Ⅹ
「鉄仮面! 出てこい! 鉄仮面!」
宿屋の外から呼び掛ける男の声で、エリクはベッドから飛び起きた。慌てて枕元のレイピアを引っ掴み、抜刀する。
「こちらは聖堂衛兵隊である! 教皇猊下の名の下、お前を破壊行為と殺人の容疑で逮捕する! 出てこい!」
先程よりも大きな声で、男は再び呼び掛けた。
この場所を隠れ家にしていることを知る者は居ないはずだ。誰かに尾けられたか、或いは素性の知れない男が地下室を占領していることにうんざりした店主が密告した可能性も無くはないが、そもそも鉄仮面を被ったまま出入りしたことはないので、それも考えにくい。だとすると、思い当たる節はひとつしかなかった。脳裏を、親しげな神父の顔が
裏切られたか——鉄仮面を被りながら、エリクは舌打ちした。
地下室には、上階へと続く階段以外の出入り口はない。宿を取り囲んでいるであろう衛兵隊に気付かれずに逃げることは、まず不可能だ。衛兵隊を迎え撃つにも、地下室が狭過ぎる。満足に抵抗出来ないまま、運が良ければその場で殺され、運が悪ければ、捕らえられたのち、口にするのも憚られるほど残酷な方法で処刑されるだろう。教会は、聖堂区で行われる犯罪行為を決して許さない。進むもうが、留まろうが、待っているのは地獄——手詰まりだった。
誰かが階段を降りる足音がした。もはやこれまで。せめて最期を潔く迎えようと、目を閉じる。
「なんだ。もう諦めるのかい?」
聞き慣れた声がした。柔らかく、なめらかな、耳心地の良い男の声。
「君に投降を勧めるという名目で来たんだ。少しだけ時間があるから、話そうじゃないか」
目を開けると、地下室の戸口にオーガストが立っていた。表情は穏やかだが、スミレ色の瞳は、嫌悪でぎらついている。
「中途半端な倫理観で無駄に傷を負い、復讐の対象である女を殺して狼狽えるとは。しばらく君の様子を見させてもらったが、正直言って失望したよ。蛆の道で会ったときに、死なせておくべきだったかもしれないね」
オーガストが冷たく吐き捨てた。
「貴公が衛兵を?」
「ほかに誰が居るというんだい?」
せせら笑うようにオーガストが答えると、エリクはその胸元に剣を向けた。
「何故、裏切った?」
「裏切った? これは裏切りじゃあない。これは、君が立派な復讐者になる為の試練だ」
意味が解らず、黙ったままのエリクに、オーガストが語りだす。
「復讐すると決めた時点で、君は深淵に足を踏み入れた。悪事を企み、闇に染まりながら、同時に善くあろうなど、おこがましい」
オーガストから、人間らしさが消えた。底知れぬ闇が、スミレ色の瞳の奥に広がっている。
「君が手放せないでいるそのくだらない倫理観を棄てるんだ。このままだと、君の人生はここで終わり、なにも得られないまま、君という存在は無に帰すことになる……本当にそれでいいのかい?」
仮面の下の素顔を、その奥の魂を直接射抜くように、オーガストはエリクを見つめた。
「神父様、これ以上は待てません! 突入しますぞ!」
外の衛兵が大声でそう告げる。
「さぁ……どうする?」
決断の時が迫っていた。
「こ、殺さないでください……お願いですから!」
人質にされ、喉元に刃を当てられた若き神父が、震える声で命乞いをする——オーガストの迫真の演技のおかげで、宿屋を包囲していた衛兵たちは肝を冷やしていた。宿を脱出する作戦が上手くいき、エリクは内心胸を撫で下ろす。すべてを奪われたまま死ぬことを拒み、それまでしがみついていた善意を棄てたエリクは、遂に復讐者として生まれ変わったのだ。
「部下に下がるよう命じろ。近付けば神父を殺す」
低く、唸るようにそう告げると、指揮官らしい男が指示を出し、衛兵たちが数歩退いた。
「……幸運を」
エリクにだけ聞こえるよう、オーガストが唇を殆ど動かさずに囁く。エリクは小さく頷き、衛兵のひとり目掛けて、オーガストを突き飛ばした。
「あぁ! 痛い!」
さりげなく衛兵に体当たりをしながら、オーガストが叫ぶ。衛兵たちが怯んだ一瞬の隙をつき、エリクは素早い動きで間近に居たひとりを突き殺すと、全速力で駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます