こよなき悲しみ 第二話 生得権

かねむ

 人住まう大陸の中央、影響力の高い大国に囲まれながらも独立を保つ、文化と宗教の中心地——聖都。

『大陸の至宝』と称される聖なる都には、二つの区画が在る。

 ひとつは『聖堂区』——。

 セレス教会の最高指導者である教皇が座す至聖堂を中心に、鏡面の如く磨かれた大理石でできた数々の大聖堂や、聖騎士団の本部、貴族らの邸宅が立ち並ぶ聖都の心臓部であり、セレス教の信徒にとって目指すべき巡礼の終着点でもある。水面下で繰り広げられる貴族同士の権力争いや、聖職者らが内に秘める歪んだ欲望に気付きさえしなければ、聖堂区ほど治安が良く、洗練された美しい場所は他に無い。

 もうひとつは『平民区』——。

 聖堂区と大理石の壁で隔てられている平民区は、聖都の民の大部分が暮らす区域だ。木造の家屋がひしめき合い、丁寧に石畳の敷かれた通りは常に人でごった返している。幅広い層の民が暮らす平民区は活気があり、豊かで、しばしば理想の住処として諸外国民の憧憬の対象となるが、ほかの大都市の例に漏れず、暗い一面を持ち合わせている。その最たる例が『蛆の道』だ。この打ち棄てられた地下の下水道、汚物まみれのトンネルには、身元不明の死体が幾つも捨て置かれ、蛆に食い荒らされている。聖都において望まれない者たちは、腐肉と汚物のえづくような悪臭に紛れ、闇の中で命を繋いでいるのだ。

 

 エリクが蛆の道に身を隠してから、三日が経とうとしていた。空きっ腹が情けなく鳴き、きりきりと痛む。食料を詰めた鞄は、この場所に逃げ込んですぐ、闇に潜んでいた浮浪者の一団に奪われてしまった。身ぐるみを剥がれずに済んだのは、エリクが浮浪者のひとりをレイピアで刺したからだ。幸い、それ以来は誰とも遭遇していないが、三日三晩、悪臭に耐えながら飲まず食わずで過ごしたエリクは、すっかり弱りきっていた。

 エリクが壁に寄りかかり、己の不幸を呪っていると、トンネルの闇の先に何者かの気配を感じた。全身の肌が粟立つ。

 浮浪者たちが報復にやってきたか、それとも地上からの追っ手に居場所を突き止められたか——。

 エリクは座り込んだまま、レイピアを両手で握り、切先を闇に向ける。数日前まで羽のように軽かった剣が、萎えた手にはひどく重いものに感じられた。

 気配が近付いてくるのを感じながら、エリクはあることに気が付いた。物音が一切しないのだ。暗く湿ったトンネルでは、たとえ鼠の足音であってもよく響く。足音を立てずに移動できる者が居るとすれば、それは余程の手練れか、そもそも人間でないかのどちらかに違いない。

 気配が、目先の闇で止まった。エリクの呼吸が恐怖で荒くなる。息遣いが、トンネルに反響した。

「剣を下ろしてもらえるかな?」

 闇から、優しげな男の声がする。少し低めの、クリームのようになめらかなその声色から、敵意は感じられない。それでもエリクは、眼前の闇に溶け込む謎の男が、恐ろしくて仕方がなかった。

「何者だ? 何故、私がここに居るとわかった?」

「なにか勘違いをしているようだね」

 エリクの問いに、声は少し困ったように答える。

「君に用はない。僕はただ、個人的な用件でこの場所に来ただけだ」

「用件とはなんだ? 貴様、一体何者なのだ?」

 声が震えるのを精一杯抑えながら、エリクは再び尋ねた。

「言ったろう? 個人的な用なんだ。それと、こちらの素性を知りたいのなら、まずは自分から名乗るのが礼儀というものではないかい?」

「……名乗る名など無い」

「名前ぐらい、いいだろう? 減るものでもあるまいし」

「断る。貴様、さっきは私に用は無いと言ったではないか。さぁ、もう行け」

「そうはいかない」

「何故だ?」

 苛立つエリクの様子を面白がるように、声の主が小さく笑う。

「ふふ。興味が湧いてしまったんだよ」

 声の主はそう言ったきり、エリクの反応を待つように黙った。声の方へ剣を向けながら、エリクはだんまりを決め込むが、どれだけ待っても声の主が立ち去る気配はない。やがて、力を失った手から剣がこぼれる。レイピアは汚物の混ざった水溜まりに落ち、金属音がトンネルに響き渡った。エリクには、もはや剣を持ち上げるだけの体力も残されていない。ここまで弱ってしまえば、あとは死を待つのみ。エリクの口から乾いた笑いが出る。目の前の男に名を明かしたところで、運命は変わらないだろう——そう思い、エリクはついに観念して名乗った。

「エリクだ——エリク・グレゴリー・ランヴィッツ」

「……ほぉ」

 エリクが名を告げると、闇の中の声が好奇の色を帯びる。

「ランヴィッツ……ランヴィッツ家のことかい? 教会お抱えのワイナリーを所有している……」

 聖都に住んでいる者で、ランヴィッツの名を知らない者は殆ど居ない。八代続くワインの老舗、名高い酒造家であるランヴィッツ家は、聖堂区でも有数の裕福な一族だ。その名を口にするだけで多くの者は感嘆し、その名を持つ者に対して礼を尽くす。

 しかし、ここは蛆の道——高貴な名は、それを持つ者の寿命を縮める呪いでしかないのだ。

「君のような身分の男がこのような場所に落ち延びているとは。余程の訳がありそうだね」

 声が柔らかく、同情するように言う。エリクは自嘲げに鼻を鳴らしただけで、それに応えることはしなかった。

「さぁ……私は名乗った。あとは好きにしろ」

「好きにする? どういうことだい?」

「身ぐるみを剥ぐなり、殺すなりすればよかろう。家長である私の弟が、この首に賞金をかけているのだから」

 少し戸惑った様子の声に、エリクが投げやりに告げる。

「さぁ、やれ。生得権を弟に奪われたこの哀れな男に、慈悲の刃を振り下ろすがいい」

 そう吐き捨て、賞金の存在を知った声の主が、どうやって自身の命を終わらせるのだろうかと考えながら、エリクは目を閉じた。ひと思いに心臓を貫かれ、僅かな痛みを感じるだけで逝けるのだろうか。或いは嗜虐か不手際からか、じわじわと悶え苦しんで死んでいくのか——死への恐怖に、全身が震えた。

 突然、エリクは手のひらに、冷たく滑らかな感触を感じた。その手触りに覚えがある——林檎だ。

 声の主、闇の中でずっと潜んでいた男が置いたのだ。

「ひとまず、それを食べるといい」

「……毒か?」

 エリクの問いに、声の主は呆れたように答えた。

「まったく。君を殺すつもりは無い。そのつもりなら、機会はいくらでもあったろう? 君がまだ息をしていることが、僕に殺意が無いことの何よりの証ではないかい?」

 道理だった。林檎に鼻を近付けると、甘い香りがする。悪臭の充満する蛆の道で過ごしたエリクには、手の中の林檎が放つ香りが、まるで闇の中に現れた天国のように感じられた。我慢出来ずに齧り付くと、心地よい音とともに、口の中を爽やかな果汁が満たす。命、力、喜び——蛆の道に逃れてから忘れていた、あらゆる良きものが、エリクのうちに蘇った。

「……貴公、何者だ?」

 夢中で林檎を平らげたエリクが訊ねると、闇の中に蝋燭ほどの小さな火が灯り、神父服を着た男のシルエットが浮かび上がる。火は男の手元で小さく揺れ、その顔を僅かに照らしていた。顔立ちは殆ど判らなかったが、その口許が笑みを浮かべているのは、よくわかった。

「僕はオーガスト。君の新しい友人だ」

 オーガストが名を明かしながら、足元のエリクに顔を近付ける。先程よりもはっきりと、若き神父の顔が浮かび上がった。

「君の力になろう。さぁ、何があったか、話してくれるかい?」

 その優しげな顔、どこか妖しげな輝きを宿す、そのスミレ色の瞳が、エリクの目にはとても頼もしく、そして恐ろしく映った。

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