第6話
時折すれ違う女官に部屋の位置を聞きながらようやく着いた王妃の部屋は、城の南側に位置していた。その扉の前で、リジーナは深く息を吸う。一対一で会うというのはなかなかに緊張するものだ。
三回扉を叩き、エリアナの声を待つ。数秒後に「どなた?」と問われ、ゆっくりと名乗りあげた。
「どうぞ、お入りになって」
「し、失礼します」
内側から開かれた扉の向こうに、静かに足を進めた。
大きな窓からは朝の陽ざしが斜めに差し込んでいる。部屋の中央に置かれた天蓋付の若緑色のベッドは、人が三人寝転んでも十分な広さがありそうだ。
白菫色に統一された壁には汚れ一つなく、部屋に立ち入っただけで清らかさが身に染みていくようだった。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
ベッドで上半身を起こし、こちらに向かって微笑んでいるエリアナの顔色は優れない。彼女の身の回りの世話をしているらしい数人の女官も心配そうだ。
「ええ、とても。申し訳ありません、勝手に部屋まで来てしまって」
「構いませんよ。それに、あなたとは少しお話ししてみたかった」
どうぞこちらへ、とベッドの傍にあった丸椅子をすすめられ、「失礼します」と腰かける。
「何か御用があるのでしょう? リジーナ王女」
フォセカと同じ色の瞳が柔和に細められ、リジーナは慌ててポーチに手を突っ込んだ。
どの辺りにしまっただろうか。ごそごそと探っている間に、エリアナが深呼吸して息を吐いた。
漂ってきた息の香りは、熟した果実に似て甘い。それを感じ取ると同時に、琥珀色の袋を取り出した。
中に入っているのは、数種類の薬草を粉末にしたものだ。小袋の口を開き、そっとエリアナに差し出す。
「体調が優れないようだと感じましたので、こちらをお渡ししに」
「まあ」
そんなわざわざ、とそれを受け取ったエリアナの頬が、僅かに赤らんだ。
「ご心配をおかけしましたね。薬草は全てフォルティス国のもの?」
「ええ。私の手で調合したものです、水に溶かして飲んでください」
言葉のすぐ後に、女官が水を運んできた。小振りな器に入れられた水に少量の粉末を溶かし込み、ゆっくりと口に含んでいく。ある程度苦みがあるはずだが、そんな素振りは見せない。
「王妃様は今、呼吸器の病を患っているようです。少し前に私の国でも同じような症状の病が流行ったのですが、その病に罹った者の特徴として、吐く息が非常に甘くなるというものがあります。それと類似していると感じましたので……」
数十秒かけて薬を飲みほしたエリアナの様子を見て、リジーナはポーチから同じ小袋を二つ取り出した。
「あと数日分入っております。朝食と夕食の後に飲んでいただければ」
「でも貴重なお薬を無償で頂くなんて申し訳ないわ」
「お気になさらず」
苦しんでいる人が目の前にいるのに、放っておくことなどできない。薬草はまだ持っているし、調合することもできる。リジーナが微笑みかけると、エリアナは申し訳なさそうに頭を下げた。
効果がすぐに現れるとは思わないし、王妃の体調も考慮してそろそろ退室したほうが良いだろう。リジーナが椅子から立ち上がると、「ああ、そういえば」と呼び止められた。
「本日の舞踏会なのですが、陽が沈んだ後に行います。部屋までは女官が迎えに参ります、というのを昨日お伝えし忘れていて」
ということは、姉にもそのことを伝えた方が良いのだろうか。それとも、もう知っているだろうか。返事をしつつ考えていると、「ビアナ王女は知っておられるはずですよ」と先手を打たれてしまった。
「夜まで時間はたっぷりあります。庭園もありますし、お好きなようにお楽しみくださいね」
「ありがとうございます。では、私は失礼します」
ぺこ、と頭を下げ、エリアナの部屋を後にする。扉が閉まって姿が見えなくなるまで、エリアナはこちらに向かって緩やかに手を振っていた。
――舞踏会、か。
どんなドレスを着て行こうか。何着か持ってきてはいるが、自分ではとても決めきれない。
アルネにも相談してみよう、と思いつつ、リジーナは朝食を摂るべく大広間へ向かった。
長い廊下を歩きながら窓の外を見ていると、ふと厩舎が目に入った。馬の世話を任されているらしい男が数人、草が入った桶のようなものを手に行きかっている。
よく見ると、昨日は自分たちの馬しかなかった広いそこには、美々しく飾られた何十頭もの馬が繋がれていた。何故急に増えたのかと考え、「招待された人かな」と首を傾げる。
舞踏会に参加するのが自分と姉、王妃と王子だけとは思えないし、他にも招待された人々がいるのだろう。とすると、あそこに繋がれているのは彼らの愛馬か。
これは本当に大きな祝宴なのだと実感し、リジーナの頬が若干強張った。
夜はすぐにやってきた。
「ああ、リジーナ様! 手袋をお忘れです!」
「えっ、あ! ありがとう!」
舞踏会の前とは思えないほど慌てながら着替えを済ませたリジーナは、紺藍色のドレスに身を包んでいた。地味すぎず派手すぎない一着は、アルネと相談して決めたものだ。自分でも気に入っているし、似合っていると思う。髪も彼女に整えてもらい、準備は万端だ。
何度か深呼吸をして部屋から出ると、いつからいたのだろうか、部屋の前では女官が待機していた。彼女に案内された舞踏会が開催される大広間は、どれだけの人が入れるのか見当もつかないほど広かった。
細長く丸い柱が円を描くように壁沿いに並び、壁から伸びた燭台に突き刺さった大ぶりな蝋燭はゆらりと炎を灯している。ドーム型の天井の中心からは昨日通ったホールと同じように、しかしそれよりも立派なシャンデリアが下がっている。ホールと違うのは、絵が描かれていた部分がすべてガラス張りになっている点だろうか。
壁の数か所には全身が写りこむような大鏡がはめ込まれ、明かりを反射し、室内をより明るく見せていた。
扉と正反対の場所に位置する大きな窓は、外のバルコニーへ出ることが出来るように開け放たれている。
「凄い……」
自分の住んでいた城にこんな贅を尽くした部屋はなかった。思わず漏らした一言はざわめく声にかき消された。
というのも、部屋には既に人が集まっていたからだ。
ざっと見ただけだが、ほとんどの人の服のどこかにはガニアン国の紋章が入っている。恐らく各地方を治める領主とその妻が招かれているのだろう。そうでない人々は自分と同じように他国の者かも知れないが、自分たちと同じような年齢の男女は見当たらない。
体調が思わしくないのか、王妃の姿は見られない。
壁から少し離れた場所には、軽めの食事を乗せたテーブルが等間隔で置かれていた。部屋の中心はバイオリンなどの弦楽器、フルートやピアノによって奏でられる音楽に乗って踊る人々のために広めのスペースがとられている。
リジーナは給仕が渡して回っていたシャンパングラスを受け取り、ビアナやフォセカはどこにいるのだろうと見回しながら壁際に移動した。
「あ、いた」
彼らを見つけたのはすぐだった。
二人は手を取り合い、楽しそうに踊っていた。フォセカは深緋の王族衣装を、ビアナは昨日と同色ではあるが装飾が派手なドレスをそれぞれ着用している。
姉の長い黒鳶色の髪も見事に整えられ、美しさが一層際立つ。
「それにしてもお姉さま、随分とダンスが上手になったわね」
グラスのシャンパンを一口だけ飲み、幼い頃の事を思い出すように目を伏せた。
昔はダンスの練習をするたびに躓いたり自分で自分の足を踏んだりと散々なものだったが、さすがにあの頃とは違う。姉が踊っている姿をあまり見ることはないから、なんだか新鮮だった。
曲が終わり、ダンスを眺めていた人々から拍手が上がる。リジーナもそれに続いて何度か手を叩く。フォセカとビアナも何か言葉を交わし、談笑していた。
やがて次の曲が流れ始め、二人はまた手を取り合った。
なんだか、見ているだけってつまらない。ダンスには自信があるけれど。そうは思うものの、自分から誰かを誘うほどの積極性はあいにく持ち合わせていない。
ふう、と息をつき、もう一口シャンパンを飲もうとグラスを持ち上げる。
「なんだか暗い顔をしてるね、お嬢さん」
不意に声をかけられ、思わず「ふぇっ」とおかしな声を出してしまう。
「隣、失礼するよ」
そう言いながら右隣に立ったのは、瑠璃色の優しい瞳をした青年だった。
艶のある鉄紺色の髪は首筋までさらりと伸び、どこか少年のようなあどけなさを残した顔立ちが美しい。
「乾杯しない?」
「え、ええ」
どこかふわふわとした印象の彼につられるように、かつん、とグラスを合わせた。
――そういえば今朝、同じ瞳をした人に会ったような。
くいっとシャンパンを飲んだ彼に「あの」と控えめに問いかける。
「今朝、お会いしませんでしたか?」
「君と? ……いや、会ってないかな。何せ僕がここに来たのはついさっきだから」
別人だったらしい。
「そう、ですか……あなたも招待された方なんですか?」
見知らぬ人と会話するという緊張と、やけに親しげな接し方を警戒するあまり声が震えたが、青年は気にした様子もなく頷いた。
「そういう事にしておこうかな。僕はアリウム。お嬢さんはアレだよね、隣国の。フォルティス国だっけ、そこの王女様なんだよね」
「そう、です。第二王女のリジーナ・フォルティスと申します」
「第二王女ってことは、第一王女はどこに?」
「あそこで王子と踊っている、黄色いドレスの。姉のビアナです」
アリウムと名乗った青年は近くのテーブルにあったサンドウィッチを手に取り、口に運びながら「ふうん」とあまり興味なさげに頷いた。
――何なんだろう、この人。招待されたのって聞いたのに、そういう事にしておこうかなって言ってた?
掴みどころのないアリウムに戸惑いを覚えるが、それと共になんだかホッとしていた。
自分が王女だと知れば、大抵の人は気を使って畏まった口調になる。滅多に外に出ないリジーナはそれに慣れておらず、逆に焦ってしまうことが多かった。
しかし彼は、軽い――というと失礼かもしれないが――口調で話しかけてくれる。それが新鮮で、少し嬉しかった。
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