朝一番——夜明けと同時に砦の物見台に登り、その縁に腰掛ける。下を見ると、信徒たちが次々に寝床から出てきて、互いに挨拶を交わしながら、工具や農具を手に働き始めていた。

 エマニュエルが聖者の元に留まることを決めてから、三年が経とうとしている。ハリエットをはじめ、信徒たちの熱心な布教によってセレス教の教えは広まり、多くの者が入信した。信徒たちは家を建て、川から水を引いて、砦を中心にした町を築こうとしている——今は皆が協力して、石畳を敷いているところだ。人間たちが再び手を取り合っている様子に、エマニュエルの心は喜びで満たされていた。

 平安を味わい、噛み締めていると、物見台に続く階段を駆け足で上がってくる足音がする。すぐに息を切らしたハリエットが現れた。余程急いでやって来たのか、汗が玉のように額に浮かんでいる。

「エマニュエル……!」

「ハリエットさま。どうしたのです?」

 ハリエットは壁に手をついて息を整えると、絞り出すように少しずつ話しはじめた。

「聖者様が……あんたに話があるって。大至急……降りてきてほしいって……」

 エマニュエルは頷き、聖者の座す大広間へと向かった。 

 三年のうちに修繕された砦の内部は、エマニュエルが初めて足を踏み入れた時と比べて、見違えるようになっていた。石煉瓦は隙間なく敷き詰められ、床は綺麗に磨かれている。瓦礫が取り払われたので、歩いていて躓くことも無くなった——これも信徒たちの勤労の賜物だ。廊下を進み、大広間に足を踏み入れると、聖者はいつもと同じように、暖炉の側の長椅子に腰掛けていた。

「呼び出してすまねえな」

 聖者がエマニュエルの方を向くと、その顔を覆う銀の仮面が、暖炉の火を受けて輝いた——新たに訪れる信徒たちが怖がらないよう、聖者は自らの顔を隠すことにしたのだ。

「どうぞお気になさらず……それで、何があったのですか?」

 美しい貌が彫られた仮面の下で、聖者は躊躇うように息を吐き、口を開いた。

「……あんた、この砦の地下に行ったことあるか?」

 エマニュエルが首を横に振る。

「実はな、あんたが宿す天使の光が見えるのと同じように、俺には見えるんだよ……悪魔の宿す闇——暗闇よりも暗い闇が……」

 驚くべきことだ。本当にこの人間は稀有な才能を持って生まれたのだと、改めて実感する。

 本当のところ、エマニュエルは初めから悪魔の存在を感じ取っていた。被害が無く、またセレス教徒たちがその存在を知ってどう反応するかを見たかったので、あえて泳がせておいたのだ。

「——その闇、悪魔の存在を地下に感じるのですか?」

 初めから知っていたことを伏せてそう訊ねると、聖者は弱々しく頷いた。

「皆に悪魔のことを告げて、この場所から逃げますか? 今からなら、全員無事に逃げられますよ?」

 聖者はエマニュエルから顔を背け、黙り込む。どうするべきか迷っているのだろうか、仮面の下から唸り声が漏れ聞こえた。

「……いや。悪魔相手に逃げてしまっては、俺たちに力が無いことがバレる。教義を信じられなくなったら……希望を再び失ってしまったら、生き延びたところで無意味だよな」

 求めていた答えだった。偽りの教えを信じ、団結したこの人間たちは、世界の均衡を崩そうとする悪魔に対抗するための貴重な戦力となる——そう、エマニュエルは確信した。

「——悪魔に対抗する術を教えましょう」

 エマニュエルが告げると、聖者は天を仰ぎ、歓喜の声をあげた。

 

 三日後。エマニュエルは悪魔のひそむ地下室の扉の前に居た。その傍らには、松明を握り、銀の短剣で武装したハリエットの姿もある。

 信徒たちからかき集めた銀貨では短剣を一振りしか造れなかったので、聖者が志願者をひとりだけ募ったところ、ハリエットが躊躇いなく名乗りをあげたのだ。

「本当によろしいのですか? 悪魔は強敵です。無事では済まないかもしれませんよ?」

 地下室の扉を開ける直前、エマニュエルは一度だけ、ハリエットに訊ねた。

「自分の心配だけしてなよ。あたしは大丈夫だから」

 ハリエットはいつもの笑顔でそう答え、エマニュエルを押し除けるようにして、自ら地下室の扉を押し開けた。

「それに……」部屋に踏み込みながら、ハリエットが付け足す。

「あたしが死んでも、また夫と娘に会えるってだけなんだし」

 ハリエットの声に、恐れの気配は無かった。


「——エマニュエル。真っ暗で何も見えないよ……」

 言いながら、ハリエットが手をでたらめに動かして、何かを掴もうとする。その手に、エマニュエルは空いている方の手を重ねた。もう片方の手は、ハリエットの目を覆っている——腰から下が抉られ、無くなっているのを見せないためだ。

 決着は、ほとんど一瞬でついた。悪魔が一撃でハリエットの下半身を吹き飛ばし、そのままとどめを刺そうと飛び掛かったところで、エマニュエルが悪魔に触れ、祓ったのだ。

「なんだかんだ……怖い……もんだね……死ぬってのは」

 血を吐きながら、ハリエットが口の端を上げる。この期に及んで気丈に振る舞う姿に、エマニュエルの心はひどく痛んだ。

「何も見えない……光が、黄金の門があるんじゃなかったの……?」

 失血と、死に直面した恐怖で、ハリエットは小刻みに震えている。

「……天国って、本当にあるの? ねぇ……エマニュエル——」

 声を震わせるハリエットの手を、優しく握った。

「——えぇ。天国はありますよ。そこで創造主さまが……ご家族が待っています……」

 これから何百年にも渡り、多くの者に語ることとなる慈悲深い嘘を、エマニュエルは口にした。

 

 天国の存在に希望を抱く者もいる——たとえそれが、偽りだとしても。

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