Ⅳ
オーガストが立ち去ってすぐに、エリクは地上を目指して歩き出した。鼻先が視えないほどの闇だったが、怪しい神父が歩いた跡には林檎の甘い香りが残されていたので、それを頼りに地上へと出ることができた。指示通りに平民区へ行き、貧民街の『赤熊亭』の戸を叩く。合言葉を告げると、店主は青ざめ、一切の質問をせずに机と椅子、そして粗末な寝台だけが置かれた地下室にエリクを案内した。オーガストが現れたのは、それからひと月ほど経ってからだ。
「息災かい?」
気安く挨拶しながら、小さな麻袋を手にしたオーガストが地下室に足を踏み入れる。
その姿をはじめて明るい場所で見たエリクは、言葉を詰まらせた。神父が想像していたよりもずっと、穏やかな顔をしていたからだ。交わした言葉の内容や、出逢った場所の性質から、もっと悪辣とした面構えを思い描いていた。
「どうかしたかい? 僕が、思っていたよりも普通で驚いたかな?」
表情から心中を読み取ったのか、オーガストが図星を突く。エリクが顔を強張らせると、若き神父は悪戯っぽく笑ってみせた。
「そう身構えないでくれ。僕は君の友人なのだから」
手近な椅子を引き寄せて座り、オーガストはエリクの様子を訊ねた。
「ここでの暮らしはどうだい?」
「ベッドはノミだらけ、食事は不味いし、ずっと髭も剃れていないが……蛆の道に比べればここは楽園だ。礼を言う」
そう言って、エリクは深く頭を下げる。オーガストは小さく頷くと、急に神妙な面持ちになった。
「君の父君だが、あの一件の後すぐに亡くなったそうだね。お悔やみを……」
「心にも無いことを。気遣いは無用だ」
白々しい哀悼の言葉を、エリクが遮った。目の前の男が
「ほぉ。そうかい」と、オーガストの口の端が緩む。
「その様子だと、決心は揺らいでないようだね」
エリクは頷いた。リアムへの、ランヴィッツ家への憎悪は、この薄汚い部屋でひと月のあいだ熟成され、さらに濃くなっている。その証拠が、地下室の支柱に刻まれた無数の刀傷だ。憎き相手の顔を思い浮かべて突き刺し、叩き斬り、抉った痕——おかげで家宝のレイピアは曲がり、すっかり使いものにならなくなっていた。
「心変わりはない。私は覚悟を決めたのだ」
「結構。復讐の計画はあるのかい?」
「当然だ」エリクが即答する。
「標的はリアム、そしてその母——私の継母であるイヴリンだけだ。弟は言わずもがな、父上を誑かし、弟をこの世に産み落とした売女も生かしてはおけん……」
イヴリン・ランヴィッツは貴族階級の枢機卿の姪で、稀有な美貌の持ち主だが、教養や品位とは無縁の人物で、毎晩、派手なドレスで着飾っては、見せつけるように通りを闊歩し、道行く男たちに色目を使うような女だった。
「まずは彼奴らの財産に打撃を与え、弱らせてから、動向を窺うつもりだ」
「ほぉ。すぐには殺さず、じわじわと追い詰めるんだね? 実に良い。復讐はこうでなくては!」
オーガストが立ち上がり、子供のように手を叩く。
「では、君にこれをあげよう」
言いながら、持ってきた麻袋の中身を床にあける。ごとりと音を立てて転げ出たのは、黒い鉄製の仮面だった。
「これは?」
拾い上げ、まじまじと眺めてみる。仮面の表情は怒りに満ちて醜く、悪鬼のように恐ろしい。
「君の為に作らせたんだ。かつての家族に復讐するというなら、顔は隠した方が好都合だろうし、それでなくても君の顔は少し……
オーガストが鉄仮面とエリクの顔——汚れと、伸び放題の髭の奥にひそむ、柔和な顔とを見比べて言った。
「悲しいかな、反論はできないな」
苦笑し、エリクは鉄仮面を付けてみる。重く、息苦しいが、視界は充分確保されており、堅牢な造りも手伝ってか、付けただけで少し強くなった錯覚を覚えた。
「おぉ、恐ろしい。いいじゃあないか」
鉄仮面がエリクに合うことを確かめ、オーガストは愉快そうに笑うと、空になった麻袋を丁寧に畳んで、戸口へと向かう。
「それでは、幸運を祈るよ。僕は、君の復讐が滞りなく進むよう、動くとしよう」
そう言って部屋を出ようとするオーガストを、エリクが呼び止めた。
「オーガスト殿。貴公は何故、私を助ける? 誤魔化さずに教えて欲しい。どうしても知りたいのだ」
半ば懇願するように、エリクはオーガストに訊ねた。若き神父の正体については、人間ではないだろうというおおよその見当がついているが、この或いは人ならざる者が、どうしてこうも親切なのか、エリクは不気味を通り越して不思議でならなかった。
オーガストは、小さく溜息をついたあと、口を開く。
「僕にも弟が居てね。父は弟を溺愛し、弟は、兄である僕を差し置いて、なんでも望むままに手に入れた……僕が、大切にしていたものさえも」
オーガストのスミレ色の瞳が、輝きを失う。虚ろな瞳は、空間も、時間も超えた、何処か手の届かない場所を見ているようだった。
「君は僕と境遇がよく似ている。弟にすべてを奪われ、怒り、苦しむ君を、助けたくなって当然だろう?」
エリクを真っ直ぐ見つめ、静かにそう語るオーガストの瞳に、再び優しげな温もりが戻ってくる。そこに邪な思惑があるようには、エリクは到底思えなかった。
「……弟君は?」
エリクの問いに、オーガストの唇が歪む。
「生憎、元気にやっているよ。きっと今頃、仕事に精を出していることだろう。彼は優等生だから」
皮肉たっぷりの、棘のある言い方だった。
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