こよなき悲しみ 第四話 寄る辺
かねむ
Ⅰ
風に運ばれた、微かな血の匂い——争いの残り香、死の匂いだ。赤く染まった黄昏時の荒野を、臭いを頼りに歩く。すぐ、耳元でうなる風の音に混じって、苦悶の声が聞こえてきた。ジェイコブが声の出処に辿り着く頃、既に陽は沈んでいたが、大地は赤いままだ。流された血が、乾いた大地に染みていた。横たわる数多の屍に目をやると、きっと隊商が賊にでも襲われたのだろう、武装をしているのは数人だけで、ほかは丸腰だった。フードを剥ぎ、覆いを取って、死人たちの顔をひとつずつ確認する——どれも、探している男のものでは無い。落胆し、ジェイコブは思わずその場に座り込んだ。
ふと、近くから隙間風のような、微かな息遣いが聞こえてくる。まだ生きている者がいたのかと、ジェイコブは飛び起き、その音を辿った。すぐに、仰向けに横たわる野盗風の小汚い男を見つける。腹を刺されたのか、男は血に濡れた腹部を押さえながら、歯を食いしばっていた。ジェイコブが近付くと、男の表情が強張る。ジェイコブが纏う黄衣——カーザ国の軍服を見た者は、決まって同じ反応をした。
「何者だ? ここで何が?」
ジェイコブが問い掛けるが、反応はない。きっと後ろ暗いことをしたのだろう、男は顔を背け、目を泳がせている。平時なら、この場で縛り上げてカーザ国まで連行するところだが、今はそれよりも重要な務めがある。
「だんまりか。まあ、いいだろう。それならば、より社交的な相手を探すことにするか」
そう言って、ジェイコブは男によく見えるよう、ゆっくりと腰に差した短剣を抜いた。途端に、男の目に恐怖が宿る。
「さて。貴様がここで何をしたかに興味は無いが、私の役に立たないなら、わざわざ生かしておく必要もなかろうな……」
手元で短剣をくるくると回しながら、男を睨み付ける。
「ちゃ、ちゃんと話すから……た……助けて……くれ」
息も絶え絶えに乞う男を無視して、ジェイコブが続けた。
「この辺りで、傷だらけの禿げた小男を見掛けなかったか? 歳は四十そこそこで、痩せぎすの——?」
先程よりも低く、威圧的な調子で尋ねると、男はぶんぶんと首を横に振る。
「そんな奴……知らねえよ」
「本当か?」
短剣を眼前にちらつかせると、男は怯えて凍りついたようになったが、その答えが変わることはなかった。
「そうか。邪魔をしたな」
それ以上はなにも聞き出せそうになかったので、ジェイコブは手際よく男の喉を裂き、短剣を鞘に収めた。
夜の帳が下り、熱く乾いた空気は一転して、氷のような冷ややかさを帯びる。薄手の軍服を易々と貫く寒気に、ジェイコブは慌てて屍のひとつから外套を剥ぎ取ると、それに包まり、その場で身体を丸めた。かちかちと、歯が小刻みに音を立てる。抑えようとすればするほど、震えは激しさを増し、終いには歯の立てる音に合わせて踊れそうなほどになる。寒さに呻きながら、ジェイコブは大陸の覇権を握るカーザ国の優秀な尋問官だった自分が、異国の荒野で凍死しかけるきっかけとなった事件に、思いを馳せた。
大陸の征服を推し進めるカーザ国に、周辺地域の諸派によって設立された連合軍が戦いを挑んでから、二十年が経とうとしている。長期化する戦役でカーザ国の兵士たちは疲弊し、最近になって連合軍が立て続けに奇襲作戦を成功させたのもあって、兵士たちの士気は低下していた。そんな中、苦戦を強いられるカーザ国軍に追い討ちをかけるような事件が起きる。カーザ国王フィリポの書記官であり、友人でもあったパトリックが、連合軍側に寝返ったのだ。パトリックはすぐに捕らえられ、尋問官だったジェイコブの手によって拷問されたが、なにひとつ有用な情報を吐かないまま、隙をみて逃走したのだった。軍議を含む、国政のあらゆる情報をもつ裏切り者の書記官が罰を逃れたとなっては、カーザ国の威信に関わる。情報を引き出すことに失敗したジェイコブは尋問官の地位を剥奪され、裏切り者の追跡を命じられたのだった。
多数の捜索隊とともにカーザ国を出立して半年——方々に散った捜索隊も消息を絶ち、今、ジェイコブは独りで当てもなく、いつ終わるともしれない追跡の旅を続けている。
寒さでまた歯が鳴った。一分一秒が、永遠のように感じられる。心が折れそうだった。
言うことを聞かない歯を食いしばり、自らを奮い立たせようと、祖国の景色を思い浮かべる——石造りの高壁。炎の絶やされぬ見張り台。贔屓にしている酒場の、暖炉の温もり。林檎酒の味。酒を注ぐ、看板娘の弾けるような笑顔——あの娘、名はなんといったか。
そう、自分に言い聞かせた。
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