第三章

「朝になりました」

彼女が日の出に気づき、目を細める。

「眩しいですね」

僕は伸びをしながら立ち上がり、朝日を身体に染み込ませる。朝だ朝だと身体を起こすためだ。しかしすぐに、幽体なので意味があるかわからないなと思った。

「あら、私ったらまだ元気」

「良かったです」

「きっときみと話しているからですね」

彼女はやっぱり強いんだと思った。昨日と何ら変わらない彼女とにっこり笑いあう。僕は、昨日の会話にずっと悩んで、悩んで。今日こそ一刻も早く体をみつけ出して、彼女のためにできることを探そうと、そう決めた。

「あっみてください」

探索を初めてすぐのこと。彼女が呼ぶので行ってみると、茂みの中に傘が落ちていた。

「気づきませんでした」

彼女が拾い上げ僕によく見せてくれた。畳まれた紺色の普通の傘に一部茶色っぽいなにかが付着している。比較的新しそうな傘だ。

「これってきみの傘ですか」

そう聞かれると分かっていたから悩んでいたのだが、分からない。これは僕の傘なのか。

「傘を持つゾンビはいないので、きっときみのですね」

なるほどと頷く。だとするとこの辺の茂みに僕がいるのだろうか。僕は茂みの中を必死になって探し回る。

「あの建物はなんなんですか」

「あれは病院ですね」

ふと向こうを見上げると近くに白っぽい建物が見えた。町の一部だと認識していたが、意識するのは初めてだ。

「行ってみてもいいですか」

「いいですよ」

あそこからならここが見渡せるかもしれないと思い提案したが、彼女の歩みが止まる。

「どうしました」

「私、ゾンビなのでフェンスから出られませんよ」

「え?」

「それにフェンスには電流が…」

言いかけて、彼女がハッとしたようにフェンスに触れる。びっくりして声が出た。しかし、彼女は何食わぬ顔で立っている。

「壊れたから流れてませんでしたね」

フェンスは一度壊れたらしい。確かにすぐ側に応急処置したみたいな繋ぎ目が施されていた。僕はほっとして、彼女の度胸に顔を顰める。彼女は気にせずフェンスによじ登っていた。僕もフェンスをすり抜けて、彼女をハラハラしながら見守る。無事に着地したのを見届けて、病院の石垣に近づく。入り口からは入れないよう、テープが張り巡らされていたので、石垣に沿って歩いて、入れそうな場所を探す。石垣は結構高さがあったが、崩れた部分を見つけた。彼女は少し戸惑いながら、ついてきてくれた。

「なんだか懐かしいです」

「秘密基地探検みたいですね」

童心に帰りながら侵入する。彼女はこれまたアクティブに石垣によじ登り、身軽に着地した。フェンスの時も然り、彼女はやっぱり強いようだ。侵入したすぐそばの一階の窓が、丁度割れていたのでそこから入り込む。中には誰もいないようだった。

「ねぇゆうた」

ふと彼女が後ろで呼びかける。

「はい」

僕は名前を呼ばれた犬みたいに振り返る。

「ゆうたは生きればいいんですよ」

彼女はいつになく真剣な顔をした後、すぐに崩して笑った。

「え?」

「ここはもうすぐフェンス外になっちゃうから、ゆうたはみんなと避難します」

「ゾンビちゃっ…」

その時また雨の音がした。割れた窓から雨が降り注ぐ。病院内で見る彼女はすごくすごく見覚えがあった。だけど思い出せない自分に苛立つ。

「もしかして、僕を知ってる?」

ゾンビちゃんは微笑んで答えなかった。

「さあ、みておいで」

僕が戻れば、彼女はどこかへ行ってしまうだろう。何故なら彼女はゾンビで僕は人間なのだから。そんなのは分かっているけれど、どこかでずっと死ぬのは嫌だと思っている自分が不愉快だ。このまま一緒にいれたらいいのに、こう思う自分が強ければ、僕はこのままの姿でずっと。何が幸せなのか分からなくなる。僕は静かに笑っている彼女を見て、考える。彼女の人間性が好きだった。笑った顔も好きだった。戻ったところで僕なんかが彼女をどうにか出来るだろうか。漠然と考えていた自分を思い出す。目標が遠いと理想を語りがちだが、実際に近づくと不安が押し寄せて。

彼女と病室を一つずつ覗いていく。ふと1人で階段を上がっていることに気づいた。彼女はそれを望んでいるのだと思ったが、これは都合のいい解釈だろうか。悶々とした気持ちを抱えたまま、そうしてついに見つけた。

「あっ」

とある病室のベッドの上に僕が寝かされている。急いで駆け寄ると、息はしているようだった。

「ゾンビちゃんあったよ」

そう叫んだが返事はなかった。僕は、僕の顔を見ながら少し考える。似たような中途半端な境遇にいたからこそ、彼女と僕は分かり合えていたのではないか。いやきっと分かり合えてなんかいないんだ。彼女は僕よりずっと強くてずっと知っていることが多かった。深呼吸して自分の上に重なる。戻って記憶を取り戻す。それが一番彼女に近づくための方法なんだ。

「…っ」

久しぶりの身体は痛みを伴いつつも、目を覚ますことができた。全身が痛い。しかしこれが僕が目覚めたという一番の証拠でもある。体をぎこちなく操って起き上がる。ここは病室…。意識がふわっとして目眩を感じる。今まで何をしていたか、少しずつ思い出す。

「そうだ」

病院には抗体ワクチンが保管されていると聞いたことがある。探せばきっと。ベッドから出て、ドアを開けようと手をかける。内側から鍵が閉まっていた。鍵を開けて、ドタドタと院内の廊下を走る。人がいる病院では絶対にできない。身体がぐっと重く感じる。なぜか巻いてあった頭の包帯の先をフワフワ揺らしながら、それでも急がなければ、と必死に走る。

「これ…うっ」

あっさりと見つけることができた。おおよその目星をつけて探していくと、ナースステーションの奥にAEDのように壁に設置してあった。これを使えば彼女を…。

両手で持って外に出る。まだそう遠くには行ってないはずだ。急ぐ。急ぐ。ミストみたいな細い雨が降り注ぎ、頭の傷がズキズキ疼く。加えて髪の毛やTシャツが体に張り付いて不愉快だ。

「ゾンビちゃんっ」

大きな声で叫んだ。返事はない。フェンスに近づく。

「ゾンビちゃん…」

涙が溢れて、雨と一緒に流れていく。

「ゾンビ…」

「ゾンビ!」

声がした。彼女の声だ。パッと顔を上げる。

「ゾンビちゃっ」

彼女が通り過ぎ、背後に立つ。一瞬混乱して振り返る。

「あっ」

彼女がゾンビを必死に押さえ込んでいる。僕は彼女が落とした傘を拾い上げ、ゾンビに振り翳した。

「行こう」

彼女の左手をしっかり引いて走った。走った。

「えへへっゆうたと走れるなんて」

「ありがとう。助けてくれて」

一通り彼女と走って、それでも疲労は感じなかった。彼女は楽しそうに笑っていて、その顔を振り返りながら、ゾンビがいないような安全な場所まで連れていく。そして手を握ったまま徐々に歩みを緩めた。

「これ」

息を整えながら、ワクチンを見せた。彼女はびっくりした顔をして、首を横に振った。

「私なんかに使わないで」

「自我があるうちじゃないと効果がないんだよ」

「でも」

「もう元に戻るのは嫌なの」

心なしか赤らんだ頬。涙を堪えているような、見たことのない切り詰めた表情をしている彼女。彼女の笑顔を奪ってしまった責任を感じ、胸がキリキリ痛む。僕は今にも消えてしまいそうな彼女を抱きしめた。目の前にワクチンがあるのに、使わないなんてゆっくりの自殺だ。それでもそのくらいに戻っても希望がないものなのかと思うと、なんて声をかければいいか分からなくなって、ただぎゅっとぎゅっと抱きしめた。

「やっと触れられた」

「もっと苦しいくらいぎゅうってしてください」

「うん」

彼女をこんなに近くに感じたのは初めてだ。彼女の息遣いを感じる。柔らかさを感じる。いつもずっとおしゃべりしていたのに、今日が初めてなんて変な感じだ。だんだん照れくさくなって、それでもそばに居たかった。

「思い出したのですか」

彼女が静かに問う。僕はそれにしっかり答える。

「時雨、会いたかった」

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