「勘弁してくれよぉ」

 執事のバーナードから報告を受けたリアムは、思わず頭を抱えた。ランヴィッツ家の所有する貯蔵庫が、何者かによって焼かれたのだ。

「で、被害は?」

「貯蔵庫は全焼、ワイン樽もすべて破壊されたそうです」

 詳細を告げられ、思わず卒倒しそうになる。貯蔵庫のワインはどれも最高級品で、なかには教皇に献上される予定だったものもあった。それらがすべて、無に帰したのだ。この一件で被る痛手は、想像を絶する。

「せめて犯人は捕まえたんだろうな?」

「いえ。残念ながら」

 リアムの問いに、バーナードは首を横に振った。

「くそ。どこのどいつがこんなこと……」

「曲者は仮面を付けていたようですので、身元も判りません。武装していたようですが、何故か衛兵に危害は加えなかったようです。不幸中の幸いですな」

「はぁ……ひとりになりてえ。下がっていいぞ」

 乱暴に手を振り、リアムは老執事に部屋を出るよう告げる。「失礼致します」と一礼し、バーナードが扉に手を掛けたところで、リアムは指を鳴らした。

「いや待て。いつだったかうちに来た司祭殿をここに呼べ。急ぐよう言ってくれよ」

 あるじの意を汲み、バーナードは早足で執務室を後にした。

 部屋にひとり残されたリアムは、亡き父が職人に作らせたという樫の執務机に、苛立ちをぶつけた。拳に想像以上の痛みが走り、反射的に悪態を吐く。

 はじめのうちは良かった。普段は冷静な兄が襲い掛かってきたのは予想外だったが、無事に父から財産をすべて相続し、大した面倒もなく、金づるだった父は死んだ。自身に刃を向けた兄の首には賞金を掛けたが、誰も賞金の回収に現れないあたり、きっと兄は聖都を去ったか、人知れずのたれ死んだのだろう。邪魔にさえならないなら、どうでもよかった。教会の伝統にならって七日間は形だけ喪に服し、その後は有り余る金に物をいわせて乱痴気騒ぎ——聖都で一番の娼館に勤める女たちを屋敷に住まわせ、昼夜を問わず抱き、彼女らと猥雑な遊びに興じた。当主でいるのが楽しくなくなったのは、その後すぐだった。施設の管理や人事など、大事な業務を殆どひとりでこなしていた父グレゴリーの死により、ランヴィッツ家のワイン事業が大混乱に陥ったのだ。父が遺した手順書や、引き継ぎの書類、会計の資料などは手元にあったが、まともにそれらと向き合ったことのないリアムは、事態を収拾するどころか、頓珍漢な判断でかえって混乱を助長させてしまった。さらに困ったことに、リアムが当主の座を継いだことを聞きつけた者たち——賭博狂いの悪友や、悪どい詐欺師、リアムの子を孕んだと主張する腹ぼての娼婦や、投資を持ち掛ける事業家が、毎日のように屋敷の戸を叩くようになる。山積する問題の処理に追われて疲れ果てたリアムを、今回の一件は発狂寸前にまで追い詰めていた。

 

 バーナードが去ってからしばらくして、扉をノックする音がした。

「やっと来たか。入ってくれ」

 リアムがぶっきらぼうに言うと、扉が開き、エマニュエルが姿を現す。

「リアムさま。何か御用でしょうか?」

 その凛とした声には、他の聖職者たちによくみられる媚びた様子や、根っからの俗物であるリアムを蔑む気配が全く感じられない。他のどの聖職者とも違った、何処か浮世離れしている雰囲気の司祭をエリクは気に入り、また信頼していた。

「司祭さん、どうしてこう、色々上手くいかねえのかなあ」

 抱き付かん勢いで近付きながら、リアムが愚痴をこぼす。エマニュエルはそれをひらりと躱し、困ったように眉を寄せた。

「なにか、悩みごとでも?」

「そりゃもう、悩みばかりで夜も寝れねえよ」

「眠れないのは、毎晩節操もなく娼婦と過ごしているせいでは?」

「へっ。ちげえねえ」

 ちくりと刺すような司祭の言葉に、リアムは乾いた笑いを漏らした。

「当主になりゃ、全部思い通りになるって思ってたんだけどよ……いい加減に生きてきたのが、今になって自分に返ってきてる気がするんだよな。恐ろしいったらねえや」

 部屋の一角にあるバーカウンターにふらふらと近付きながら、リアムが呟く。盃にワインを注ごうと、瓶に手を伸ばしたところで、エマニュエルが手を重ねてそれを止めた。

「真っ直ぐ生きることに、遅すぎるということはありませんよ」

 リアムの手から瓶を取り上げ、エマニュエルが告げる。薄翠色の瞳に覗き込まれ、その奥に宿る光があまりに眩しいので、リアムは思わず顔を背けた。

「……どうすりゃあいいんだよ。分かんねえよ」

 ため息混じりにそう吐き捨てるリアムに、エマニュエルは優しく微笑む。

「あなたが今までのような利己的な生き方を改めるつもりなら、試しに誰かの為に動いてみてはいかがでしょう?」

「誰かの為に?」

「そうです。もしリアムさまの助けを必要とする人が現れたら、自身の利益にならずとも、力を貸すのです」

 まるで子供を諭すように、エマニュエルは柔らかい口調で、ゆっくりとそう告げた。リアムはしばらく唸りながら考えた後、「わかった」と言って顔を上げる。

「——なら、次に誰かが助けを求めてきたら、そいつを助けてやる! それでいいだろ?」

「えぇ。悪行が己に返ってくるように、善行もまた、己に返ってきます。あなたが道を正せるよう、わたしも祈ることにしますね」

 張り切るリアムにそう言い残し、エマニュエルは祓魔師の仕事があるといって立ち去る。

 残されたリアムの心は、ほんの少しだけ軽くなっていた。

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