小舟から身を乗り出し、海を覗き込む。底が見えそうな、澄み切った水で悠々と舞う魚の群れを見つけ、ノアは狙いを定めて銛を投げ込んだ——吸い込まれるように、銛が泳いでいる一匹に刺さる。数日分の食料になりそうな大物だ。仕留めた獲物を船に引き上げ、陸へと船を向けた。ふと、空を見上げる。燦々と降り注ぐ初夏の陽射しが目に染みた。

 故郷の集落が打ち棄てられたことを風の噂で耳にしたのは、蒼ヶ浜に住み着いて半年ほど経ってからだった。何者かが忍ばせた毒に心を侵されたかつての仲間たちは、諍いの果てに殺し合い、ついに、村には誰も居なくなったという。悲しく、恐ろしい報せに心が痛んだ。以来、ノアは長老オーガストに与えられた、蒼ヶ浜のはずれに建つ小屋で暮らしている。長老は人目を避けて暮らすようノアに勧め、ノアもそれに従った。

 時折、オーガストやその代理の長老アデラが様子を見に来る以外は訪問者も無く、ノアは美しい空の下、世の諍いから離れて暮らしている。

 隠者のような生活ではあったが、ノアは穏やかで静かな日々を愛し、それらを与えたもうた創造主に、心から感謝していた。

 

 山頂から望む海は今日も静かで、美しい。陽光を反射して輝く海面に、一際目を惹く光があった——ノアの魂が放つ輝きだ。

 セイヴィヤとの邂逅の後、オーガストは蒼ヶ浜じゅうの『烙印持ち』たちを探し出し、その罪を懺悔させて烙印を消し去った。かつての平和を、均衡を取り戻した蒼ヶ浜において、天使の出る幕はない。人々のことはアデラに一任し、自身は山頂でノアの姿を眺めるのが、オーガストの日課となっていた。

「また来たのですね」洞穴からセイヴィヤが現れ、声を掛ける。

 老いた悪魔は、中年の男の姿をとっていた——くすみの無い石灰色の髪を後ろに撫でつけ、眼窩には妖しく光る琥珀色の瞳が収まっている。整った目鼻立ちに特徴的な部分はないが、そのかおには知性と、狡猾さとが滲んでいた。おおよそ威厳ある声色から想像される通りの容貌だった。

「悪魔か。邪魔しているよ」

「どうか、セイヴィヤと。貴方は我が友。いつだって歓迎致します」

「君と友になった覚えはない」

「そんな冷たいことを仰らずに。この世は実に不条理な場所……誰であれ、友好的な相手を無下にするべきではありませんよ。いつ何が起きるか分かりませんから」

 そう言って、セイヴィヤはオーガストの隣に腰掛ける。

「——あぁ。貴方の宝ですな。なんとも眩しい魂の持ち主のようで」

 オーガストの視線の先にノアが居るのを見て、セイヴィヤが呟いた。

「驚いた。悪魔にも魂の美しさが判るとは」

 オーガストの皮肉混じりの言葉に、セイヴィヤが心外だと仰々しく目を見開く。

「勿論ですとも。あれだけの光を放っているのです。悪魔にさえ、眩しく見えるものですよ」

「……他のものは、どう見えているんだい?」オーガストが訊ねた。

 思えば、これまで一度も、悪魔とまともに対話をしたことがない。均衡を崩さんとする他の悪魔たちはいつだって敵意をむき出しにし、天使であるオーガストもそれに軽蔑をもって応えてきた。しかし、ここにきて親しげな、礼節を重んじる悪魔と出逢った。オーガストは悪魔を倒すべき敵としてではなく、ある意味で対等な存在と認識し、その相手がどう考え、何を見ているのかに、初めて興味を抱いた。オーガストの問いに、セイヴィヤは一瞬驚いたように眉を上げたが、やがて柔らかな笑みを浮かべた。

「この世に目を向けたとき、私の目に映るのは、混沌。不条理。欺瞞です。美しさや、穏やかさなどは、ただの偽り……私のこの姿のように」

 セイヴィヤの貌が崩れ、霧散して、闇となる。人間としての姿は消え、黒煙か、或いは黒い霧のような正体が露わとなった。突如増した闇の気配に、オーガストは思わずたじろぐ。

「この世は所詮、秩序という幻……均衡という嘘に塗り固められた、欠陥品に過ぎないのです」

 威圧感を増したセイヴィヤの声が響いた——無感情な、深淵の如く虚な声。

 やはり、悪魔とは分かり合えない。天使である自分とは、根本的に価値観が違うのだと、オーガストは思った。

「哀れだね。父上の創られた世界の美しさを理解できないとは」そう口にする。

「私が哀れと? その言葉、そのままお返ししましょう……哀れな若き天使様」

 闇が、オーガストを嘲笑うように揺らめいた。

「創造主の望むまま、その道具に成り下がるとは……勿体ない」

「僕は父上の道具じゃない」

「違うと? では創造主は、貴方の献身に報いましたか?」

「その必要は無い。僕は天使の務めを果たすまでだ」

 オーガストの空色の瞳がぎらつく。今にも襲いかかりそうな天使の様子を面白がるように、セイヴィヤは低く笑った。

「どこまでも忠実……感心しますよ。創造主が、貴方のその忠誠心を踏み躙らなければ良いのですが」

「父上は、決してそんなことはしない」

 詰め寄るオーガストから逃げるように、セイヴィヤは洞穴へと戻っていく。

「——貴方の弟の為なら、はなんでもするでしょう?」

 禍々しい、不穏な響きを残して。

 

 セイヴィヤの言葉が脳裏にこびりつき、心がざわつく。

 海の方に目をやると、さっきまで居たはずのノアの姿が無い。慌てて辺りを見渡すと、ノアは浜に船を引き揚げているところだった。

 胸を撫で下ろしたのも束の間、蒼ヶ浜の東に、オーガストはある気配を感じた。魂の片割れ、双子の弟の気配を。

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