Ⅵ
蒼ヶ浜の皆が寝静まった頃、足音を立てないよう細心の注意を払いながら、シンシアは恋敵のアンナの住む小屋に近付いた。その手には魚油で満ちたバケツと、火打ち石が握られている。中で眠るアンナに気付かれないよう、魚油を小屋の壁にかけた。滴る臭い油はすぐに染み込み、木材がしっとりと濡れぼそる。準備万端。あとは火を付けるだけだ。火打ち石を打ち始めたところで、背後から声がする。
「放火とは感心しないな……シンシア」
シンシアが驚いて振り返ると、そこには黒髪のハンサムな長老、オーガストの姿があった。腕を組み、咎めるような目でこちらを見ている。
「オーガスト様! こ、これは違うんです!」
「ほぉ。どう違うんだい? アンナの家のそばで、火打ち石を打っていただけだと?」
オーガストは、大袈裟に匂いを嗅ぐような仕草をしてみせた。
「……ほぉ。この臭いは魚油かな? 魚油はよく燃えるじゃぁないか。火を放つなら必須だろうね」
すべて見抜かれているようだ。言い逃れは出来そうにない。シンシアは力なくうなだれ、手から火打ち石がこぼれ落ちた。
「蒼ヶ浜の法で、殺人を試みた者はどう裁かれるか、君は知っているかな?」
シンシアが黙ったままでいると、オーガストが海の方を指差す。
「食料も水も持たせず、船で海に流すんだ。生き延びられる確率は極めて低い。果ての無い海を、死ぬまで漂うことになる」
淡々と、酷なほどの冷静さで告げられ、震え上がったシンシアはその場でひれ伏した。
「お願いです! それだけは……!」涙ながらに慈悲を乞う。
「……では、教えてほしい」
オーガストはしばらく黙ったあと、いくらか穏やかさを取り戻した声で言った。
「君が何故、アンナの家に火を放とうとしていたか。そして、誰に入れ知恵されたのかを。教えてくれれば、陸路で蒼ヶ浜を去ることを許そう」
シンシアはしばらくすすり泣いていたが、やがて口を開いた。
「アンナと私は、同じ人を好きになったんです。漁師のピーター……私の方が先に彼を好きになったけど、彼はアンナの方を気に入ったみたいで……」
「それで、アンナを亡き者にしようと?」
シンシアが頷く。
「山に住むおじいさんが、『アンナが死ねば、ピーターは君のものになる』って。『火事なんて、よく起きることなんだから』って……」
「おじいさん? 女ではなく?」
オーガストが不審そうに訊ねる理由が分からず、シンシアは首を横に振ることしかできない。
「女の人は知りません。私が会ったのはおじいさん。ヨボヨボの、優しそうなおじいさんでした」
「……いったい、何人居るんだ」
オーガストの眉間に、深い皺が刻まれる。それが何故なのか、最後までシンシアには分からなかった。
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