(その7)

新吉と長次は、公休日なので柿色の作業衣ではなく自前の普段着のまま住吉神社に参拝するために隣接する佃田島へ渡った。

隅田川の河口に浮かぶ石川島まるごとが人足寄場なので、舟でなければ入ることも出ることもできなかった。

ただ、人足寄場は監獄ではなく、罪人たちの更生を目的とした授産所なので、監視もそれほどきびしくはなかった。

晴れた日は西の空に見える富士の嶺は黒い雲におおわれ、その雲が矢のようにこちらに向かって飛んでいた。

暗くなりはじめた海面には大きな三角の白波が立っていた。

「こいつはおあつらえむきだぜ。夜には嵐かもしれねえ」

小手をかざして、風の吹きすさぶ江戸湾を見晴るかした長次はひとりごとのようにいった。

「大川をさかのぼって、聖天船着き場まで行こう。川が大荒れになったり、ないとは思うが追手があったりして別れ別れになるといけねえ・・・」

したり顔の長吉は、

「万が一別れ別れになったら、来月はじめの浅草の酉の市で会おう」

といって、ズシリと重い銭袋を新吉の懐にねじりこんだ。

島を漆黒の闇がおおい、雨混じりの強い風が吹き荒れるころ、ようやく神社の裏手に渡し舟が横づけされた。

すぐに岸を離れた渡し舟は、風に吹き飛ばされる木の葉のように隅田川をのぼりはじめた。

振り返ると、役所のぼんやりした明かりがどんどん小さくなっていくのが見えた。

・・・寄場では夕食前の点呼がはじまり、新吉と長次がいないことがすでに発覚したかもしれない。

島抜けして捕らえられたら獄門打ち首になると聞かされていたが、今は、新吉は駕籠を抜け出した小鳥のようにうまく飛び立てるか不安な気持ちしかなかった。

左手の神田川河口の柳橋あたりに、吉原通いの粋人を運ぶ屋形船が集まっていた。

荒れた天気を見越して、舟を出すかどうか船頭たちは迷っているのだろう。

・・・浅草裏手の聖天船着き場に着くころ、雨と風がさらに強くなった。

岸に上がろうとした長次は、懐から匕首を抜くと、いきなり船頭に切りつけた。

ちょうど舟が荒い波で揺れたので、切っ先が肩をかすめただけで船頭は難をのがれた。

「何をする!」

新吉が長次の腕をとらえて匕首をもぎ取って川に投げ捨てた。

「船頭を殺す約束だ!」

長次は夜目にもすごい形相で新吉をにらみつけた。

「だれとの約束だ」

と新吉がたずねたが、岸にはいあがった長次はそれには答えず闇の中へ消えていった。

新吉が長次を追うようにして岸にあがると、渡し舟はいきなり狂ったように走り出し、荒れる大川の暗い波間に消えていった。

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