Ⅴ
故郷の浜を発って二週間——西という方角だけを頼りに航海を続けたノアは、久しぶりにカモメの鳴く声を聞いた。水も食料も尽き、萎みかけた心に、希望が湧いてくる。櫂を出し、カモメの居る方へ一心不乱に漕いだ。しばらくすると、木の焦げたような匂いが潮風に乗って漂ってくる——焚き火の匂い。人の住む場所が、すぐ近くにあるのだ。
身体に残された全ての力を振り絞り、ひたすら漕ぎ続ける。やがて、水平線の果てに揺れる、ヤシの陰が見えた。
「——黄金ヤシだ!」歓喜の叫びをあげた。噂に聞いた楽園——蒼ヶ浜を遂に見つけたのだ。
船を陸につけ、崩れるように砂浜に身を投げ出す。濡れていても判る、柔らかく滑らかな砂の感触。手で掬い、抱きしめた——願った通りの、故郷と同じ砂だ。過酷な航海を生き延びた安堵と、理想郷を見出した喜びとが混ざり、涙となって溢れ出た。立ち上がろうとするが、力尽き、仰向けに倒れる。飢え渇き、疲れ切った身体が限界を迎えたのだ。それでも、このまま死んでも構わないと思えるほどに、ノアは満足していた。理想郷で死ねるなら、本望だ。
意識が朦朧とし、視界が暗くなる。ふと、誰かがすぐそばに立っていることに気が付いた。ぼんやりとしか見えないが、髪が黒く、穏やかな雰囲気の男のようだ。
「……天使さんか。俺、いつでも逝けるよ」
今際の際に現れるなど、天使以外に居ないだろう。そう思って、呟いた。男が跪き、顔を近付ける。端正な顔が見えた。瞳の色は、空色。どこまでも広がる、秋のからっ晴れの色だ。
「何を馬鹿な」少し低めの、しかし優しげな声で、男は呆れたように言った。
「誰かは知らないが、君のことはまだ死なせない。そんな惜しいことが出来ようか……」
男の手が、頬に触れる。温かい。その掌から、なにやら熱いものが伝わり、全身に流れ込んだ。みるみるうちに力が湧いてくる。すぐに、ノアは立ち上がれるだけの体力を取り戻した。
「助かりました……俺、東の海から来たノアっていうもンです」
ノアが半ば縋るようにして礼を言うと、男は微笑んだ。
「ノアか。無事に船旅を終えられて何よりだ。僕はオーガスト。ここ蒼ヶ浜の長老だ。よろしく」
オーガストと名乗った男はそう言って、手を差し出す。ノアはその手を強く握り、ぶんぶんと力強く振った。
思わぬ出逢いに、オーガストの胸は躍った。
地上に遣わされてから途方ももない年月が経つが、これほど美しい魂の持ち主に会うのは初めてだ。まるで夜空の星がそのまま地上に降りてきたかのような、眩い輝き。地上で最も美しく、この上なく尊い、宝のような存在と巡り逢ったのだ。
この者を見守ろう——オーガストは、そう心に誓った。
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