余話4:庭園の泉

 昨夜は湿気がひどかったせいか、寝つきが悪かった。フォセカはぼんやりと明るくなり始めた東の空を見つめながら、大きく朝の空気を吸い込んだ。生まれた時から慣れ親しんでいる土のにおいは心地がいい。

 地面はじっとりと濡れている。明け方まで雨が降っていたからだろう。おかげで窓を開けて風を取り入れる事も出来ず、一晩中ベッドの上で寝返りを繰り返していた。

「母さんもまだ起きてないみたいだし、リジーナもまだか」

 背後にそびえる石造りの城を見上げ、母と婚約者の部屋を順に見遣る。カーテンはまだしっかりと閉まっていた。物音を立てないようこっそりと起きてきた甲斐があった。

 せっかく早起きしたのだ、このままぼうっとしているのも勿体ない。フォセカは寝癖の残る白磁色の髪を整えながら、城の西側にある母自慢の広大な庭園に向かって歩き出した。季節ごとに色とりどりの花々が咲き誇る庭園の中央には、地下水が湧き出る小さな泉がある。飲用も可能なため、フォセカは時折それを飲んでいた。

 鼻歌交じりに歩いていくと、赤、黄、青と様々な花がフォセカを出迎えた。朝露に濡れた花や草は丹念に手入れされ、枯れているモノは一つもない。

「あっれ、兄さんじゃない」

 突然聞こえた声に、反射的に背中が強張った。

 ゆっくりと振り返ると、「珍しいね。朝早いんだ?」と微笑をたたえる黒髪の青年が佇んでいた。

「アリウムか。驚かせるな」

「そっちが勝手に驚いただけでしょ」

 僕のせいじゃないし、と唇を尖らせ、アリウムはフォセカの隣に並ぶ。

 背丈もほぼ同じな彼は、フォセカの従兄弟に当たる。生まれた年は一緒だが、彼の方が生まれた月日が遅い。その為、アリウムはフォセカの事を「兄さん」と呼ぶ。

 アリウムは瑠璃色の瞳で庭園を見回し、大きく伸びをした。

「この城に来てから、毎朝ここに来るのが日課でさ。綺麗だよね、ここ」

「当たり前だろ。母さん自慢の庭だぞ」

「あー、そうだったね。おばさん、自分で庭の手入れもしてるんだっけ。庭師に任せっきりじゃないんだ」

「手入れしてるの見つけられるたびに『王妃様自らそんなことを!』ってちょっとした騒ぎにはなるが」

 それでも柔和な微笑みで受け流し、止めようとはしないのだが。我が母ながら頑固だなと思わなくもない。

 ふとアリウムの顔を見遣ったフォセカは、「そうか」と小さく頷いた。

 ここガニアン国では、数ヶ月前に反乱騒ぎがあった。その首謀者はフォセカの叔父――つまり、アリウムの父である。叔父は十数年前にも反乱を引き起こし、敗戦した。その後逃れた先で生き延び、暗い洞窟を根城として再戦を窺っていた。アリウムは物心ついた頃から、光の少ない洞窟の中で暮らしていたのだ。

 そんな彼にとって、朝一番に広々とした場所で光を望むのは新鮮なことなのだろう。

「どうしたの。辛気臭い顔して。気色悪い」

「んな顔してねえよ。最後の一言余計だし」

 若紫色の瞳で睨みつけると、アリウムはへらへらと笑いながら軽い足取りで泉へと歩いていった。

 泉の中央には神話の女神を模った石像が佇み、肩に壺を乗せている。水はそこから流れだし、泉を豊かに満たしていた。アリウムは大理石に腰をおろし、はー、と息を吐いた。

「ここからさ、だんだん明るくなってく空を見るのが好きなんだ」

「そうなのか?」フォセカは彼の隣に腰をおろし、優雅に足を組む。「俺は上ってくる太陽を見る方が好きだけどな」

「僕には眩しすぎるんだ。それはまだ。もう少し、暗い世界を忘れた頃に思い切って見てみる事にするよ」

 そういうものなのか。アリウムとは暮らしてきた環境があまりにも違いすぎる。第一、彼の存在を知ったのも数ヶ月前の反乱が切っ掛けだったのだ。

 自分はまだ、アリウムの事をよく知らない。

「僕さ、旅に出てみようと思うんだ」

 空を眺めていたアリウムの口から、思いもよらない一言が飛び出した。

「ずっと狭くて、暗いところにいたからさ。こう、広い世界を見てみたいなって。幸い投獄もされてない事だし」

 城の地下の牢にいる父の事を思い浮かべたのだろう、アリウムの顔が一瞬翳りを帯びる。

「旅って、どこにいくつもりだ」

「考えてない」

「行き当たりばったりじゃねえか」

 思わず呆れてしまう。だが、覗き見たアリウムの顔は本気だった。

「リジーナが残念がるぞ。お前ともっと話したいって」

「それは兄さんも、でしょ」

「……そんなことはないぞー」

「変な間があった」

 あはは、とどちらからともなく笑い、しばらくそうしていた。

 濃い紺色一色だった空が、次第に東から橙色に染まっていく。

 フォセカは起きてきた時のように大きく深呼吸をし、アリウムの腰にぶら下がっているものを指さした。

「それ、水入れだろう」

「そうだけど」

「貸せ」

 訝しみつつもアリウムは腰の水入れを外し、手渡してくれる。木製のそれを何度か振ってみたが、特に音はしない。どうやら中には何も入っていないようだ。

 フォセカは水入れの蓋を開け、静かに泉に浸した。とぽとぽと水が入り込み、瞬く間に中が満たされる。

「この水は昔から、女神の加護を得た神聖なもんだって言われててな。どんな怪我も、病も、それを飲むだけであっという間に治るってな」

「へえ……嘘くさいね」

「本当だ信じろ。だがまあ、さすがに怪我も病も治らんとは思う。まあ一種のお守りみたいなもんだろ」

 ずっしりと重みを増したそれを持ち上げ、蓋を閉めないままアリウムに手渡した。

「道中、無事であれ。そう願っておいた」

「……飲めと?」

「持ち歩くわけにもいかんだろ。腐るぞ。女神様の加護と俺の祈りが合わさってんだ、効果が消えないうちに飲めよ」

「どんな理由なの」アリウムはじとりとフォセカを睨みつけたが、やがて頬を緩ませた。「兄さんからの不器用な励まし、受け取っとくよ」

 アリウムは静かに水を口に含み、味わうように、加護と祈りを吸収するようにゆっくりと飲んでいく。

 彼の新たな旅路に、幸多からんことを。フォセカは祈る様に目を閉じ、女神に祈りを捧げた。

 その数日後、アリウムは国を出た直後に殺し屋に襲われるのだが、それはまた別の話である。

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