Ⅴ
草原を越え、林を抜けると、緑ばかりだった景色が突然色味を失う。草は刈り尽くされ、木々は切り倒されていて、禿げた大地の真ん中には、今にも崩壊しそうな石造りの砦が建っていた。
「ここだよ。ここがあたしたちの本拠地……今のところはね」
そう言ってハリエットは砦の大門に近付くと、その隣にある目立たない通用口に身体をねじ込むようにして、中へと消えていくエマニュエルもそれに続いた。
砦の中はひどく荒れていて、壁に積まれた石煉瓦はところどころ崩れ、中の支柱が剥き出しになっている。はるか昔に打ち捨てられたのだろう、久しく修繕されていないのは明らかだった。
「酷いとこよね。足元、気を付けて」
ハリエットに導かれ、何度も躓きながら薄暗い大広間に辿り着くと、入り口に背を向け、長椅子に腰掛ける者の存在に気付く。フードを被っているので、後ろ姿だけではその容貌は判らない。
「……ハリエット。早かったですね」
掠れた、男の声が大広間にこだました。
「伝道の務めはどうしたのです? 出発したばかりでしょう?」
責めるような口調でそう言う男に、ハリエットは頭を下げて詫びた。
「ごめんね、聖者様……途中でこの人と出会ったから、聖者様に会わせなきゃって思って……」
「ん? 客が居るのですか……」
来客の存在に気付いた男はフードを取り、身体を僅かに捩って、顔を戸口に向けた。
薄明かりに、禿げた頭が浮かび上がる。眉をひそめ、目を閉じたまま、聖者と呼ばれた痩せぎすの男はエマニュエルに軽く会釈した。
「気付かず申し訳ありません。ようこそ。我らの慎ましい根城へ……」
聖者が手招きする。エマニュエルがハリエットの方を見ると、ハリエットが手振りで近くまで行くよう促した。
聖者の座す長椅子に近付く。やがて、暖炉の炎に照らされたその全貌が明らかになった。禿げた頭は無数の切り傷で覆われ、顔の左半分は焼かれたのか、皮膚が溶けたような痕を残している。鼻は削がれて無くなり、顎は不自然に歪んでいて、眼球はもう無いのだろう、閉じた瞼は少し窪んでいた。長椅子の肘置きに乗せられた両手には、指が一本も残っていない。
聖者の全身には、想像を絶する凄惨な拷問の痕跡が残されていた。
「……聖者と聞いて、もっと見目麗しい者を想像していたでしょう?」
「えぇ。そうですね」エマニュエルが即答すると、聖者は傷だらけの顔を引き攣らせて笑った。
「……ハリエット。少し外してください。この方と二人で話がしたいので」
ハリエットは不服そうにぶつぶつとなにかを呟いたが、やがて諦めたのか、小走りで大広間を後にした。軽やかな足音が遠ざかるのを確かめると、聖者が大きく、下品な溜息を吐く。
「はぁ……堅苦しいったらねぇ。苦手なんだよな、『聖者様』の喋り方はよぉ」
聖者の口調がつい先ほどまでとあまりに違うことに驚いていると、聖者はエマニュエルの方を向いて、口の端を上げた。
「そう驚きなさんな。あんただって、本質と違う人間を演じてるんだろ? なぁ? 天使殿?」
「見えているのですか? わたしのことが……?」
エマニュエルが驚いて訊ねると、聖者は不敵な笑みを浮かべる。
「目ん玉も、なんなら他の玉も取られちまったが、あんたの内に宿ってる光るものは、よぉく見えてるぜ。その輝きを持ってるのは天使だけだ。そうだろう?」
僅かに動揺し、足音を立てずにうろつくエマニュエルに合わせ、聖者は顔を動かしている。どうやら本当に見えているようだ。
「驚きました。あなたのような人間に会うのは初めてです」
「そうだろうな。俺みたいなのがそう沢山いるとは思えねえ」
聖者は自慢げに身体を揺らしてみせた。
「で、天使殿がわざわざここに来たのには、何か理由があるんだろ?」
「えぇ。あなたの教えに従う者たちに会い、彼らがとても幸せそうだったので、一体どのような者が興した宗教なのかと、興味が湧いたのです」
エマニュエルが答えると、聖者は「そうか」と呟き、指の無い手で顔を覆う。その表情は窺えない。しばしの沈黙の後、聖者は顔から手を離し、静かに語り出した。
「——『聖者』と呼ばれる前、俺はカーザ国で書記官をしていた。王とも仲が良かったが、あいつはとんだ愚君でな……だから裏切った。そしたら捕まって、このザマだ」
聖者が指の無い両手を掲げてみせる。
「それはもう、とんでもない拷問だったぜ。きっと、はなから生かしておくつもりはなかったんだろうな。耐えがたい苦痛が、永遠に続くかのようだった……」
聖者が言葉を詰まらせる。壮絶な経験が蘇っているのか、全身が震えていた。
「どうして、俺がその拷問を生き延びることができたと思う?」
投げかけられた問いに、エマニュエルは答えることができない。そもそも人間の身体が感じる痛みは、天使の理解が遠く及ばないものなのだ。
エマニュエルが首を横に振ると、聖者が口を開く。
「自分の中で神を作り上げて、祈ったんだよ。嘘だと分かっていても、ひたすら祈り続けた。『死後に救いがある』……『悪人は必ず報いを受ける』と信じて——」
「それだけですか?」
聖者の答えに拍子抜けし、エマニュエルが口を挟んだ。
「よく分かりません……痛みが無くなるわけではないでしょうし、その神は、所詮ただの偽りではありませんか」
「天使には分からんだろうがな、ほんの少し心の寄る辺があるだけで、俺たち人間は困難に耐える力を得ることができるんだよ」
聖者の掠れた声に、熱がこもる。
「ハリエットを見てみろ。生きる希望を失い、闇の中にいた小娘が、天国で死後に家族と再会できると信じた途端、本来の明るさを取り戻してる。他の連中だってそうだ。あんたが言ってた通りなら、幸せそうなんだろ?」
エマニュエルが頷く。聖者は安堵したように微笑んで、続けた。
「確かに、教義はまったくのデタラメだ。ここらに古くから伝わる竜信仰の要素と、昔、曾祖母さんが追い出されたっていう海辺の村で信じられていた『創造主の聖句』とやらをそれらしく混ぜただけだからな」
「——『創造主の聖句』ですか。懐かしいですね……」
エマニュエルの呟きにひそむ旧懐の情は、聖者を素通りしたようだ。
「天国を信じて善行を積み、地獄を恐れて悪行を避ける……偽りが人の心を正しい方へ導き、果てに平和をもたらすなら、その偽りにも義があるとは思わないか?」
投げかけられた問いに、返す言葉が無かった。
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