寛政捕物夜話(第二十夜・処刑前夜)

藤英二

(その1)

新吉は鍬を持つ手を休めて額の汗をぬぐった。

天から熱波が容赦なく降り注ぎ、凪いだ水無月の海から風はそよとも吹かなかった。

遠くの海を白帆を立てた舟が涼やかに行き来していた。

隅田川の河口の三角州に造成した石川島の人足寄場で、見上げるほど高い竹矢来に囲まれ、十人の役人と三十人の人足たちと四六時中いっしょにすごすのは、息苦しくてたまらなかった。

寄場でやる大工仕事や建具造りや油搾りなどの仕事もあったが、新吉はすすんで隅田川の河口の護岸工事などの外稼ぎに出た。

たしかに外稼ぎは夏はとろけるほど暑く冬は骨の髄まで冷える過酷な仕事だが、新吉にはこの肉体労働で心身を鋼のように鍛えて、じぶんを罪におとしいれたやつらを懲らしめてやろうという秘めた思いがあった。

「新さん、そこまで働いてどうする。からだを壊してはどうにもならんぞ」

同じ人足長屋で暮らす四十はすぎた中年男の長次が口癖のようにいった。

三年前にはじめて島にきた夜に、三人掛けのひとつ布団でいっしょに寝た長次が、後ろから抱きついて股間を探ってきた。

手を払いのけても、長次は執拗に手を突っ込んできた。

新吉もくじけずにその手を払いのけたので長次はついにはあきらめたが、それからは新吉につきまとい、人足仲間は新吉は長次の稚児さんだと噂した。

新吉はまったく相手にしなかったが、長次はどこへでもついてきて、かいがいしく世話をした。

長次は、外稼ぎにもついてきた。

だが、生来の怠け者なのか、見張り番が目を離すとすぐに頭の後ろで手を組んで土手に横になり、下手をするとそのまま寝てしまう。

見張り番もあきらめたというか、どうも裏で手を回したので、長次にだけそんな野あそびみたいな外稼ぎが許されているという噂が立った。

噂といえば、長次は寄場に入るときにひそかに法外な大金を持ち込んだという噂もあった。


仲間たちと、潮が引いて遠浅になった河口に降り立ち、鍬で土手の根元の泥地を掘り下げて杭を打つ作業をしていた新吉は、柿色の作業着で土手に寝そべる長次の頭の上に人影が立つのを見た。

土手に突っ立った着流しのふたりの男は、どう見ても堅気ではない。

ひとりは痩せて背が高く、もうひとりはずんぐりとした小柄な男だった。

長次の上に屈み込んだ背の高い男が長次の喉に匕首を突き立てようとするのを見た新吉は、足元に転がる棒切れをつかんだ。

土手を駆け上がる新吉に気がついた男たちは、あわてて渡し場の方へ逃げ去った。

「どうした」

見張り番の木っ端役人が駆けつけた。

「へえ、昔の知り合いがあいさつに来まして・・・」

からだを起こした長次は喉元を押さえ、かすれた声で答えた。

「そうか、こんどは役所を通して面会に来るようにいってくれ」

と見張り番はいったが、長次の仕事着の襟に血がついているのを見逃さなかった。

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