Ⅲ
創造主の子らよ。その名に相応しく、善く在りなさい——。
愛を、憐れみを、慈しみを持ちなさい——。
分かち合い、与え合い、支え合いなさい——。
平和を愛し、争いを遠ざけ、寛大で在りなさい——。
創造主の子らよ。祝されし者たちよ。その名に相応しく生きなさい——。
聖日の夜、蒼ヶ浜の民は挙って黄金ヤシの下に集い、焚き火を起こし、輪になって、声をひとつに聖句を唱えていた。輪の中心で、オーガストはそのひとりひとりの顔を眺める。歓喜の表情を浮かべる青年。穏やかな表情の老婆。赤ん坊を抱く、優しげな表情の母親。揃って創造主を賛美する彼らの顔は、どれも美しく、愛おしい。
ふと、人間が決して触れられない父だけの領域——空を見上げる。藍の闇にぶちまけられた、無数の星々が在った。数え切れない白銀の欠片は、無造作に散りばめられているように見えて、実際は創造主の手によって、ひとつひとつ置かれたものだ。計算し尽くされ、一寸の狂いもない、完璧な芸術作品。夜空こそ、父の手による
いつのまにか、聖句を唱える声が止んでいた。皆、創造主の教えの言葉を待ち、その視線をオーガストに注いでいる。意識を地上に集中させ、オーガストは口を開いた。今夜は、皆に語って聞かせるべきことがあるのだ。
「皆様。聖句は、我々人間の在るべき姿を教えています。平和を愛し、その名に相応しく生きるようにと……」
人々の顔を見ながら、静かに語る。皆一様に耳を傾けているので、大声を出す必要はなかった。
「しかし、そんな私たちの在るべき姿を歪め、創造主様から引き離そうとと目論む者たちが、この世には存在しています……悪魔です」
群衆がざわめく。愛や平和について説くことがほとんどの説法で、悪魔について言及するのは初めてだった——少なくとも、今世代中には。
「私達が子供の頃に聞かされた物語とは違い、悪魔は実在しています。彼らは私達の中に紛れ、不和の種を蒔き、私達の心を、魂を毒そうとします」
ひと呼吸置き、群衆を見渡した。殆どの者が、突然語られる不穏な話題に戸惑い、顔を曇らせている。
「こう思う方も居るかもしれません。『悪魔に誘惑されても、自分なら抗える』、『悪魔に近づく事も、近付かせることもしないから大丈夫だ』と。その認識は誤りです。悪魔は狡猾。人間の欲望や願望、必要を見抜き、それにつけ込んで言葉巧みに陥れようとします」
不安を掻き立てられ、顔を見合わせる人々——オーガストの空色の瞳は、多くの頭上に浮かぶ、赤黒い、燻る焔の輪を捉えた。悪魔と契りを交わし、魂に刻まれた堕落の
まずいな、と、オーガストは唇を噛む。これまでも、人々の頭上に烙印が浮かび上がることはあった。飢えた小物の悪魔が糧欲しさに民を誘惑した程度のことで、探し出して警告すれば悪魔は立ち去ったし、愚かにも烙印を押されてしまった者は、きつく叱ってから、その後の態度次第で烙印を消してやれば一件落着。そうやって均衡は保たれていた。しかし、ここしばらくは違う。オーガストがどれだけ対処しても、次から次へ、烙印を押された者が増えていく。今夜の礼拝は、烙印を帯びた者の数を確かめることも兼ねていたが、その数は予想をはるかに上回っていた。一体どんな悪魔が、これほどの人数を堕落させたのだろう。その正体がなんであれ、かなり危険だ。均衡が崩されかねない。そうなる前に、なんとしても悪魔を見つけ出さねば。
「皆様。たとえ困難や誘惑に直面しても、絶えず創造主様のことを思い出し、善と信仰をもって、悪魔に立ち向かってください。皆様が屈しなければ、悪魔は無力なのですから」
全員を守ることは出来ない。せめて、自分達の魂を守ってくれと願いを込め、オーガストは説法を終えた。人々はその場で跪いて創造主に祈ったあと、ひとり、またひとりと家路につく。焚き火が燃え尽きるころには、黄金ヤシのそばに残っているのは、オーガストだけになっていた。
「いい夜ですね、オーガスト?」
砂浜に腰掛け、夜空を眺めるオーガストの元に、エマニュエルはやってきた。月星の光を浴び、腰まで垂れた髪は青真珠色に瞬いている。
「うん。今夜も夜空が綺麗だ……で、そちらの首尾は?」
「えぇ。上々でしたよ」オーガストの横に腰掛け、エマニュエルは得意げに微笑んだ。
「東からの入植者の中に、悪魔が潜んでいました。蒼ヶ浜をわたしたちが守っていると告げたら、『分が悪い』と引き揚げていきましたよ」
「そいつのことは祓ったのかい?」
「いいえ。悪魔など滅びるべきとは思いますが、均衡を崩すほどの存在ではなかったので、見逃しました」
「そうか。入植者たちは?」
「救いようの無い何人かは、悪魔と一緒に去らせました。烙印の無い者と、悔い改めそうな者は、当面のあいだ東側に住まわせることにします」
「随分うまくいったみたいだね……よかった」
昔からそうだ。創造主の子、双子の天使として創られたオーガストとエマニュエルのうち、弟のエマニュエルの方が見目麗しく、器用で、なにより運に恵まれていた。今だってそうだ。自分が、人々に烙印を押した悪魔探しに苦心するあいだ、エマニュエルは脅威となり得る悪魔を手際良く追い払った。誇らしげに顛末を語る美しい弟の横顔を見ながら、オーガストはどうしてエマニュエルのやること成すこと、すべてを父は祝福するのだろうと、泡のような嫉妬心を抱いた。
「オーガスト?」
思案に耽るオーガストの肩を、エマニュエルが叩く。
「どうしたのです?」
「……いや、まぁ。色々とね」
我に返ったオーガストは言葉を濁して顔を背けるが、薄翠色の瞳に覗き込まれた。
「悩みがあるんですね」オーガストに顔を近付け、エマニュエルが小さく溜息をつく。
「……礼拝に集まった者たちに、かなりの数の『烙印持ち』が居たんだ。どこかに悪魔が潜んでるんだろうけど、うまく見つからなくてね」
悩みの種のひとつを、正直に伝えた。エマニュエルは依然として、兄の顔を覗き込んだままだ。
「それだけではないでしょう?」
「……分かるかい?」
「えぇ。感じるんですよ。双子なんですから」
伏し目がちな瞼の奥にのぞく、薄翠色の真っ直ぐな瞳。その輝きを前に、嘘をつくことはできなかった。
「君が羨ましいんだ」夜空を見上げ、呟く。
「君は父上の寵愛を受けている。兄である僕よりも美しく、器用だ。僕が四苦八苦する傍らで、とんとん拍子に務めを果たしている……そんな君が羨ましいんだよ、エマニュエル」
本音を言えば、羨ましいというよりも癪だ。しかし、そう言ったところでエマニュエルには理解出来ないだろう。あまり深く考えるべきではないのだろうと、オーガストは思った。
「何を言うのです」
しばらくの沈黙の後、エマニュエルが口を開く。その後に続く言葉は、概ねオーガストの予想通りだ。
「わたしたちは、ともに父上さまの子。等しく愛され、等しく用いられているではないですか」
「どうだろうね」
オーガストが投げやりに言うと、エマニュエルは兄を抱きしめた。
「あなたの秋空のような美しい瞳に、苦悩の陰は似合いませんよ。自信を持って。あなたは創造主の子、わたしの兄ではありませんか」
そう言って、エマニュエルはオーガストから離れる。
「まぁ、君がそう言うなら」
屈託なく笑う弟に愛想笑いを返しながら、呟いた。
「……長老がた! 長老がた!」
遠くの方から、誰かが叫びながら駆けてくる。すぐに、アデラの姿が夜の闇に浮かび上がった。
「どうしたんだい?」
オーガストが訊ねると、アデラが息も絶え絶えに答えた。
「ローラが……ローラが危篤なんだよ!」
女長老が口にした名は、最近病に伏した若い女のものだ。
「行きましょう。さぁ、アデラさま……」
エマニュエルがオーガストに目配せし、ふたりの天使はアデラに肩を貸す。疲労で意識が朦朧としているアデラに気付かれないように、天使たちはその身体を軽く持ち上げ、担ぐようにして運んで、飛ぶようにローラの家へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます