうだ、僕がいくら親切にしていても、他の人達は違う。きっと自分が何をしているのかも分からないまま無神経に人の個性を歪めてゆくんだ。だったら意味なんて無いんじゃないかと。

僕は根拠もなく彼女を自分の意のままに傷つけられると思い込んでいた。そして恥ずかしいことだが、意のままに操ることも叶うと思っていたかもしれない。純白は無垢であると同時に無知であると信じていたのだろうか。いや違う、僕には謎の自信があったんだ。水谷の呪いから生まれた、怪物のような自尊心が。


三 優越感(上)

僕の色が分かってから夜が明けて今日、川沿いを歩いて登校している。パンジーが僕を疎ましそうに見ている。僕は勝ち誇った気分になって学校へ向かっている。僕は明らかに昂っていた、先日見出した自分の独りよがりな考えに酔いしれて 白石を傷つけてやろうと思っていた。今日は曇りだ。光が鈍く視界全体に充満していて、左手の穏やかに流れる川だけが動きを感じさせる。パンジーは僕を常識に引き戻そうとしているけれど、そんな呪いも今の僕には効かない。

教室に着くなり彼女の席に近づいた。彼女も今来たらしい、一限目の準備をしている最中だった。僕が話しかけると少し驚いた様子だった。僕は構わず、今までの態度が嘘だったように会話をした。と言っても、今までも何回も話したこともある様な話題で、会話自体に意味はまるでなかった。

どうやって彼女を傷つけるか。それが一番の問題だった。木曽でさえあんなに長い時間がかかった。きっと僕にはさらに長い時間がかかるだろう。心も痛むだろう。しかし僕がやらなきゃ誰かが無意識に、何の罪悪感も無くそれを行ってしまう。そう考えると僕がやっていることは正義なのかもしれない。

木曽と同じ様に罵倒を浴びせるのは簡単だけれど、もし彼女が僕に敵意を向けたら、きっと罵倒はそこまで有効じゃなくなる。罵倒は、浴びせられる相手が浴びせる相手に服従している状態でないと、つまり心まで部分的だとしても支配されている状態じゃないと意味が無い。今の僕にできる考えうる限り最高の行動は、かつて僕が受けてきたような呪いを、彼女に同じようにかけてやることだった。呪いとは人の内に潜む、考え足らずの歪んだ常識、またはその元となるものである。

ではどんな常識を彼女にすり込んであげられるだろう。人のコンプレックスにつけ込んで行うのがやり易いだろうな。彼女の肥満気味の体型を考えて、とりおえず僕は同じく肥満体型の理科の先生の悪口を言った。

「あんなに太っていると大変だろうね」

「少しも痩せようとは思わないのかな」色々と言ってみたが、少し直接的すぎたみたいだ。彼女の笑みがかなり引きつっている。

何はともあれ方針は決まった。これで少しづつ会話の切れ端に潜む呪いを植え付けて、一度飛び切り繊細にしてから傷つければ、きっと一生消えない痕が彼女に残るだろう。

久々に満足感で胸がいっぱいになった状態で森を歩く。初めてお手伝いを任された子供のように生き生きとしながら、微かな夏の気配をわざとらしくその身に感じて歩く。若葉とはもう呼べないほどに生い茂った葉を踏み潰していく。

あれから数日が経った。一言で言うと、かなり順調に進んでいる。彼女には色こそそのままだが少しづつ醜い常識を刷り込んでいっている。さらに僕は、自分のことをよく知るために最近木曽と積極的に話すようにしている。木曽の事がある程度分かったら藤戸とも話してみるつもりだ。

木曽と最近話して、本当に自分はこの男と同じ色を持っているんだろうかと思い直さずには居られない。彼と話をする際に出せる話題と言ったら、専ら藤戸の悪口を大袈裟に、馬鹿な振りをして笑いながら話すことだった。そうすると彼は何を考えているのかまるで分からない笑みを浮かべて、少なくとも楽しそうに会話してくれる。しかし、彼の言動自体に共感できることはまるで無かった。そもそも彼は自分の家庭の事をまるで話してくれない。彼の生まれた環境が分からないんじゃ、人柄の推測も叶わない。彼の個性がいくら分かっても、それがどういった形で行動に出るかを決めるのは彼の育った環境であり、それが分からない以上動機を探るのは不可能だ。

ではどうやって彼と僕の共通点を探そうか。そう考えて二日程経ったある日、不思議なくらい明瞭に、なぜ今まで分からなかったのだろうと疑問に思う程はっきりと頭に浮かんだ。

その日木曽が机に脚を引っ掛けて盛大に転んだ。僕はそれを見て思わず吹き出しそうになりながら彼に手を差し伸べる、彼は恥ずかしそうに手を掴んだ。その時に僕は自分と彼の共通点を見つけた。当たり前だが、答えは常に僕の内にあったんだ。それは僕が彼をどうしても理解しようとしない僕の中にある彼への優越感では無いのか。そしてそれは他の何かへの劣等感の裏返しである。彼が藤戸に優越感を抱こうとする動きは、きっと彼の家庭へのあからさまな劣等感への裏返しだ。例えそうでなくてもやはり彼には何かしらの触れて欲しくないやましい事がある。そう考えると自分の事もかなり説明がつくような気がする。

木曽や藤戸の様な低俗で考えの浅い人を過度に嫌うのは僕の中のそうした要素への劣等感の現れなのかもしれない。そしてそういった価値観にすら縛られない白石が本当は妬ましかったのかも知れない。本当はずっと彼女の純白が疎ましかったんだ。僕の行動の動機は、あっさりと書き換えられた。こんなに簡単に見つかってしまうと、その内容に関わらず自分の軽薄さを恥じずには居られなかった。勿論だからといって途中で止めるつもりもないが。

僕の中で彼女への呪いは、いつの間にか復讐という意味を帯びた独りよがりな夢となっていた。それは、僕が純白ではない事の復讐であり、彼女がそれを自覚していないことへの復讐であり、何よりあの忌々しいパンジーへの復讐であるのだ。


優越感(下)

藤戸とはすぐに仲良くなれた。友達もいなかったので、何回か話しかけてやると嬉しそうにネットのスラングの様なものを混じえて饒舌に話すようになった。そんな様子を見てなんとも言えないむず痒い思いをするものだが、この感情の正体はきっと木曽と変わらない。行動の形が違っただけで、実はその動機は一致しているんだ。

ある日遂に、僕は藤戸をご飯に誘って具体的に話す機会を得た。彼はもう僕のことを唯一の親友の様に思っているみたいだ。不愉快ではあるけれど、僕の夢の為ならなんでもない事だ。僕は最近自分でも分かる程生き生きとしている。目標があるだけでこんなにも人生は素晴らしくなるんだと感動する。今まで色に縛られていた僕が初めてそれに反旗を翻しているのである。皮肉にも色に縛られて色褪せていた世界が、ここ数日で彩り出した。

今はファミレスに来ている。昼過ぎなのて人はまちまちだ。藤戸は注文したナポリタンを食べている。それにしても下品な食べ方だな。

「話って何?」そんなことを考えていると藤戸がナポリタンを口に含んだまま聞いてきた。

「うん、お前についてなんだけど」

「そりゃそうだろ、じゃなきゃ何で俺を呼んだんだよ」藤戸が笑う。その拍子で口から麺が机に落ちた。僕は不快感をなるべく顔に出さないようにして続ける。

「お前、木曽にあんな酷いことされたままで良いのかよ」僕が一番不思議に思うと共に不満に思っていること、それは藤戸と僕に共通点がある事だった。木曽はまだ分かる。僕には共感性がやや足りない節がある事をある程度は自認しているし、それが環境によっては木曽のような人間を作り出すことも理解出来る。(最も、それは木曽と話して、考えに考えてやっとわかっと事だから、藤戸に対しても同じ様な事にならないとは言い切れないけれど)しかし、藤戸については理解したいとも思わない。彼はとても臆病だからだ。木曽に対して何の抵抗もせずに、かといって誰かに助けを請う訳でも無い。別になんとも思ってないならそれで良いだろう。しかし藤戸は度々僕に木曽から受けた悪態や暴力を、自分がさも悲劇のヒーローであるかのように一種誇らしげに語る。なるほど、彼はそうやって自己のアイデンティティを獲得しているのかもしれない。木曽からいじめを受けている限り、彼はずっと木曽からいじめを受けている人としての役割をあてがわれる訳だ。そうでなければ、僕がそれを聞いて同情し、解決の手伝いをしてくれるとでも思っているのだろうか。

何はともあれ彼は自分で自分の首をガタガタ震えながら締め続けているだけの考え足らずの人。そういう奴だ。同情しないでも無いけれど、自分の無力を過信し、一種あぐらをかいているようにも見えるその様子に対する苛立ちの方が断然勝る。本当に彼に暴力を振るっているのは、木曽でも環境でもなく、彼自身だ。

「嫌じゃないって言ったら嘘になるけど、あと一年の辛抱だから」藤戸がそう答えるので、僕は少し目を見開いた。

「へえ、次のクラス分けで別々のクラスになるよう先生に頼んだの?」

「いや、そういう訳じゃ無いけど、先生も流石に気づいてくれるでしょ」

「は?」

本気でそう思った、まるで言っている意味がわからない。彼のいい加減で楽観的な予想にはきっと一生共感できない。こんな奴と共通点が本当にあるのかと言う怒りとそれに遥かに勝る優越感で思わず笑ってしまいそうになるのを必死に堪えながら僕は応じる。

「そっか」彼と僕との共通点があるとは思えない。あるとしても見つけ出すのは困難だろう、育った環境が違いすぎる。理解を諦めるということは、しばしば差別的だ。僕の優越感の表れでもあるのだろう。藤戸はそんなことも知らずに呑気にまだナポリタンを啜っている。この時、初めて僕にささやかな罪悪感が生まれた。


四 不信感

木曽と藤戸からはもう集められる情報は無いので、話す機会はめっきり減った。向こうから話しかけられれば話すけれど、僕から話しかける事は今後一切無いだろう。

もう季節はすっかり夏だ。湿気を帯びた空気が体に粘り着いている。しかし不快なものでは決してない。それは生命の粘り気であり、森の植物が必死になって生にしがみつこうとする意志の表れである。あれから時間は驚く程あっさりと流れて行った。色々なことが同時に起こりすぎて何が原因かもわからないまま、僕は自分の復讐を胸に、しかしそれにしては随分怠惰に過ごしてきた。

森の出口が見える。その向こうに日を浴びて森の日陰と境界を引くように、アスファルトが輝いている。それは僕の孤立を暗示しているようだった。みんなと同じ色を手に入れたのに、何だか増々人の考えていることが分からなくなってきている気がする。理解すればするほど、自分がいかに理解していなかったを理解する。元々友達付き合いができたのも水谷くらいだった。それも僕が彼の考えていることが完全に理解出来ていると思っての事だった。

考えている事が分からない人とは話したくない。だから本当の自分の友達は自分のみだと思っていた。しかしそんな親友も僕の理解の外にいた。今更内省する気も起きない、そんなことより白石を早く傷つけよう、もうそれしかない。そんな焦燥感に励まされて僕は勢いよく森を抜けた。

教室に入っていつも通り白石の席に近づく。もう既に彼女は常識にがんじがらめの、いつ傷つけられるか怯えている状態だ。人に必要以上に合わせて会話するようになった所を見ると、それが良く伺える。彼女は友達選びにも失敗したみたいだ。やはり僕が居なくてもあの頭も性格も悪い子達に汚されてたに違いない。(無論、彼女達のお陰で僕の仕事も効率良く行うことが出来たわけだけれども)きっと今日が頃合だ、話しながらそう思った。なのでこの時間は他愛も無い話で済まして昼休みに終わろう。

僕の復讐は今日終わる。そう思うとやはり延期したくて堪らない。これが終わったら、僕は本当に独りだ。僕を受け止めてくれるパンジーは自分で突き放した。今僕は何にも縛られていないのかもしれない。色に縛られていたとしても、そこから脱却しようと、一矢報いようと十分に努力している。だからきっと今僕は自由だ。それにしてもなんて心細い自由なんだろう。

今村先生が教室に入ってきた。ホームルームが終わるとその場に留まって授業の準備をしている。彼女は国語の担当なので、一限目は国語みたいだ。チャイムが鳴る、号令がかかる、授業が始まる。授業を聞く気にもなれなくて、彼女が黒板にチョークで書き込む様子をぼんやり眺めていた。黄色のチョークを使う先生の指先が汚れていくのを見ると、嫌な気持ちになると共にそこに一種のエロスを見出してしまうのは、昼休みの事を考えての事だろうか、それとも僕の元々の性だろうか。よく考えたらどちらも同じ意味だと気づくけれど、本質を突いているのはきっと後者だろうな、僕は綺麗なものが好きなんじゃない。綺麗なものが汚れていく様が好きなんだ。

昼休みが来た、今は白石とその他複数の男女で話している。ほぼ全員が水谷の友達で、名前も覚えているか怪しいけれど、今日は必要なのでやむなしに話している。一人が何か言うと、それに幾つもの相槌が不協和音の様に頭に響いて不快だ。しばらく会話が続いた後僕は意を決して彼女をさり気なく体型のことでいじってみた。本当にさりげなくだったけれど、一緒に話していた水谷がそれに食いついてくれた。

そこからは流れるように事が進んだ。一見あり溢れた会話である。誰かが誰かをいじって、それをみんなで笑い合う。彼女がそれで極端に傷ついたのは、僕の努力の賜物だろう。しかしそれが分かるのは、きっと僕だけだ。彼女は硬い笑顔を顔に貼り付けて可愛らしい声でそれに応じている。

もうすぐだ、もうすぐ夢が叶う。息が自然と上がってしまう。彼女が居なくなったら、僕はどうすれば良い、今からでも彼女の前に立ちはだかってヒーローを演じて見せようか。そうすれば僕がどんなに優しいか分かってくれるだろうか。

気がついたら僕は勃起してた。何に興奮しているんだろう、彼女の笑顔に隠れた自分の繊細さを必死に隠そうとする子供のような哀れさだろうか。今から汚される純白のことを思ってのだろうか。はたまた木曽のような低俗な加虐心からだろうか。

周りのクラスメイトは彼女で遊ぶのに飽きて別の話題に移っている、何の話かなんて興味無い。彼女はその輪から少し外れて会話をぼんやり聞いている。一体何を考えているのだろうか、何を感じているのだろうか。怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。それとももう心を閉じてしまっただろうか。

教室のざわめきが何だかゆっくりに聞こえる。声が混ざる、音が混ざる、もはや意味を持たない雑音の中で、僕は白石に向き合って立ち尽くす、彼女は僕に目もくれない。僕は彼女と二人きり、しかし彼女は1人きり。彼女が右手を揉んでいる、僕はそれを真似てみる。何とか彼女と一つになろうと努力するけれど、彼女は一人で変わってゆく。それはさながら羽化だ。無垢という純白の繭を破って、彼女は羽化する。一人で。分かるよ、僕も一人だ、一緒に一人で生きよう。

でも悲しいな、そんな君もいつか適応するんだろう。それはさながら妊娠だ、彼女は新たな常識を孕んで産んで育てる。皆は子育てに熱心に協力してくれるだろう。彼女は新たな(嘘みたいに汚い)体で、新たな(話すだけで馬鹿が移りそうな)仲間と共に、色んな笑顔をおぶって生きていく。彼女の長いまつ毛が微かに震える。変化する、羽化する、適応する、妊娠する。全ては一瞬だ。

夕日が落ちてゆく様だった。今までの長い長い夢の様な日常に終わりを告げ、新たな月明かりが、残酷で無意味な月明かりが彼女にこれから刺すだろう。

朝日が昇るようだった。暗い暗い夜道を抜けて、彼女はやっと正解を見い出す。暖かい朝日に照らされて、誰が用意したのかも分からない手垢まみれの幸せに包まれるだろう。

彼女に根が伸びる。しかしそれは僕の予想していたようなものでは無かった。僕は少し戸惑いながら見ている。灰色の汚い根は彼女に生えなかった。彼女自身の唇のような薄紅の繊細で鮮やかな色が彼女に広がる。無造作に見えるけれどその根の生え方にも藤戸の様な下品な物ではなく、一本一本が引き立つような上品な佇まいが感じられる。

美しい、その一言に限った。どうして僕の思い通りに汚れてくれないんだ。怒りと恐怖で頭がクラクラする。それは中々積み立てられない積み木に苛立つ子供のようだなと自分でも思った。予想外に綺麗に、官能的に成長した自身には気づきもせずに彼女は相変わらず右手を揉んで口をもごもごさせている。そんな様子が増々僕を苛立たせた。そして今はっきり分かった。僕は彼女の事なんか少しも好きじゃなかったんだ。


五 認識の可能性

僕は堪らず学校を飛び出した。日差しの中走り続ける。きっと酷い顔をしているだろう、今にも泣き出してしまいそうだ。息を切らして、鼻をヒクヒクさせながら走る。電柱が僕を嘲笑う、並木がヒソヒソ話してる。怖い、怖い、分からない。誰か僕に説明してくれ、誰か僕を理解してくれ。

「それが出来ないなら、僕の前から消えてくれ!!」

気づいたらパンジーの居る川辺に立っていた。昼下がりなので驚く程に人気がない。僕の叫びに答えるように、風に揺られて足元の草がさざめく。僕は血眼になってパンジーを探す、見つける、走る。パンジーに近づくなり僕はパンジーを蹴飛ばす、もう一度。

お前たちさえ居なければ僕はこんな思いしてなかったはずだ。お前たちが僕の目に変なものを植え付けるから、お前たちが僕に悩み事を植え付けるから。

「お前の呪いのせいで僕の人生滅茶苦茶だ、死んで詫びろクソ野郎!!アホみたいに花弁ぶら下げやがって」川辺の花壇に向かって怒鳴り散らしている僕はまるでキチガイだ。いや、もう実際に気が違っているのかもしれない。とっくのとうに呪いは手遅れな所まで進行してたんだ。

パンジーは僕を嘲笑っているのだろうか、それとも流石に怒っているだろうか。悲しんで居るようにも見える、どうにでも見える。当たり前だ、パンジーに意思なんか無い。本当は僕に喋りかけるわけも、人に色を付ける訳も無いんだ。全部僕の自作自演。分かってた、分かってて蓋をしてたんだ。そっちの方が都合が良かったから。でももう沢山だ。これからはきちんと人のことが見たい。色も何も無い状態で向き合いたいんだ。

「君は本当に自己中だな」僕が蹴ったせいで茎が折れてしまった紫のパンジーが、首をだらんとさせながら話しかけてきた。

「人を理解の枠に当てはめるために僕達を利用して、それが無理と分かったら今まで散々嫌煙していた臭い綺麗事を今まさに並べようとしている。恥ずかしくないのか。君は結局自分の事しか見てないんだ。だから本当は誰が何考えてようとどうでもいいんだ。他者が理解できないのが怖いんじゃない。他者が理解できない、他者と違う自分が怖いんだろ。自分が大好きなんだよな、君は他者に写った自分しか見られない。だからその場に本人が居てもいなくても会話が出来てしまう、今の僕みたいにね。ほら、また君の分身が来たよ」振り返ってみると水谷と木曽と藤戸、そして白石がそこに立ってた。

「酷いよ小山、俺の好意を踏みにじっておいて一度も俺の事理解しようとしてくれて無かったんだな」水谷が泣きそうになりながら言う。

「俺と共通点があると知った途端話しかけて、もう得られそうな情報が無いとすぐに捨てる。そういう人を尊重できない所を見ると、俺以外の奴にも優越感を感じているんだよな。お前は自分以外の人間全員見下してるんだ。本当に劣ってるのはお前の方なのに」木曽が僕を睨みつけて言う。

「なあ、俺がいじめられてるのにお前結局何もしてくれなかったよな。とても傷ついたよ、だったら何であの時俺に友達になろうよなんて言ったんだよ。初めて友達が出来たと思ったのに、結局俺のことも道具としてしか見てなかったのかよ」藤戸がしゃがれた声で怒鳴りつける。

「待って皆、今感情に身を任せてもしょうがないよ。ちゃんと話し合おう」白石が僕と皆の間に立ってそう呼びかけてから僕に優しい笑みを投げかけた。

「仕方なかったんだよね、小山は人の心を理解できなかった。それにきちんと向き合おうとした結果がこれなんだよね。良い結果とは言えないけど、小山なりに努力した結果なんだって、私は知ってるよ」彼女の優しい言葉に思わず泣きそうになる。やっぱり僕の味方は彼女だけだ。

「わあ、やっぱり君は凄いな。自分で言った言葉に泣きそうになってるなんて。正真正銘のナルシストだよ」紫のパンジーがわざとらしく驚いた声で言う

「黙れよ、僕の事が理解出来るのは白石だけだ。お前に口出しする権利は無い。全部が僕の投影なんだったら、僕はやっぱり彼女を信じる。だってそうだろ、思いどおりにはならなかったけど、僕が彼女を変えたんだ。それだけは揺るがない事実だろう。だから僕は彼女を信頼してるし、彼女もきっと僕の事を信頼してくれてる。お前は僕のひねくれた哲学かぶれの、今の僕には必要のない僕だ。もう消えてくれ」まるで物語の主人公になったようだ。彼女が僕の味方をしてくれている限り、僕は大丈夫だ。

僕は彼女に目をやった、彼女は純白に戻ってた。ああ、良かった。元に戻ったんだね。

「今までごめんね」僕は何の意味も持たない謝罪を、自分の為だけの謝罪を彼女にした。彼女は笑顔で頷く。

これで仲直りだ。そう思うや否や、皆消突然えてしまった。

「え、何で」僕は目を丸くして立ち尽くす。

「だから言っただろう。全部君なんだよ。ても気づかなかっただろう。相手が実在しようが、君の妄想だろうが、君は君の事しか興味無い。どっちでも良いんだ。これは呪いだ、でも僕の呪いじゃない。君が勝手に自分を呪ったんだ」しばらく呆然とした。何が起きた、傷つけられた。誰が傷つけた、そこの花壇に寝転がってるクソ野郎が。

「まだ分からないのか、何も他者の考えに同調しろと言っているんじゃない。客観的に見ろと言っているんだよ」

うるさい、うるさい、僕のせいじゃない。

「全部お前のせいだ」花壇を思い切り踏みつける。何度も、何度も、靴が土にめり込む度に何かが壊れていく。なんだろうか、この感覚は。僕の心が壊れているのだろうか、違う、もっと別の何かだ、何だこの感覚は、何か変だ。

「知りたいかい、その感覚は君の本質を支える決定的な思い出だ。君が自ら蓋をした、君そのもののような思い出。でももう限界だ。君の中の心の歪みが、ブラックボックスにひびを入れた。溢れ出す、溢れ出す。後悔が、トラウマが、本質が、溢れ出す。」

何を言っているんだこいつは、いや、きっと本当は分かっているんだろうな。土にめり込んだ土の部分からパンジーと繋がる。溢れてくる、自己嫌悪が伝ってくる。こんなに僕は自分が嫌いだったのか。こんなものを彼等は抱えてくれていたのか。

さっきとは打って変わって急に心が落ち着いた。今はパンジーに同情してる、親近感さえ湧いてくる。やっぱり僕は自分が大好きなんだな。

そう認めた途端、落ちてゆく感覚がした。意識が下へ落ちてゆく、落ちてゆく。見たことも無いけれど、まるで走馬灯のようだった。僕の原点に向かって落ちてゆく、落ちてゆく。今まで必死に抑えていた思い出が、感情が、溢れてく、溢れてく。後悔の海を落ちてゆく。

気がついたら部屋にいた、子供たちがそこで遊んでいる。ピンク色のエプロンをした女性がそれを眺めてる。懐かしい、ここは僕がいた保育園だ。

「ほら、窓の方に君がいるよ、あれは何をしているの」どこからか声がした、きっとあの紫のパンジーだ。

「玩具を並べて遊んでいるんだよ。色んな色の玩具を夢中になって配置する、そうすると綺麗な模様ができるんだ。玩具を並べるのが、ただ並べるのがとても楽しかった」僕は夢見心地で、懐かしい気持ちで答える。この瞬間までずっと忘れていた光景、どうして忘れていたんだろう、どうして僕はこんなに楽しい光景に蓋をしたんだろう。

「すぐにわかるさ」パンジーが今までにない優しい声を掛けてきた。

窓の方に日に照らされながら僕が玩具を並べている。そこに別の男の子がやって来て、僕の並べている玩具の中から、紫色のプテラノドンの人形を持っていこうとする。僕はそれを取り返そうと相手に飛びかかった。しかしその子は年長らしい、当時の僕よりずっと大きくてとても敵わない。

僕は玩具を取られて泣き喚く。先生がそれを面倒くさそうになだめる。

「 君が最初に紫に抱いた印象は、攻撃性だ。優越感と劣等感の体系なんかじゃない。ただの攻撃性、それが変化するのは少し後になる。」パンジーがそう言うといつの間にか夜になっていた。子供がめっきり減って、がらんとしている。そこで僕は当時の友達二人と遊んでいた。少し離れた位置で年少の男の子が一人で遊んでいる。黄緑色のステゴザウルスの人形を持っている。

僕達はその男の子を興味本位でからかってみる、白痴なあの子は恐れもせずにヘラヘラ笑う。僕はそれがなんだかムカついてその子をぶってみる、何も分からないあの子はまだ笑ってる。

思い出してきた。僕はふと気になったんだ、どこまでやったらこの子は泣くだろうと。何とか泣かせようと押し倒したりぶったりするけれど、その子はずっと笑ってる。僕は何だか楽しくなって、その子のお腹を思い切り踏みつけると、初めて下手くそなラッパの様な呻き声が口から漏れた。僕は踏みつける、音が鳴る、踏みつける、踏みつける、踏みつける。

「君が黄緑に抱いた色は、やっぱり攻撃性だ。人を傷つける快感をこの時初めて知ったね。では紫と黄緑の違いは一体なんだろうね、違いなんてあるのかな。攻撃性を持てるのは、攻撃性に触れたものだけだ。表裏一体なんだよ、君は色のせいで連続性を知らない。全ての物事は名前を付けて区切れると思ってる。」なるほど、そう言われればその通りかもしれない。そうか、僕は何色でもあるんだ。世界全体が僕を体現してるんだ、だから僕自身が何色であるかはそこまで重要じゃない。今までずっと分からなかった事がとても分かりやすく、順序立てて明らかになってゆく。きっと彼等が僕の代わりに苦しんで、考え続けてくれていたんだろうな。

「これからは君が考えるんだ」僕は男の子が踏みつけられている様をぼんやりと眺めながら、もうすぐ終わるこの夢を惜しんだ。

「僕に出来るかな」

「出来るさ、もう一度だけ言う、連続性を信じるんだ。確かに君は沢山の人を傷つけた。これからも傷つけるし、傷つけられるし、僕でも明るい未来なんて想像できない。でもそれだけじゃないんだ。暗い暗いグラデーションの中には、どんな絶望があるのか、君は一度でも確かめようと思った事があるかい」僕はお腹を踏み続ける。そろそろ疲れて眠くなってきた。眠くなってきただって、どうして僕が疲れるんだ。僕は眺めてるんじゃないのか、どっちが本当の僕だ。いや、そうじゃないな。

気がついたら川辺に居た、花壇に片足を突っ込んだ状態で立っている。花壇に目をやると、滅茶苦茶に土をひっくり返されたパンジーが、無機質に散らかっていた。ああ、やっと和解できたな。

彼等の積み上げて来た内省が、僕に流れ込んで来るのを感じた。いよいよ独りになっていく。そしてやっと気づく、僕は大きな海の中に居るんだ。無限に広がる認識の可能性の中に。その中を一つ一つ確かめては捨てて、地上を目指して苦しみ続ける。しかもそれは切れ目のない流動的のもので、確保したはずの安全基地もすぐに流れて消えてしまう。きっとあの光景も、水谷も、木曽も、藤戸も白石もパンジーでさえも、そんなものだったんだ。今そんな海に繋がるための一つの認識をやっと手に入れた、苦しむ為の権利を。

もうすっかり日が暮れてしまった様だ。川が夕日に照らされながら、僕に寄り添ってせせらいでいる。爽やかな絶望が、僕の胸を吹き抜けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パンジー @isagiyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ