草原を越え、林を抜けると、緑ばかりだった景色が突然色味を失う。草は刈り尽くされ、木々は切り倒されていて、禿げた大地の真ん中には、今にも崩壊しそうな石造りの砦が建っていた。

「ここだよ。ここがあたしたちの本拠地……今のところはね」

 そう言ってハリエットは砦の大門に近付くと、その隣にある目立たない通用口に身体をねじ込むようにして、中へと消えていくエマニュエルもそれに続いた。

 砦の中はひどく荒れていて、壁に積まれた石煉瓦はところどころ崩れ、中の支柱が剥き出しになっている。はるか昔に打ち捨てられたのだろう、久しく修繕されていないのは明らかだった。

「酷いとこよね。足元、気を付けて」

 ハリエットに導かれ、何度も躓きながら薄暗い大広間に辿り着くと、入り口に背を向け、長椅子に腰掛ける者の存在に気付く。フードを被っているので、後ろ姿だけではその容貌は判らない。

「……ハリエット。早かったですね」

 掠れた、男の声が大広間にこだました。

「伝道の務めはどうしたのです? 出発したばかりでしょう?」

 責めるような口調でそう言う男に、ハリエットは頭を下げて詫びた。

「ごめんね、聖者様……途中でこの人と出会ったから、聖者様に会わせなきゃって思って……」

「ん? 客が居るのですか……」

 来客の存在に気付いた男はフードを取り、身体を僅かに捩って、顔を戸口に向けた。

 薄明かりに、禿げた頭が浮かび上がる。眉をひそめ、目を閉じたまま、聖者と呼ばれた痩せぎすの男はエマニュエルに軽く会釈した。

「気付かず申し訳ありません。ようこそ。我らの慎ましい根城へ……」

 聖者が手招きする。エマニュエルがハリエットの方を見ると、ハリエットが手振りで近くまで行くよう促した。

 聖者の座す長椅子に近付く。やがて、暖炉の炎に照らされたその全貌が明らかになった。禿げた頭は無数の切り傷で覆われ、顔の左半分は焼かれたのか、皮膚が溶けたような痕を残している。鼻は削がれて無くなり、顎は不自然に歪んでいて、眼球はもう無いのだろう、閉じた瞼は少し窪んでいた。長椅子の肘置きに乗せられた両手には、指が一本も残っていない。

 聖者の全身には、想像を絶する凄惨な拷問の痕跡が残されていた。

「……聖者と聞いて、もっと見目麗しい者を想像していたでしょう?」

「えぇ。そうですね」エマニュエルが即答すると、聖者は傷だらけの顔を引き攣らせて笑った。

「……ハリエット。少し外してください。この方と二人で話がしたいので」

 ハリエットは不服そうにぶつぶつとなにかを呟いたが、やがて諦めたのか、小走りで大広間を後にした。軽やかな足音が遠ざかるのを確かめると、聖者が大きく、下品な溜息を吐く。

「はぁ……堅苦しいったらねぇ。苦手なんだよな、『聖者様』の喋り方はよぉ」

 聖者の口調がつい先ほどまでとあまりに違うことに驚いていると、聖者はエマニュエルの方を向いて、口の端を上げた。

「そう驚きなさんな。あんただって、本質と違う人間を演じてるんだろ? なぁ? 天使殿?」

「見えているのですか? わたしのことが……?」

 エマニュエルが驚いて訊ねると、聖者は不敵な笑みを浮かべる。

「目ん玉も、なんなら他の玉も取られちまったが、あんたの内に宿ってる光るものは、よぉく見えてるぜ。その輝きを持ってるのは天使だけだ。そうだろう?」

 僅かに動揺し、足音を立てずにうろつくエマニュエルに合わせ、聖者は顔を動かしている。どうやら本当に見えているようだ。

「驚きました。あなたのような人間に会うのは初めてです」

「そうだろうな。俺みたいなのがそう沢山いるとは思えねえ」

 聖者は自慢げに身体を揺らしてみせた。

「で、天使殿がわざわざここに来たのには、何か理由があるんだろ?」

「えぇ。あなたの教えに従う者たちに会い、彼らがとても幸せそうだったので、一体どのような者が興した宗教なのかと、興味が湧いたのです」

 エマニュエルが答えると、聖者は「そうか」と呟き、指の無い手で顔を覆う。その表情は窺えない。しばしの沈黙の後、聖者は顔から手を離し、静かに語り出した。

「——『聖者』と呼ばれる前、俺はカーザ国で書記官をしていた。王とも仲が良かったが、あいつはとんだ愚君でな……だから裏切った。そしたら捕まって、このザマだ」

 聖者が指の無い両手を掲げてみせる。

「それはもう、とんでもない拷問だったぜ。きっと、はなから生かしておくつもりはなかったんだろうな。耐えがたい苦痛が、永遠に続くかのようだった……」

 聖者が言葉を詰まらせる。壮絶な経験が蘇っているのか、全身が震えていた。

「どうして、俺がその拷問を生き延びることができたと思う?」

 投げかけられた問いに、エマニュエルは答えることができない。そもそも人間の身体が感じる痛みは、天使の理解が遠く及ばないものなのだ。

 エマニュエルが首を横に振ると、聖者が口を開く。

「自分の中で神を作り上げて、祈ったんだよ。嘘だと分かっていても、ひたすら祈り続けた。『死後に救いがある』……『悪人は必ず報いを受ける』と信じて——」

「それだけですか?」

 聖者の答えに拍子抜けし、エマニュエルが口を挟んだ。

「よく分かりません……痛みが無くなるわけではないでしょうし、その神は、所詮ただの偽りではありませんか」

「天使には分からんだろうがな、ほんの少し心の寄る辺があるだけで、俺たち人間は困難に耐える力を得ることができるんだよ」

 聖者の掠れた声に、熱がこもる。

「ハリエットを見てみろ。生きる希望を失い、闇の中にいた小娘が、天国で死後に家族と再会できると信じた途端、本来の明るさを取り戻してる。他の連中だってそうだ。あんたが言ってた通りなら、幸せそうなんだろ?」

 エマニュエルが頷く。聖者は安堵したように微笑んで、続けた。

「確かに、教義はまったくのデタラメだ。ここらに古くから伝わる竜信仰の要素と、昔、曾祖母さんが追い出されたっていう海辺の村で信じられていた『創造主の聖句』とやらをそれらしく混ぜただけだからな」

「——『創造主の聖句』ですか。懐かしいですね……」

 エマニュエルの呟きにひそむ旧懐の情は、聖者を素通りしたようだ。

「天国を信じて善行を積み、地獄を恐れて悪行を避ける……偽りが人の心を正しい方へ導き、果てに平和をもたらすなら、その偽りにも義があるとは思わないか?」

 投げかけられた問いに、返す言葉が無かった。

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