第二章

「…ここは」

ひどくぼんやりとした気持ちで目を開ける。曇りとも青空とも言い難いような空がじんわり広がっていく。

体を起こすとひょいと飛んでいってしまいそうなほどに軽い。

「あっ…」

この感じには覚えがあった。

「幽体離脱…」

直感的にそう確信し、寝ているであろう自分の体を振り返ろうとした時、ガサガサと茂みから音がした。驚いて身構え、音の方を睨みつける。

「にん…げん」

しかし現れたのは小柄な少女だった。一瞬の緊張が解け、眉間にできた皺を戻す。

「あなたは生きてる人間ですか」

少女が俯いて、自分の体についている葉っぱを忙しなく払いながら聞いてくる。生きていると自信を持って答えられない現状に気づき、躊躇する。

少女が改めてこっちを見た。目が合う。少女の顔の一部の皮膚は変色していて、瞳の色が失われている左目が、きゅっと一瞬小さくなった。

「あなたは僕が見えるのですか」

質問には答えず、また質問で返す。幽体離脱している人間が見えるなんて普通でないからだ。

「あなたこそ私が怖くないんですか」

少女が一、二歩歩いてこちらに近づく。

「え?」

僕は少し後退りする。

「私、ゾンビです」

少女がくるりと回ってみせた。瞬間ワンピースの裾が舞う。丁度見えてしまった太もも辺りも変色しているようだ。

「結構しっかり自我があるゾンビ」

「ゾンビなりかけ人間」

付け足すように少女が言う。なんだそれと思う。

「不思議です」

「私もです」

ゾンビになりかけと言うが、少女の雰囲気からしてそんな風には一切見えない。外見こそ症状が出ているものの、少女自身は逆に生き生きして見える。こんなゾンビは見たことがない。なんだか拍子抜けするような緊張感のなさに、現状を忘れてしまう。

「あなたこそ何をしているんですか」

「僕は幽体離脱を」

「何言ってるんですか」

「…わかりません」

そう聞かれて思い出し、チラッと後ろを見ると

「えっ」

戸惑い、小さく呟く。あるはずのものがない。そんなはずない。これは明らかに幽体になっている。僕は事実を受け止め難く、少女に完全に背を向け、何もいない地面に手をつき本来あったはずの僕の面影を手繰り寄せる。それから、試しに飛びあがろうと思ったけれど、後ろにいる少女の気配を感じやめた。

「あのっ僕に触れてみてくれますか」

「いきなりなんですか」

「握手」

「いいでしょう」

少女の細い手が、こっちに伸びる。僕も少女に手を伸ばす。

「あっ」

少女の右手と僕の左手がすれ違う。やっぱりだ。疑問が確信に変わり、口角が上がる。

「本当に幽体なんですね」

しかし、その一言で我に帰った。喜んでいる場合では決してない。むしろ事態は深刻だということに。

「どうしよう」

「可哀想ですね」

「はい」

他人事みたいに少女が言って、跳ねるように歩き回る。確かに他人事だろうが、もう少し心配して欲しい。そんな少女を尻目にとりあえず、自分の体を見つけなければ、と立ち上がる。

「ここはどこですか」

「ここはフェンス外というゾンビが蔓延る恐ろしい場所です」

「へえ」

辺りを見渡すと高いフェンスが囲っており、湿っているようにテカった茶色の地面のいろんな場所に浅い水たまりが確認できる。おまけに少女が出てきたような茂みが点々と地面を覆っていて、その葉っぱからも水滴が滴っていた。ずっと雨が降っていたのだろう。フェンスの外、いや中と言うべきか、とにかくフェンス外の外には普通の町が広がっていそうだ。

「まあ、幽体のきみには関係ないですね」

つまらなそうに残念そうに少女がいうものだから、僕は苦笑した。

「これからどうするんですか」

「体を探します」

「私も手伝ってあげましょうか」

「いいんですか」

「もちろん」

少女は嬉しい提案をしてくれた。1人より2人の方が早く見つかるに違いない。それにここが彼女の言う恐ろしいフェンス外ならば、近くにあるであろう僕の体はゾンビに蝕まれてしまっているかもしれない。そう思うと尚更早く見つけたかった。

「お名前は」

「いいません」

「えっと」

「個人情報ですので」

さっきので少なからず仲良くしてくれるのだと思って調子に乗ってしまった。そう言われてしまえばおしまいだと僕は少し俯いた。

「当てっこしましょう」

「当てっこ?」

「お互いの個人情報を当てっこするゲーム!」

彼女が言い出したが、随分物騒なネーミングだ。個人情報をノーヒントで当てるなんて無理ではないかと思いつつ、彼女の勢いに押され曖昧に頷く。

「私から、あなたのお名前はゆうた!」

そしてそのままの勢いで彼女が挙手して言った。

どうしてなのか大体想像がつくが一応理由を聞いてみる。

「なぜですか」

「幽体離脱のゆうたです」

「だと思いました」

全く単純だと思った。僕は様子を伺う彼女に、本当の名前を答えようとやや口角を上げたまま口を開く。僕の名前は…。あれ?思い出そうと考え込む。自分の名前なんて普通、記憶のすぐ手前にあって、無意識に口に出せるものだと思っていたのに…。不安になって、そのほかの個人情報を思い出そうとしてみたが、さっぱり思い出せない。身体も記憶もないなんて、まるで本当に存在していないみたいだ。頭がぐらぐらして、さっきまでの夢心地から一気に現実を感じる。

「どうしました。正解ですか」

その声でまた現実に気づく。口を半開きにしたままの僕を、少女が微笑みながら覗き込んできた。少女の瞳には、僕はうつっていないみたいだ。

「気に入りました」

動揺を抑えながら、乾いた唇を動かす。余裕ぶってしまうのは、自分をもっと不安にさせないためだろう。

「それはどうも」

「私、名付けには自信があるんです」

彼女はにっこり笑って言った。

「へえ」

「昔飼っていた黒猫に名前をつけたのも私なんですよ」

「どんな」

「ノワール、フランス語で黒って意味です」

彼女は自信満々に言った。一貫して単純だなぁと少し笑ってしまった。でも黒猫にくろと日本語で付けなかったのは、彼女なりの工夫なのだと思う。

「じゃああなたは…」

僕はもう一度ゆっくり少女を見た。あちらこちらに汚れを携えた白のワンピース。毛先がウェーブした腰より少し上にある髪の毛は太陽光で茶色っぽく見える。肌は血管を透かして青白く、痩せていて今まで一度も外に出たことがないみたいだ。しかし、変色している部分は、肉が腐ったみたいで、痛々しい。それに加え、ところどころ怪我もしているようだ。顔は僕からみて右側、そう彼女からは左側が大きく変色していて、灰色の瞳が揺れていた。片方の瞳は、これもまた日差しのせいかもしれないが、茶色っぽく見えた。白いワンピースがよく似合う、どこか物憂げな雨の似合う女の子だ。

「ゾンビちゃん…」

「まんまですね」

「ごめんなさい」

「いいですよ。気に入りました」

くすくす笑って、認めてくれた。本人は自分がゾンビになることが嫌ではないらしい。僕は彼女が怒りださなくて安心したが、自分のネーミングも人のことは言えないなとさっきまでの態度を反省した。

それからゆっくり歩き出す。僕は彼女が不思議で仕方がなかった。どうしてもうすぐゾンビになってしまうかもしれないのに、笑っていられるんだろう。小さな石ころが転がる地面をざっざっとスリッパで踏み分け歩く彼女を見る。僕は怖くてたまらない。自分を失うのが、怖くてたまらない。

「あのなんでゾンビなのに自我があるんですか」

「私、強いので」

堪らず聞いてみたら、こう返ってきた。どうにもそうは見えないけれど、見えないから強いのかもしれない。

歩いているとゾンビと何度かすれ違う。みんな彼女と違って自我が全くなく、崩れた皮膚をぶら下げて、目的もなく彷徨っているようだ。最初は驚いていたが、ゾンビは僕に気づいていないので気にしないことにした。

「ゾンビになるの、怖くないですか」

「怖くないですよ。痛いのは嫌だけど慣れてます」

「どうしてですか」

そう聞くと、彼女が一瞬足を止めるので、僕もつられて立ち止まる。そうすると彼女はまた歩き出した。

「私、元々歩くこともできないくらい病弱だったんです」

「だけどゾンビになってほら」

「こーんなに1人で歩けちゃいます」

彼女は僕よりずっと前を歩いて嬉しそうに両手を広げる。誇らしげに、心から楽しそうに。僕は、彼女に追いつくように急いだ。

「あっずるいですよ。地に足がついてません」

「幽体なのでズルできちゃいました」

「卑怯ですね」

僕は彼女の隣を歩く。歩きたくて歩く。彼女は噛み締めるように一歩一歩歩く。僕は今までこんなに大事に一歩を踏み出したことがあるだろうか。華奢な彼女の一歩は他の人より小さいようだけど、誰よりも気持ちのいい一歩だ。

「僕は、死ぬのが怖いです」

「死んでるみたいなのにですか」

「まだ死んでないです」

「ごめんなさい」

なんだかおかしくなって笑う。死んでるみたいな僕は生に執着しているのに、死にかけの彼女は楽しそうに今を生きてる。

「どうして怖いですか」

彼女が静かに聞いた。

「どうしてもこうしてもやりたい事があるんです」

「そんな気がするんです」

僕は彼女より大きい声で答えた。

「夢ですか」

彼女はやっぱり静かに聞いた。

「はい」

僕はなぜだか自信を持って返事をした。

「もしかしてお医者さんとか」

「…」

「なんてね」

「そうかもしれません」

そう答えると、彼女は驚いた顔をして、

「ゆうたならなれますよ」

と一言応援してくれた。彼女がなぜそう言ったのかも、自分がなぜそう答えたのかもよく分からないが、これでこの会話は良かったんだと満足する。

日がゆっくり落ちていく。さっきまで青空だったのに、いつの間にやら赤色みたいな暖色の光が彼女を照らしていた。たくさん地面にある水たまり一つ一つに光が反射して、とても綺麗だと思った。こんな夕焼けを見るのは何回目なのだろう。これから何回見れるだろう。どんなことがあろうとも、こんな奇妙な状況下で見たこの一回の夕焼けは、一生忘れないだろう。

「夕焼け、いいですね」

「はい」

「吸い込みたいです」

「はぁ」

「お腹にいっぱい貯めるんです」

夕焼けを吸い込むなんて考えもしないことだ。少しだけ意識して大きく呼吸をしてしまった自分をちょっと愛おしく感じた。

「ゆうたは夕焼けをどうしたいですか」

「僕は普通に、あそこら辺のグラデーションを絵の具にしたいです」

「いい考えです」

しばらく夕焼けを眺めていた。だけど思い返すと僕は彼女を眺めていた方が多かったかもしれない。

―――

「夜になっちゃいました」

「何も見えないですね」

これでは探しようがないので中断だ。辺りは暗く、月明かりすら雲に遮られて、僕たちはお互いの顔も見えないままどうしたものかと考えた後、とりあえず隅っこにあった茂みと茂みの間に入り、休憩することにした。何かの虫の声がする。彼女が座ったので僕もつられて座り込むと草の背が結構大きくて、少しだけ怖かった。

「なんだか申し訳ないです」

「いいんですよ、私はあなたに生きていてほしいですから」

「ありがとう…」

急な優しい言葉にどきりとした。やっぱり彼女も生きたいのだろうか。いや少なくとも僕はそう思う。彼女に後ろめたさを感じて、黙り込む。素直に言葉を受け取ったフリをして。

「君は一体こんなところで何をしていたんでしょうね」

「わからないです」

「私に会いにきたのかな」

冗談ぽく言って、クスッと笑っている顔が想像できる。こんなからかい方をされたら困ってしまう。

「でも、会えて良かったです」

「それは良かったです」

「助けられてばかりで申し訳ないのですが」

「気にしないでください、私も楽しいですから」

真っ暗闇に時々ゾンビの唸り声が響く。とても非日常だが日常みたいに僕たちは会話を続ける。それはとても楽しいことで、気分を落ち着かせるために重要なことだった。

「ゆうたは眠りますか」

「僕は幽体なので眠れませんね」

「へぇ便利」

「そうかな」

「ゾンビちゃんは眠らないのですか」

「私もゾンビなので」

「ゾンビも寝ないのか」

長い夜が始まりそうだ。明日になっても彼女と会話ができるだろうか。いつまでも彼女はこのままな気がした。それがいいのか悪いのか、きっといいことなんだろう。そう納得しようと思ったが、歩けるけれどいつゾンビになるかわからない不安をずっと抱え続けると思うと、やっぱり少し悪いことかもしれない。

「ゆうた、私死ぬとかどうでもいいの」

「なのにこんな生に執着しているみたいな中途半端」

「おかしいですね」

聞こえてなくていいみたいに、小さな掠れ声で呟くものだから、返事をするべきか迷ってしまう。

「黙ってていいんですよ」

そんな心を見透かしたように彼女が優しい声で言う。確かに彼女はみんなに見えないものがよく見えるらしい。僕はそんなのは断らないといけないと分かっていつつ、なんて言えば良いかわからない。わからないことは言わない方がいい。

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