ひと月ほど前のある夜、ランヴィッツ邸は騒然となった。一族の長であるグレゴリー・ハーロルド・ランヴィッツが、病に倒れたのだ。すぐに聖堂区いちの医者が呼び寄せられたが、懸命な治療にもかかわらず、グレゴリーの容体は悪化。三週間が過ぎる頃には、殆ど口も利けなくなるまで弱ってしまった。死期を悟ったグレゴリーは、息子たちを屋敷に集め、教会が推薦する公証人立会いのもと、遺言を伝えることにしたのだった。

 

「悪い。遅くなった……まだ俺たちは呼ばれてないだろ?」

 指定された時刻よりも三十分遅れで屋敷に到着したリアムは、シャツのボタンをかけ直しながら、閉め切られた主寝室の扉の前で待つ兄エリクに訊ねた。

「また遅刻だぞ。父上はまだ我々を呼ばれてはいないから、まぁいいが——」

 エリクは弟を一瞥し、眉をひそめる。金色の長髪はひどく乱れ、新調したばかりのターコイズブルーの上着は皺だらけで、タイツにはところどころにワインの染みがつき、靴は泥にまみれていた。一族の者でなければ、屋敷に近づく事すら許されないような身なりだ。

「その格好で父上に会うつもりじゃないだろうな? まったく。今度はどこの娼館に居たんだ?」

 咎めるように訊ねるエリクに、リアムは下品な笑みを浮かべる。

「どこのでも無いさ。俺が名乗れば、大体の女とはからな」

「無責任な行動は慎め。お前は腐ってもランヴィッツ家の一員なんだぞ」

「そんな口うるさく言わなくてもいいだろよ。所詮、俺は次男坊……どうせ家を継ぐのは兄貴なんだからさ」

 そう言って、リアムはわざとらしく肩をすくめてみせた。

 家長グレゴリーのふたりの息子のうち、誇り高く勤勉なのは最初の妻との間に生まれたエリクの方で、リアムは無責任で奔放、興味はもっぱら酒と女で、家名に相応しい品格は持ち合わせていなかったが、後妻との子であるリアムに、グレゴリーはとかく甘かった。ランヴィッツ家の当主の座、そして一族の事業の責任者という立場は、自然とエリクの方に回っていくだろう——当人らを含め、屋敷の誰もが自然とそう考えていた。

 

 エリクがリアムを嗜めようと口を開いたところで、主寝室の重い扉が開き、その隙間から執事の老バーナードが顔を出した。

「ご主人様がおふたりにお会いになります……」

 バーナードは嗄れた声でそう告げ、小枝のような萎びた腕で、兄弟が中に入れるよう、主寝室の分厚い扉をさらに開いた。

「行くぞ。くれぐれも無礼の無いようにな……最期くらい、きちんとして姿を見せて差し上げろ」

「堅苦しいなぁ……さっさと終わらせようぜ」

 エリクは背筋をぴんと伸ばし、リアムは気怠そうに頭を掻きながら、それぞれ主寝室に足を踏み入れた。

 主寝室の窓には暗幕が引かれ、普段なら差し込む月明かりを完全に遮断している。部屋を飾る金銀の調度品にも黒い布で覆いがされていて、一切の光を拒絶するような意思が感じられた。部屋を微かに照らすのは、グレゴリーの横たわる寝台の側で頼りなく揺れる燭台の灯りだけだ。

「……親父、まだ生きてるんだよな? これじゃあ、もう葬式が始まってるみたいじゃねえか」

 リアムがエリクに耳打ちする。その言葉の不謹慎さに耐えきれず、エリクは弟の脇腹を肘で小突いた。

「エリクさま、リアムさま。ようこそお越し下さいました」

 突然発せられた凛とした男の声に、兄弟は驚いて小さく飛び上がった。声のした方をよく見ると、寝台の側に立つ人影に気が付く。

「バーナード、あの方は?」

 エリクが訊ねると、老執事が素早く側にやってきて囁いた。

「あのお方はエマニュエル様——教会直属の祓魔師様で、高位の司祭であるお方です。ご主人様の遺言の公証人として、この場に立ち会うこととなりました」

 エリクはバーナードに礼を述べ、寝台の方に進む。リアムも不服そうにしながら、兄の後に続いた。

 死期の近い父親の顔は、影に隠れて見えない。弱々しい息づかいだけが、微かに聞こえた。ふたりが揃ったのを確かめると、エマニュエルは咳払いをし、口上を述べ始める。

「創造主さまの御前で、わたし、エマニュエルを証人とし、これよりランヴィッツ家当主、グレゴリー・ハーロルド・ランヴィッツ公が遺言を残されます」

 エマニュエルが、細く白い手でグレゴリーの手を軽く握る。途端に、それまで死の淵に立っていたはずのグレゴリーに生気が戻った。

「ありがとう、司祭様……さて、我が長子エリクには、ランヴィッツ家の家宝であるレイピアを遺す」

 病床に伏す前となんら変わりない、威厳たっぷりの声でグレゴリーが宣言する。それを合図に、バーナードが予め用意してあったレイピアを持ち、恭しくエリクに差し出した。

「家宝の剣を……ありがとうございます、父上」

 黒く艶やかな鞘に収まる、柄に真っ赤なルビーがあしらわれた細身の剣——これを帯びる父の姿を子供の頃に初めて見てからずっと、自らそれを帯びることを夢見ていた。その夢が、敬愛する父の死をもって叶えられる——剣を受け取るエリクの胸が、言い知れぬ思いで満ちた。

「で、俺には何くれるんだ?」

 エリクが剣を帯びるのを待たず、リアムが早く終わらせてくれと言わんばかりに声を上げる。

 家長の座を継いだ暁には、ランヴィッツの名に相応しく振る舞えるよう、しっかりと教育しなくてはいけないな——弟の大人気無い様子に辟易しながら、エリクは襟を正した。しかし、次にグレゴリーの口から出た言葉で、エリクの世界は根底からひっくり返されることとなる。

「リアムには、それ以外の全ての財産、聖都におけるワイン事業の全権、そして……ランヴィッツ家当主の座を譲る——」


 頭を金槌で横殴りにされたような衝撃だった。

 こちらに向けられた父の顔も、隣で狂喜乱舞するリアムの姿も、まるでどこか別世界での出来事のように遠く感じる。

 

 これまで、父を喜ばせるため、真面目に生きてきたではないか。

 自らを律し、名家の名に相応しく振る舞ってきたではないか。

 ランヴィッツ家の富と名声の上に胡座をかかず、勤勉に働いたではないか。

 内なる叫びが、渦を巻く。渦はやがて嵐となり、エリクの心を引き裂いた。

 

 不公平だ——粉々になった心に、黒い感情が湧く。

 

 何故、自分ではないのだ。

 何故、リアムなのだ。

 何故、放蕩三昧のドラ息子である弟が、長子である自分の生得権を奪うのだ。

 

 許せない——許さない。

 

 黒い感情を薪に、怒りは憎悪の炎となって舞い上がる。

 知らぬうちに、エリクは家宝の剣を鞘から抜いていた。

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