草原に横たわる哀れな戦士の亡骸に生じた、小さな悪魔をつまみ上げる。一見すると赤黒い蛆虫のような悪魔は、未だ自我と呼べるほどの意識を持っていなかったが、自らを死肉という温床から引き剥がした者が天敵であることを、その邪悪な本能で感じ取り、慄いた。

 足掻き、体をくねらせる悪魔を、握り潰す。天使の掌で焼かれ、祓われた悪魔は、小さな啼き声だけを残して、跡形もなく消滅した。

 これが最後の一匹だ。

 戦場跡を見渡し、悪魔を残らず祓ったことを確かめたエマニュエルは、安堵の溜息をついた。この場に着いたのは夕方だったが、戦場跡の死体に湧いた悪魔を祓ううちに、気付けば夜が明けていた。これから数日は、この場所に留まることになるだろう。遺体をひとつひとつ、埋葬しなくてはならないのだから。

 近くを流れる川のせせらぎに耳を傾けながら、黙々と埋葬用の穴を掘る。よく肥えた土は柔らかく、掘るたびに湿っぽい、温かな大地の香りを放った。川から水をひき、この豊かな土壌で作物を育てれば、どれだけ人々は豊かに暮らせるだろうかと、考える。手を取り合い、支え合って生きることができれば、どれだけ良いだろうかと。

 しかし、それがただの絵空事であることを、エマニュエルは誰よりもよく理解していた。天使が人間を治め、守り導く時代は終わったのだ。洪水や飢餓、疫病など、予期せぬ困難を繰り返し経験するうち、人間たちは少しずつ、しかし確実に創造主に対しての希望を失い、道を見失ない、理性も、良識も失って、獣の如く無秩序な存在に成り果てた。そして悲しいかな、そうなった人間たちを見守り、正道へと導くはずの天使たちも信仰を失い、多くが悪魔へと堕ちた。残された天使の数は、増え続ける人間たちに対してあまりに少ない。もはや、天使だけの力ではどうにもならないのだ。終わりのない戦乱、夥しい屍が何よりの証だった。今、天使が出来ることといえば、せいぜい戦場跡を巡って、死んだ者たちが悪魔の揺り籠とならないよう、祓魔と浄化をすることぐらいだ。

 

 手元の土に、雫が落ちる。雨が降り出したのかと見上げたが、白い雲がいくつか浮かんでいるだけで、空は青々としていた。


 刺すような痛みを心に覚えながら、どれだけの穴を掘っただろうか。ふと、エマニュエルは何処かから聞こえてくる歌声に気が付いた。

 聴く者を慰めるような、哀しげだが優しい調べ——。

 穴を掘る手を止めて耳を傾けると、何人かの女が声を合わせて歌っているのが分かる。歌声の聞こえてくる方に目をやると、黒い服に身を包み、フードで顔を隠した一団が、両手を合わせて空を仰ぎながら、戦場跡に足を踏み入れるのが見えた。先頭を歩く女がエマニュエルに気付き、小走りで近付いてくる。

「ねぇ、あんた。そこで何してるの? こんなところに女が独りで居たら——」

 そこまで言って、女は「あ……」と、気まずそうに口を押さえた。端正な顔立ちと、長く美しい真珠色の髪のせいで、エマニュエルのことを女と見間違えたらしい。

「お気になさらないでください。よくあることですから」

 エマニュエルが微笑むと、女は誤魔化すように笑った。

「……それで、こんなところで何してるの?」

「この方たちを埋葬しているんです。野ざらしにしておくと、よくないものが湧いてくるので……」

「よくないものって……そりゃ死体が腐れば蛆も湧くでしょ。そんなところに居たら、あんた、疫病に罹るかもしれないんだよ?」

「わたしは大丈夫です」

 そう言って、エマニュエルは再び地面を黙々と掘り始める。女は呆れて立ち尽くし、その様子をしばらく見ていたが、やがて口を開いた。

「そんな調子じゃ、ここにある死体が全部腐っちゃうよ……ちょっと待ってて」

 女はエマニュエルの反応を待たずに仲間達の方へ駆け出し、すぐに全員を連れて戻ってきた。

「あたしたちも手伝うよ」

「……あなたがたは?」

 土を掘る手を止め、エマニュエルが訊ねると、女がフードを取り、日に焼けた顔が露わになる。快活さの滲む緑色の瞳と、この世代の女性としては珍しい、短く切り揃えられた栗色の髪が印象的だった。

「あたしたちはセレス教の信徒。あたしはハリエットよ」

「ハリエットさま、それに信徒の皆さま……はじめまして。エマニュエルと申します」

 丁寧に一礼し、名乗ってから、女が連れてきた人間たちを一瞥する。

 年端もいかない若者から、立っているのがやっとな老人に至るまで、粗末な黒装束に身を包んだ数十人の男女は、エマニュエルがここ数十年で出逢ったどの人間よりも穏やかな顔をしていた。信徒たちに視線を移すうち、あるものがエマニュエルの目を引いた。信徒たちの手に握られたロザリオ——それにぶら下がるようにして付けられた、粗削りな天青石のメダイだ。

 青空を思わせるその色が、エマニュエルが奥底にしまい込んだ、遠い記憶——秋空のような美しい瞳の記憶を呼び覚ます。

 

 胸の痛みが、少しだけ強くなった。

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