オーガストは蒼ヶ浜を離れ、くだんの山——その頂を訪れていた。

 眼前の岩壁にぽっかりと空いた洞穴に目をやる。そこは微かな闇の気を纏っており、緑のほとんどない岩肌は冷たく、どこまでも無愛想で、生命の在り方そのものを否定しているかのような、仄暗い意思が感じられた。このような場所が、自分の治める地のすぐ側に在った事実に、唖然となる。

 振り返ると、眼下に蒼ヶ浜が見えた。

 純白の砂浜。その先に広がる、澄み切った青い海——その上を小舟が漂っているのが見える。天使の視力をもってしても、船に乗る者の顔は遠すぎて見えないが、誰が乗っているのか、オーガストにはすぐわかった。魂の放つ白銀の光——あれはノアだ。

 見出した、自分だけの美しい魂の姿が、オーガストの胸を喜びで満たす。

 この尊い宝を守る為にも、悪魔と対峙する必要があるのだ。

 決意を固め、オーガストは邪悪な気配の根源——山頂にぽっかりと空いた洞穴を見据えて、足を踏み入れた。

 

 洞穴の闇に踏み込んですぐ、全身を無数の指で撫でられるような、嫌な感覚を覚える。

 闇が、まるで意志を持っているかのように纏わりついてきた。息が詰まる。辺りを照らそうと、掌に灯火を起こすが、すぐ闇に掻き消されてしまった。

「ようこそ」突然、洞穴の奥から声がする。

 威厳があり、気品のようなものを感じさせる、低い男の声——女のものでも、老人のものでもない。

「このような、淋しい場所にいらっしゃるとは、いったいどういったご用件でしょう?」

「芝居は不要だ」闇に潜む悪魔に、オーガストがぴしゃりと言う。

「僕はオーガスト。蒼ヶ浜の長で——」

「——創造主に仕える天使。えぇ。存じております」

 オーガストの言葉を、悪魔が遮った。

「ずっと、ここから貴方の姿を見ていましたから……」

「ほぉ。ならば、僕がここに来た理由も分かっているね?」

「さて……心当たりがございませんな」

 悪魔は揶揄うように答えたが、オーガストが口を閉ざしたままなのを見て、つまらなそうに溜息をつく。

「……もちろん分かっておりますとも。烙印を押された人間が増えているのでしょう?」

「その通り。君たちはやり過ぎている。これ以上は看過出来ないんだ」

「さて……君たち[#「たち」に傍点]とは? ここには私しかおりませんが?」

 白々しく、どこか挑発的な口調。苛立ちが募る。

「女の悪魔と、老人の悪魔が居るだろう? 人間たちから話は聞いている……とぼけても無駄だ」

 オーガストが問い詰めると、それを嘲笑うように、悪魔は低い声で笑った。

「私は真実を語っていますよ。ここには私しかいません……烙印は、すべて私が押したものです」

 あり得ない。人間と同じように、悪魔も生まれ持った姿というものがある。服装や立ち振る舞いを変えることで人の目を欺くことはできても、姿そのものを変えることは出来ないはずだ。

 疑うオーガストの心中を見抜いたように、悪魔が続けた。

「無論、疑われるでしょうが。ただ、お若い天使様……この世には、貴方でさえ知らぬ秘密が存在しているのです」

 そう言って、悪魔はまた低く笑う。

「ローラのことは、女の姿で騙しました。母親の居ないあの娘は、奥底で母の影を求めているようでしたので……シンシアには警戒されぬよう、老人の姿で。妬みと恋煩いは、いつの時代も女子おなごを駆り立てるようですね」

 滔々と、烙印を押した者で無ければ知り得ないことを語る悪魔に、オーガストは薄ら寒いものを感じていた。目の前の悪魔は、何世紀も地上を歩んだオーガストよりもさらに古く、力ある存在なのだ。

 ふと、創造主の御許に居た頃に聞いた、旧い悪魔の伝説を思い出す。

 

 創造主の元から堕ちて悪魔となる者らとは一線を画する、もっとも純粋な悪魔たちが存在する——創造主の手によらず、深淵の底より生まれたという彼らは、失われた秘術を操り、創造主に対する果てのない憎悪を宿して、地上の最も暗い場所に潜んでいるのだと。

 

 目の前の悪魔が、或いは旧い悪魔なのだろうか。

「……もしかして君は、旧い悪魔なのかい?」恐る恐る、訊ねる。しばらくして、答えがあった。

「お見事。よく私の正体を見抜きましたね」

 闇に隠れた悪魔の声は、満足げだ。灯りがあれば、ほくそ笑む様子が見えそうなほどに。

「その洞察力に免じて、貴方たちの治める人々のことは放っておくことにしましょう。既に押された烙印については、消していただいて構いません。どうせ、退屈しのぎにやっただけのことですので」

 この悪魔は、糧を必要としていない。ただ退屈だからという理由だけで、あれだけの人数に烙印を押したのだ。それは、オーガストの理解を超えていた。

「何故だ? 糧が不要なら何故、悪戯にこの世の均衡を崩そうとする?」

 我慢出来ず、訊ねた。

「何故でしょう……きっと、悪魔のさがというものなのでしょうね」

「これといって理由は無いと?」

「えぇ。しかしあえて言うなら、創造主の作り上げた、均衡という名の虚構を、廃したいのかもしれません」

「この世の均衡が偽りだというのか? 馬鹿馬鹿しい」

「そうかもしれません。しかし、貴方が天使の視点で世界を見るように、私は悪魔の視点で世界を見ている……どちらが正しいかを論ずるなど、それこそ馬鹿らしいことなのかもしれませんよ?」

 天使であり、創造主の子であるオーガストにとって、父の創ったことわりは絶対だ。それを疑うなど、はなから選択肢に無い。旧い悪魔とて、所詮は悪魔。語る言葉は戯言だ。そう思い、対話を切り上げようとするが、先に動いたのは悪魔の方だった。

「さて、そろそろお戻りになるべきでしょうね。貴方の宝物に、何かあってはいけませんから」

 含みのある言い方に、オーガストは戦慄する。一体この悪魔は、どこまで視えているのだろうか。

「彼をどうするつもりだ?」

「心配せずとも、手出ししませんよ。しかし、あの若者ほどに輝く魂を長く隠しておくことは難しいでしょう。きっと誰かの目に留まるはずです」

 オーガストの脳裏に、弟の穏やかな顔がちらつく。

「エマニュエル……」気付けば、その名を口にしていた。

「左様。創造主の寵愛に浴する、貴方の弟です。もし彼がノアを欲しがったら、果たして貴方がたの御父上はどうするでしょうね?」

 エマニュエルは東の入植者たちの元にいるので、海岸の小屋に住むノアの存在は知らない。しかし、もし知られてしまったらどうなるだろうか。胸がざわつく。

「悪いことは言いません。ノアを弟から隠すのです。エマニュエルは必ず彼を欲しがり、創造主はお気に入りの息子のために、貴方からノアを奪おうとするでしょう」

 エマニュエルの方が気に入られているとはいえ、いくらなんでも父がそんなことをするはずがない——そう一蹴しようとするが、何かが引っ掛かり、出来ない。

 もしかしたら——囁きにもならないほどの小さな声が、不安を芽吹かせた。

 

「君の言葉をどうして信用出来る? 君は悪魔だ」

「信じて頂く必要はありません。私はただ、貴方を助けたいのです。貴方が創造主から不当に扱われ、傷つくのを見たくない……ただそれだけのこと」

「悪魔の甘言は通用しない」

 気を許さないオーガストに、悪魔はわざとらしく溜息をつく。

「なんとでも。気持ちは変わりません」

 そう言ったきり、悪魔はオーガストが立ち去るのを促すように、黙った。

 去り際、オーガストは悪魔の居る闇に向き直る。

「君、名前はあるのか?」

「無論です。永く地上に居るので、数多の名がありますが……」

 悪魔は考えるように間を置いてから、答えた。

「……どうかセイヴィヤとお呼び下さい」

 飛ぶように洞穴を去るオーガストに掛けられた声は、友に対するそれに似た、親しげなものだった。

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