THE WANDERING JEW 〜 アハシュエロス
西野ゆう
歴史の放浪者
「キリストっていうと、イエスか? ジーザスか?」
「キリストと聞いて他に思い当たる人物でも?」
クリップボードに挟まれた一枚の紙に、必要事項を事務的に記して白衣の男に渡した
「宗教改革直前のルターに会ってきたかと思えば、いきなりボスか」
「ボス、か。あの時代、キリストにそういう呼び方を使う奴は居なかったに違いないだろうな。俺がアイツをそう呼んでみるか。面白そうだ」
どこまでが本気か掴めない言い様に、再び白衣の男は嘆息した。もう彼の体内には余分な空気はないだろう。
「くれぐれも気を付けるんだな。歴史上最も記録が残る人物の一人だ」
「無論承知しているし、歴史から目を付けられるようなヘマはしない。生きて帰るさ」
「言うは易し、だ。見物してきて作文を書くような仕事じゃないんだぞ。神の怒りに触れるかどうかのギリギリを見極めねばならない」
白衣の男は最後にそう伝えながら、承認のサインを書いた紙を起龍に差し出した。それを受け取ろうとした起龍に白衣の男は最後の確認をする為、起龍の前からクリップボードを持った手を引いた。
「アハシュエロス。この男に成りすますとして、そのアハシュエロス本人はどうするつもりだ? 殺すのか?」
不穏な言葉にも起龍は表情を変えない。
「そういう成り行きになれば。だが、俺の見立てではアハシュエロスという人物は実在しない。分かっていると思うが、ペルシアの王のアハシュエロスではなく、彷徨えるユダヤ人の方のアハシュエロスがだ」
「それでは実在しない人間を実在させることになるが?」
「俺がアハシュエロスとして動いたとて、とても実在したとは思えなくなるさ。百年ごとに三十歳になるなどという伝承の残る男、普通に考えれば人ではない」
白衣の男はようやく「なるほど」と全てに納得できたようだった。
「百年の時を飛び越えて動いたとしても、アハシュエロスを名乗れば、あるいはそうであると匂わせれば動きやすい。俺が歴史をなぞるのではない。俺の動きを歴史が適切に処理してくれる」
この男、安起龍は時を飛び越え、使命を果たしている。
起龍たちが生きているのは西暦二一五四年の長崎にある小さな港、
その機械はある男の目の前に現れた龍によって、所在が示された。起龍たちが生活する港の入口に、八ノ子島というお椀を伏せたような形の小島がある。その島の内部は空洞で、ドーム状に広がった空間の中央にその機械はあった。
機械の横には中国などで使われていた「永恒」という文字が刻まれている。しかし、この世界はその言葉が意味する「永遠」ではないようだ。
二二三八年一月十六日。その日を過ぎた先へは、時を飛び越えることは出来ない。機械はその日以降の日付けの入力を受付けず、その日に旅立った者は帰ってこなかった。
起龍の役目は、その日で地球を終わらせないこと。その方法を探るために過去へ飛び、変えられる歴史を探し、未来を変える方法を模索しているのだ。
起龍は八ノ子島のドーム内へと移動し、機械を起動させ、言葉で刻を告げた。
「三十年四月一日」
場所は今告げる必要はない。刻を超えた後に「案内人」に告げればいい。
宇宙への浮遊を一瞬感じた起龍が瞬きをすると、目の前に麻製の簡素な服を纏った女がいた。
「あなた、何回目?」
「初めてだ。お前から見て何回目かなんて言うなよ。できれば知りたくない」
「その程度話しても『歴史』は何もしない」
女は笑いながらそう答えたが、起龍の表情は崩れない。
「あと何回来ることになるかなんて知りたくないんだよ」
「ま、あなたがそう言うのも知ってたけどね」
「チッ、仕事をしにきたんだ。さっさと済ませたい。ゴルゴダの丘の場所はわかるか?」
現在キリストの磔刑が行われたといわれているゴルゴダの丘は、エルサレムの聖墳墓教会が建つ場所だという説が一般的だ。だが、それが真実とも限らない。
「起龍、あなたっていつも質問がひとつ多いのね。行きたい場所を言えばいいだけなのに」
「それは悪かったね。未来の俺に代わって謝罪しておく。キミもひとつ言葉が余計なようだが、まあいい。十字架を背負って歩くキリストに会いたい」
「そういうことだったの。アハシュエロスの伝承をなぞる気ね」
「やはり無駄な質問が多いようだが、その通りだ」
女は上がっていた頬を落として無表情になった。起龍を見る目も冷たくなる。
「そうだった。あなたって最初こうだった、なんて無駄話はもうやめておく。私、これでも預言者だから」
預言者と聞いて起龍は眉根を寄せた。
「誰の言葉を聞く? 神とか言うなよ」
「さあ、どうでしょうね。今回の仕事が終われば分かっているかもよ」
女はそういうと口笛で不思議な旋律を奏でた。
「今の音、覚えておいてね」
起龍は自身の外部記憶装置に今の女の口笛が記録されているのを確認して頷いた。
「じゃあ、行ってらっしゃい。あまり酷く殴っちゃダメよ」
「それは誰から聞いた話だ?」
起龍が聞き返した時、既に女は姿を消し、ドームの中にいた起龍は、干しレンガの建物の中にいた。周りは砂漠だが、近くに丘が見えた。植物は僅かに草が生えているだけの岩と砂の丘だ。
「あれがゴルゴダの丘か。すると、ここが靴屋だな」
起龍が利用しようとしているアハシュエロスの伝承にこのようなものがある。
キリスト磔刑の時、ゴルゴタの丘へと自ら十字架を背負い歩くキリストは、その途中靴匠の軒先を通りかかった。足元のふらつくキリストが、軒先に立っていたアハシュエロスという男に、ここで休ませて欲しいと願ったが、アハシュエロスはそれを断りキリストを殴りつけた。
「罪人を休ませる義理はない。さっさと行け」 アハシュエロスがそう言ってキリストを追いやると、キリストは去り際にこう言い放った。
「私の何が憎くて頬を打つのか。私の何が気に入らずに留まることを許さぬのか」
答えぬアハシュエロスにキリストは続けた。
「行けと言うのなら行こう。だが、お前は再び私が現れるまで待ち続けろ。この世を彷徨い続けろ。その間に答えを用意しておくのだ」
以降アハシュエロスは死ぬことを許されず、この世を彷徨い続けた、という伝承だ。
「しかし、靴など置いてあるはずもないか」
起龍は砂埃が積もった石の床の上に身を投げ出してのんびりとその時を待った。
いつの間にか眠っていた起龍は、小柄で痩せた男の声で目を覚ました。
「すまぬが、その履物を貸して貰えぬか」
目を覚ました起龍は、思わず自身の額を起点に、右手を上下左右に動かしそうになって苦笑した。起龍の目の前の男、イエスは起龍が履いている靴を指さしている。
靴を貸すかどうか考える前に、起龍はイエスとその周囲に目を配った。
イエスは十字架を背負ってはいなかった。十字架はローマ兵らしき者たちが馬車で運んでいる。共に磔刑にされるディスマスとゲスマスの物も含まれているのか、三つの十字架が運ばれていた。
野次馬はいるが、数は多くない。
起龍はローマ兵に囲まれている男、おそらくディスマスかゲスマスのどちらかであろう人物を見た。明らかに片方の足を痛めている。布で縛ってはいたが、血が滲んでいるのが見えた。
「盗人に俺の靴を貸せっていうのかい? ボス」
起龍はニヤリと笑みを浮かべて答えた。今自分は神の子と話している。その高揚感はあったが、油断はしていないはずだった。
「安起龍。
「神に仕えるだと? 俺にそんなつもりは。いや、まて。なぜ俺の名を知っている?」
そうイエスに訊いて、起龍は迂闊だったと舌打ちをした。過去の刻に来て知り得る情報は、できるだけ自分自身で選択すべきだ。思わぬ真実を知り、自身の中にあるその歴史の知識に差異があった時、歴史の放浪者たちは道を見失っていく。そして歴史の餌食になるのだ。
「それは預言者が」
躊躇なく答えようとしたイエスの目の前に起龍は片手を広げた。そして「待て」という言葉と共にイエスの口を封じようとしたが、彼は起龍の手を払い除けて言葉を続けた。
「私の力になる者がゴルゴダへ向かう途中に現れると。神に仕えるアンジェロがね」
イエスがその身を捧げる「神」「アンジェロ」という言葉とは裏腹に、その表情は起龍に対して侮蔑の色を濃く見せていた。
「そうか。今や貴様の心の中にあるのは自分を見殺しにする父への怒りだけ。そうなのだな?」
自己に対する嫌悪も含まれていそうだ。起龍がそう考えていると、その目の前に立つ、痩せてくたびれ果て、生気のない顔を見せていた男の目に、僅かに光が宿った。
「私の頬を打つのだろう?」
「そういう予言を聞いたのだな。女の預言者か?」
「ああ、託宣があったそうだ」
「誰からの?」
起龍のその問いに、イエスは答えられなかった。
「神ではない。今そう気付いたのか」
イエスはまだ口を噤んでいる。そして視線は起龍の履く靴に落とされている。
焦れた起龍は常々考えていたことを口に出してみた。
「神は全てを作ったらしいが、それは神だけの意思か? 自分だけの考えか?」
「始まりの時、神は天の国と地の国を創られた」
「それは知っている。俺が訊きたいのは」
「『始まりの時』そこに答えがある」
イエスの目は虚空を見つめていた。既に彼の会話の相手は起龍ひとりではなくなっていた。過去、現在、未来、全ての刻に存在する人々だ。
そんなイエスが、起龍の目を見つめた。
「さあ、頬を打て。いや、殴り付けろ」
起龍は弱い人間ではない。精神的にも、肉体的にも。だが、その起龍がイエスの眼差しに恐怖していた。そしてその恐怖を自覚した瞬間、起龍の拳がイエスを吹き飛ばした。
痩せ細ったイエスの顔は、歪に下顎を垂れ下げていた。まともに喋ることもままならなくなったイエスが、起龍の耳元に顔を近付ける。
「『時』が始まる前、そこにあったのは『永遠』だ。神は天地創造以前に『永遠』から『時』を動かされたのだ」
「永遠、だと?」
起龍には思い当たることがあった。あの時を飛び越える機械に刻まれた文字だ。
何かに想いを巡らせ始めた起龍を見て、イエスは再び呟いた。
「三日後だ」
「俺に何を望む?」
「預言者の歌を歌ってくれれば良い」
そう言ったイエスの視線が背後に動いた。その先に、あの女がいた。起龍がこの時代に来て初めて会った女、預言者の女だ。そして、起龍にはその女の正体が分かった。正体とは言ってもこの時代での正体だが。
「マグダラのマリア。アイツが預言者だと?」
起龍の言葉を聞いて、イエスは自嘲した。
「やはり私は神に創られた見世物のようなものらしい。私などより、神に選ばれし者として相応しい人間がこうも存在する」
イエスを包んでいた雰囲気が変わった。先程起龍が感じた恐怖を生んだ存在と同じとは誰の目にも映らないだろう。
「お前は歴史の歪みを矯正するために生まれた存在か」
起龍がそう呟きながらイエスを見つめる間に、イエスの顔の歪みは元に戻っていた。
それから三日後。起龍にとっては五年後。預言者マリアは再びイエスと対峙していた。
「マリア、どうか私を縛り付けないで下さい。私はまだ、父のもとに帰れていないのです」
「知ってる。だから私があなたを連れて行ってあげるの。この人と一緒にね」
起龍は五年ぶりに見るイエスに目を細めた。
「腹の傷が痛々しいな」
「傷?」
イエスは自身の腹を見て顔を歪めた。
「いつの間に、こんな」
「まあ、死んだ後だからな。覚えてはいまい」
「死んだ後?」
「そんな些細なことはまあ良いだろう。さっさと行くぞ、父のもとへ昇るのだろう?」
イエスは戸惑いつつも頷いた。
「じゃあ、手を」
マリアがイエスと起龍の手を取ると、時を飛び越える機械の前に移動していた。
「二二三八年一月十六日」
すかさず起龍が行き先を告げる。
「さあ、イエス。父との面会だ」
直後イエスは、目の前を覆い尽くす眩い光に包まれた。
静かな空間に、起龍とマリアが立ち尽くしている。
「本当に帰ってくるのか?」
「もちろん。私は預言者だって言ったでしょ?」
「歴史の預言者か」
「起龍、あなたはこれまでの旅で神の正体に気付いているんでしょう?」
「私たちの中にある全ての生命の根源」
それまで起龍の影に潜んでいた少女が起龍に代わって答えた。
「あら、起龍のパートナーね。起龍と一緒で強そう。色んな意味でね」
「しかし、そんな答えに何も意味はない。価値もない。そうだろう、芽衣」
「はい、起龍様」
起龍はその少女を抱き寄せ、再び時を飛び越えて行った。
「私への挨拶はないのね」
ひとりドームの真白な天井を見つめていたマリアは、苦笑と口笛の残響を残して姿を消した。
了
※この物語は、川内祐著「アエテルニタスの箱: 横瀬浦編」の前後談になります。
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