第四章

「あっまただ」

そう呟いて顔を顰める。ふんわり浮き上がって自分の寝ているのを、ため息をつきながら見下ろす。何歳くらいからだろう。夜中眠りにつくと、ある日から幽体離脱をするようになってしまった。そのせいでサンタの正体も知ってしまった…。その日もまた懲りずに幽体離脱をしていた。自分の寝顔なんて見飽きたので、外に飛び出す。この頃は夜中に散歩をすることにハマっていたのだ。屋根の上を歩いたり、フェンス外のゾンビを上から見下ろしたりした。そうしていくうちに、ポツポツと雨が降り始めた。勢いはすぐに激しくなり、遠くでピカッと稲妻が見えた。そのすぐ後にゴロゴロと地響きのような深い音が轟く。小さな僕は一瞬で泣きべそ顔になり、今すぐ家に戻りたかったが、そうしている間にも次々に光る雷に負け、明かりがともった近くの建物に逃げるように入り込んだ。ここは、どこだろう。建物に入れば外よりも守られている感じがしたし、音も半減される。真っ暗な部屋から出ると、廊下のような薄暗い場所に出た。遠くで点滅する切れかけの蛍光灯が、真っ暗な空に光って消える稲妻を想起させ、身震いした。歩いて行くうちにここが病院だと分かった。生まれつき健康体の僕は病院なんて全くの無縁で、ワクチンを打つために行ったことがあるくらいだ。緑色っぽい廊下を歩き回っていると一つの病室にあかりが見えた。のぞきの趣味はないけれど、ほわっと廊下に漏れた灯りに、まるで光に引き寄せられる虫みたいに歩み寄った。中を見ると、女の子が本を読んでいた。とてもか細くて、長い髪の毛をした女の子。どこか学校で見る子とは違って、大人びて見えた。

「だれ」

しばらくボッとみていると、不意にその子がこっちを向いた。驚いて逃げだしたいのに、メドゥーサに固められたように動けなくなってしまった。

「こっちきて」

僕に言っているとしか思えない。なんで声をかけられたのか、なんで驚かないのか、なんで僕が見えているのか、頭の中がぐちゃぐちゃになるのを感じながら、ゆっくり近づく。

「何してるの」

少し怒ったような声で言われたので、ごめんなさいと謝る。するとすぐに笑って、いいよと許してくれた。

「なんで僕が見えているの」

「え?」

「僕幽体離脱してて」

「幽霊なの」

彼女が僕を触ろうと右手を伸ばす。僕はじっとして待つ。

「ほんとだ。透けてる」

「幽霊じゃないけど幽霊みたいなもの」

「怖くない?」

彼女がそういうので、こっちのセリフだと思った。キョトンとした顔で何が起きても動じない。この子は僕よりずっと強いんだろう。

それが彼女との出会いだった。彼女は遅くまで起きていて、いつも本を読んでいた。僕が会いにいくと嬉しそうに手招きしてくれた。僕はだんだん慣れてきて、ドア以外のところから顔を出して彼女を驚かそうと試みたけれど、彼女はいつもよくきてくれたねと言って、本から顔を上げた。

「僕、猫を拾ったんだ」

「何色の猫?可愛い」

「黒だよ」

「名前は?」

「まだない」

「私、案を出していいかしら」

珍しく子供っぽく興味を示してくれたのが嬉しくて頷く。

「ノワール、フランス語で黒って意味」

「へぇ」

やっぱり物知りですごいと思った。僕は結局家に戻って、家族にその案を伝えて押し通した。黒猫はその名前に決まった。黒猫の名前が決まったと教えたら、彼女は本当に良かったの?と心配しながらも嬉しそうにしていた。僕には思いつかない名前を教えてくれて感謝している。

「そういえば、名前聞いてもいい?」

「そっちから教えて」

「優太だよ」

「幽体離脱のゆうた?すごい」

そんなつもり、ないんだけどな。僕は戸惑いながら、きき返す。

「うぅ、そっちは」

一呼吸おいて、

「時雨だよ」

彼女は御伽話を読むような、優しい声色でそうこたえてくれた。綺麗な響きを覚えている。彼女の声が耳に届いた瞬間を覚えている。一生忘れないようにしようと思ったことを覚えている。

「雨の日はきっと私を思い出してね。なんて」

彼女は冗談っぽく言って笑った。小さい僕には時雨の意味がわからなかったけれど、雨が降らなくても、毎日彼女の顔を思い出していた。

「僕大きくなったら時雨ちゃんの病気治す人になる」

「お医者さん?」

「うん」

「ゆうたならなれるよ」

他愛のない会話をした。雨でも会いに行った。朝になるまで話したこともある。だけど大きくなるにつれ、徐々に気まずさを感じていた。ある時から彼女の病気がひどくなり、喋るのも難しくなっていった。ドアも閉まっていて、僕は自分が場違いだと悟った。それからいかない日が続いた。幽体離脱できない日も重なってずっと会わなかった。でもやっぱり心配で、病院のそばをうろうろしている時に抜け道を見つけた。高い石垣の崩れた部分からよじ登り、病院の裏側から入り込んで、病室の窓によじ登る。中を覗くと彼女が酸素の機械をつけて眠っていた。

そのまま帰った。帰って少し泣いた。知ってる人が死ぬのが怖かった。でもそれは多分自分が悲しむのが嫌だからとか1人になるのが嫌だとか、結局自分のためなのかと思うと、嫌だなって思う。

数日経って、警報が鳴った。街のどこかのフェンスが壊れたようだ。小雨が降る。傘を持ったのはそのためではない。

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