Ⅷ
聖日の夜——真夜中の少し前、聖堂区の外れに建つ別荘で過ごすイヴリンは寝室の窓辺に立ち、眼下の庭、その先の門を見下ろした。門の両脇には槍を持った衛兵がふたり、まるで根が生えたように直立している。それ以外の人影は無い。
「嗚呼、オーガスト……」
甘い溜息とともに、待ち焦がれる相手の名が口をついて出る。
ひと月ほど前、未亡人となったイヴリンの前に、オーガストと名乗る若い神父は現れた。整った黒い髪を分けて流し、謎めいたスミレ色の瞳を持つハンサムなその神父は『創造主のしもべとして、伴侶を喪った方を慰めるために来た』と言って別荘に上がり込んだあと、しばらくは聖職者らしく振る舞っていたが、聖典の朗読に飽きたイヴリンが面白半分で誘惑するや、途端に豹変し、いやらしい言葉を囁きながらイヴリンを押し倒したのだ。理性の蕩けるような言葉の数々に、イヴリンはあっという間にされるがままになった。身体の隅々を知り尽くしたような、繊細な愛撫。獣のように獰猛で、それでいて優しい、永遠に続くかのようなまぐわい。喘ぎ、叫び、掻き抱き、貪る。絶え間ない快楽の波に飲まれ、イヴリンは身も心も、すっかりオーガストの虜となった。それからは聖日の夜が来る度、オーガストがイヴリンの寝室を訪れ、ふたりは朝まで愛し合う。これまで多くの愛人が居たが、その誰も、オーガストほどイヴリンを満足させることは無かった。からイヴリンは、他の男たちには目もくれず、まるで操を守る淑女のように、オーガストが部屋に来るのを待っているのだ。
オーガストを想うだけで、頬が紅潮するのがわかる。記憶の糸を手繰り寄せ、一週間前の交わりを思い出すと、全身が疼いた。嗚呼。一秒でも早く、オーガストが現れますように——と、天に祈る。
ふと、門に近付く人影が目についた。朧げにしか見えないが、フードを被っているように見える。胸が高鳴った。
熱く、長い夜が始まる——愛人の到着に胸躍らせ、イヴリンは身支度を始めた。
門に近付くと、ふたり居る衛兵の片方に呼び止められる。
「おい。こんな夜更けに何の用だ?」
衛兵の問いに、エリクはフードを目深く被ったまま、答えない。するともうひとりの衛兵が何かを察したように、わざとらしく咳払いをした。
「あー、神父様だ。奥方様に聖典の読み聞かせをする為、お越しくだすった」
大根役者が台詞を朗読するようにそう言うと、衛兵たちは連れ立って持ち場を空け、どこかへ消えていく。門の鍵は開いたままだ。この時刻に愛人が訪れるのは、もはや暗黙の了解なのだろう。継母の慎みのなさに、虫唾が走った。庭を駆け抜け、こちらもまた鍵のかかっていない玄関の扉を、そっと開く。とんとん拍子にことが運び、拍子抜けした。衛兵も、使用人の姿も無い。イヴリンの指示で人払いがされているのだろう。もっとも、未亡人となった今は、人目を憚る理由も無いはずだが。そんなことを考えるうちに、二階の寝室前にたどり着く。鍵穴にオーガストから受け取った鍵を挿し込むと、ぴったりと合った。鍵を回し、音を立てないよう、エリクはゆっくりと扉を開けた。
ナイトガウンを纏ったイヴリンは、エリクに背を向け、窓際で月明かりを浴びていた。歳は確か四十近い筈だが、その姿は未だ若々しく、全身から妖しい色香を漂わせている。
「待っていたわ。愛しいあなた」
窓の方を向いたまま、イヴリンが甘えた声で囁く。月光を受ける白い肌、金糸のような髪が、リアムにそっくりだ。
「もう我慢出来ないの……さぁ来て。早く私を抱い——」
ガウンを脱ぎ、一矢纏わぬ姿になったイヴリンは、振り返って絶句した。そこに立っていたのが求めてやまない愛人ではなく、恐ろしい鉄仮面を被った、黒衣の男だったからだ。
「誰っ⁉︎ 衛兵! 衛兵! 曲者よ!」
イヴリンの叫びが、がらんどうの屋敷に虚しくこだまする。
「——助けは来ない」
エリクが告げると、その声に覚えがあったので、イヴリンは目を丸くした。表情はみるみる険しくなり、瞳に嫌悪の色を帯びる。
「……生きてたのね」
エリクが黙っていると、イヴリンが顔を歪めた。。
「なによ、そのふざけた仮面は? あぁ……貯蔵庫を襲ったの、あなたでしょ? 息子が困ってたわ。よくもやってくれたわね」
物言わず、エリクは部屋を横切って剣を抜く。切先をイヴリンの喉元に向けると、それまで唾を吐かん勢いだった顔から、血の気が引いた。
「私を殺す気? 私が一体、あなたに何をしたというの?」
震え声で訊ねるイヴリンに、エリクはようやく口を開いた。
「貴様の罪は、あのろくでなしを産み落としたことだ」
低く答えるエリクを、イヴリンは嘲笑った。
「は! 当主の座を弟に奪われたから、その母親に刃を向けるの? 八つ当たりもいいところね」
「……黙れ」
剣先を喉に当てるが、イヴリンはかまわず捲し立てる。
「そんな風だから、父親からも疎まれるのよ。リアムが可愛がられていたのは、あの子があなたなんかより、よっぽどまともだから——」
鉄仮面の奥でエリクが歯軋りした。あまりの怒りに手元が震えたが、イヴリンはそれを見逃さなかった。
「手が震えてるじゃない。どうせあなたみたいな情けない男には、人を殺すなんて絶対に——」
突然、イヴリンが言葉を詰まらせる。表情が苦悶で歪み、やがて官能的な唇のあいだからゆっくりと鮮血が溢れ出た。エリクが喉を剣で貫いたのだ。
「死ね! この淫売がっ!」
怒りに身を任せ、刃を捻りながら、一気に引き抜く。喉が裂けて血が吹き出し、同時に身体が床に崩れ落ちた。イヴリンは傷口を押さえながらしばらくもがいていたが、やがて自らの血で溺れるように息絶えた。継母の命の灯火が消えるのを見届けると、エリクは刃に付いた血を拭い、剣を鞘に収めて出口へ向かう。去り際にもう一度、イヴリンの亡骸を見た。白い身体は血に染まり、喉から溢れる紅が、寝室の絨毯を汚している。
人を殺めるのは、はじめてだった。
『殺しは最初が一番辛い』
ふと、兵士たちが口にする決まり文句を思い出すが、復讐を遂げた満足感からか、不思議と気持ちは軽い——少なくとも、しばらくはそう感じていた。
無事に別荘の門を出たところで、前触れなく、エリクの全身が震え出す。命を奪った実感、その重みが、遅れてやってきたのだ。
震えは、夜が明けるまで止まらなかった。
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