三章十四話 ぼくらが生きるのは
体温の低下を感じる。雨が降ると分かっていたならもう少し暖かい格好をしたのにと、場違いな感想が浮かんだ。
壁に背を預けてなんとか立っている閑流、離されて拘束された白藤、抑える慎之介――そして、いつになく真剣な表情の琳愛乃。
「おシズ、何してんの? ここで」
「……関係ないよ。りあのちゃんには」
「まだそーいうこと言うんだ」
まさか休日に街中、それも人通りから外れたところで彼女に遭遇するとは思ってもみなかった。こんな場面を目撃されては、もうどのように取り繕うのも厳しいだろう。
それでも隠すことしかできない。古い友人が忘れられなくて探し続けている、と打ち明けることはできなかった。
「じゃ、いーよ。こいつに聞くから」
こいつ、と言って琳愛乃は口元を引き結んだまま白藤の方を見た。数秒、険しい表情をしてから「あ!」と声を上げる。
「お前、なんかアレだ……クラスにいた! ……白藤!」
「……だったらなんだって言うんだ、横山さん」
「ここでおシズと何してたか教えて? てか、教えろ」
圧が半端ではない。口調を優しくするほど逆に怖さが増している。
白藤は気圧されて言い淀むが、腕を拘束されたままなので観念したように話し始めた。
「……彼方は、中学まで一緒だった奴のことが忘れられないんだってさ。だからおれが、そいつを見掛けたところに案内してたんだよ」
「中学、ねー……何回くらい二人で出掛けたの? 今日が初めてじゃないよね?」
「べ、別に何回だって良いだ――」
「よくねーよカス。さっさと答えろ」
琳愛乃は元々、言葉遣いがそこまで穏やかな方ではない。気が立って荒々しい口調になることはよくあるし、それは閑流も知っている。けれどこの日この時の彼女は――今までにないほどの威圧感と怒りをもって、一切の外面を考慮せず敵意を剥き出しにしていた。
「最近おシズが付き合い悪いしやたら隠し事するし、何かと思ってたけど……お前が変なこと吹き込んだからだろ。言えよ、こいつをどこに何回連れ回したのか」
「し、しらねーよ! 付き合い悪いとかなんとか、そんなのお前らの問題じゃないのかよ! なんでもかんでも立場の弱そうなやつのせいにしてんじゃねえ!」
「……あ? 何の話?」
部外者の乱入によって収まりを見せていた白藤の怒りが、何かをトリガーに再び膨らみ始める。雨音よりも高らかに、時折裏返りながら、それでも濁流の如き感情をぶちまけんとする。
「横山、おれは一年の頃、お前に机を占領されて休み時間も気を遣わなくちゃいけなかったんだぞ! お前がおれのこと、おれたちのことを見下してるのは知ってんだよ……!」
「……はあ」
「おれは覚えてる、お前らが忘れてても、適当に流しても……笑い話にしても! 人のことを空気みたいに、ないものとして扱って……都合のいい時だけ玩具にしてんのを知ってるんだよ! だから腹が立つんだ! お前みたいな自分のことしか考えてないやつが彼方の隣にいるんじゃねえよ!」
「……」
いくら聞いても理解まで及ばない怒りが、とめどなく溢れている。最早今話すべきことですらないのに、全く関係もないのに――歯止めの効かない感情が白藤から漏れ出て、言葉の刃と化して琳愛乃に刺さり続けていた。
「横山だけじゃねえ、その周りの奴らもだ! 斎藤も五十嵐も、細谷も江田も――どいつもこいつも上り調子でつるんでるやつらが、自分より下だと思う人間を見下してる! それが正しいっていうみたいに、当たり前の空気みたいに……!」
「……随分と、名前が出てくるね」
「当たり前だろ、お前らからすれば一瞬の出来事でもな……痛みを受けた側は全部覚えてんだよ! おれらだって同じ教室使ってる一員でもあるのに、おれらだって……みんなみたいに大声出したり笑ったりする権利はあるのに!」
ふいに、白藤の瞳から涙が零れ落ちる。彼の言葉の数々は知りたくもない現実の裏側を暴かれるようで、鼓膜を揺らすだけで気分がどんどん沈んでいく。
思わず耳を塞ぎたくなる、そんな不協和音じみた音だ。
「だから、おれは……お前らとは違って! そんな差別なんかしない彼方は違うと思って! ずっと見守ってきて……! 困ってることがあったら力になりたいって……そう思っ、て……っ!」
「……で、その……中学の頃のヤツ? を見掛けたから教えてあげようって?」
「ああ、そうだよ……! おれの何が間違ってる!? 見掛けたのは本当なんだよ、ずっとあの日から憧れてた奴と話すチャンスができて……それで少し魔が差しただけ――」
「魔が差した?」
できる限り感情を押し殺した琳愛乃の低い声が、灰色の建物の間を突き抜ける。
「今なんつった? 魔が差したってどーいうこと?」
「……い、いや、言い間違え」
「……白藤。もっかい聞くね。そーやって人探しするの、これで何回目?」
鎖につながれたみたいにもがいていた白藤の口が、傍目からでも分かるくらい震えていた。琳愛乃は冷ややかな視線を送ったまま彼を捉えて離さない。
「みたらし」
「あっ、はい。なんですか先輩」
「そいつ離してあげて」
沈黙を決め込んでいた慎之介に、彼女はややぶっきらぼうに言葉を投げる。慎之介が聞き返すまでもなく拘束を解いて、解放された白藤が痛む腕を抑えようとして――
――琳愛乃は盛大に、全力で、豪快に。白藤の顔面に拳を叩きこんだ。
「ぶ――っ!?」
あまりにも豪速に飛んできた攻撃に反応できず、彼は悲鳴にすらならない声を漏らして後方へぶっ飛ぶ。すぐ後ろの壁に激突した。背中を強かに打ち付けたことで肺から空気が放出され、抵抗する術もなくその場にへたり込んだ。
鼻頭を真っ赤にする白藤を睨みつける琳愛乃は、追撃と言わんばかりに荒々しい絶叫を投げ飛ばす。
「――っるっっっっっせーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんだよ、ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっか!!!!!!!!」
聞いたこともないくらい、大きな音だった。
琳愛乃の殴ったほうの拳も真っ赤になっているが、そんなことはお構いなしに怒髪冠を衝く勢いで続ける。
「あんたがどーやって生きてて! 何されて! 何が嫌かとか何を覚えてるとか! そんなモンしらねーんだよ、バカか!! 言葉にすらしてねーのに分かるわけねーだろ! そんなこと言ってウジウジウジウジしてっから、周りから舐められてんだろーが!」
「……っ、て、ぇ……」
「そりゃ痛いだろ当たり前だよ! でもな、嘘つかれた時の方がもっと痛いんだよ、知ってるか!? 信じてた人に嘘つかれたときが、人間一番傷つくんだ! だからおシズはこんな――こんな、悲しい顔してんだろ!? お前が! お前が嘘ついたから! 違うか!?」
「――!」
視線はそのままに自身の方を指差され、閑流はハッとする。今自分がどんな顔をしているかなんて考えてもみなかった――琳愛乃は最初から、ある程度状況を把握していたのだ。
「だいたい『席を占領された』っていつの話してんの!? あたしは覚えてるよ、あんたがいなかったから二回だけ間借りさせてもらった! 帰ってきたときはすぐに退いたし謝りもした! なのにあんたは目も合わせずに下向いて、なんか言って去ってったんだろーが! それを青春丸々潰されたみたいに言って……被害妄想も大概にしろよ……!」
「……は、え、いや……」
「覚えてないのはどっちだよ。他の奴らが何したか知らないし、もしかしたら本当にあんたを傷つけたのかもしれないけどさあ……! ちゃんと確認したのかよ! 目ぇ見て話して、その上で全部覚えてるって言えんのかよ!」
反撃、のような、勢いが全ての反論。
閑流には何もわからない。琳愛乃のことも白藤のことも、何も。自分がどれだけ狭い世界で生きているのかを彼らの言葉一つ一つが教えてくれていた。
それが痛くて、苦しくて。今すぐ逃げ出してしまいたくて。
「……あんたとおシズの間に何があったのかは知らないし、あんたがどこまで嘘ついたのかも知らないけど……。人のせいにする前に、一回頭冷やせよ……!」
――すごいなと、呑気にそんな感想が浮かんできた。
一方的に頼みごとをされて今度は隠しごとをされて、それでもめげずにここまでやってきて――何の意味があるのかもわからない口論に身を投じて尚、冷静さを失っていない。
彼女は強い。閑流が隣に居る必要もないくらい。一年前のあの時、助ける必要なんてなかったんじゃないかと思うくらい、強い。
「……おシズ。あたしはまだよくわかってないけど……イブちゃんに『待って』って言ったのもあたしに頼んできたのも、はぐらかしたのも。全部全部、その友達探しのことなの?」
「……ぁ、……う、ん」
矛先が変わる。ゆっくり体をこちらに向けてくる琳愛乃は、怒りと雨で乱れて――溢れそうな涙を必死に堪えていた。
壁が冷たい。言葉が出てこない。のどが痛い。足が震える。それでも今回ばかりは話を逸らすわけにはいかないと、どうにか声を振り絞る。
「……桔花が。……桔花、っていう友達が……いて。喧嘩、しちゃって……わたし、どうしても……謝りたかった。だから見つけたくて、それで」
「なんであたしに言わないの」
「……申し訳、なくて」
「なにが」
まるで尋問のようだ。何を言っても即座に切り返されるような威圧感。寒さと恐怖と後悔で唇まで震え始めた。
何が申し訳ないか――決まっている。
「りあのちゃんも、はなちゃんも、あやねちゃんも……さくらちゃんも、みんな……わたしと仲良くしてくれてるのに。わたしは、みんなのこと……」
――言っていいのだろうか。
本当に、その先を口にしていいのだろうか。
これを言えば、もう後にはひけなくなる。桔花が急に離れていったあの時と違って、口にしてはならないという確信があった。
それでもここまでの事態にしてしまったのは自分だ。蒔いた種の責任はとらなければならない。
「みんな、わたしにとって……いなくなった桔花の代わりだった、から」
――嗚呼。
言ってしまった。ついに。
琳愛乃と打ち解けたあの日からずっと胸の中を這いずり回っていた感覚、言葉、意識。口にしてしまえば簡単に伝わるそれを、閑流はついに――大事な友人に告げてしまった。
「……そいつ、そんなに大事だったんだ。きっか、ってやつ」
「――」
琳愛乃の顔が見れない。涙はもう零れているのだろうか。俯いた視界には青空をイメージしたネイルが映っている。琳愛乃がやってくれたものだった。
ここにきて、閑流の頭は驚くくらいクリアになっていた。それは『再び一人になる』という確信がもたらしてくれた、どうしようもない清涼感だ。
怒号を飛ばすなら飛ばしてほしい。
殴ってくれてもいい。口にした言葉には、そのくらいの覚悟と重みがある。
「おシズ」
短く呼ばれて、肩が跳ね上がる。顔を上げる。
琳愛乃は今にも泣き出しそうな子どもみたいな顔をして、眼前に立っていた。
「知ってたよ」
「……え」
「知ってた。いっつもどっか、遠いとこ見てんの。遅刻しても追試になってもボケても笑っても肉まん食べても……おシズの心がどっか違うとこ気にしてんのは、知ってたよ」
鼻声混じりの音が雨に重なって溶けてゆく。琳愛乃は閑流の手を取った。紫と赤のネイルが自身の指に絡んでくる。体温はお互い冷たすぎてよくわからない。
「でも――それでも話してほしかった。悩んでること、ちゃんと。じゃなきゃなんで友達になったかわかんないじゃん。りあのはおシズに、心の底から救われたのに」
「……ご、めん」
「分かってる。りあのたちがダメってことじゃないんでしょ。おシズが自分で考えて、敢えて言わないようにしてたんだよね」
先ほどまでの怒りはどこへやら、彼女の声は慈愛に満ちたものになっている。優しく全てを包み込むようで、それでいて真っ直ぐだ。
「だけどさ、おシズ。それでも言いたいことがある」
息を大きく吸い込む。声が届くかどうかの問題ではない。
ありったけの感情を込めて、横山琳愛乃は魂からの叫びを吐き出した。
「――おシズが生きてんのは、今だろーが!!」
「……いま……」
「そうだよ、今!」
ガツンと、後頭部をぶん殴られたような衝撃が走った。
深紅の瞳が揺れている。頬に伝う涙が雨に誤魔化されていく。
閑流の青い瞳からも、気付けば涙が溢れていた。
「昔の友達とか、その代わりとか! そんなこと関係ないんだよ! 今を生きてて、おシズとあたしは今友達なんだよ! だったらもうそれだけでいいじゃん、代わりにしないとダメなの!?」
「で、でも、わたしはそうとしか、思えなくて」
「だったらそれでもいいよ、代わりでもなんでも! けど友達って事実は変わんないじゃん……その程度で友達やめるほど適当に考えてない! あたしはあの時、あんたに助けられて……なんでもしてあげたいって本気で思ったから、今日まで友達やってきてんだよ!」
“……お、おシズって結構アレ? こーいうのが好きなオタク的な”
“ぶい。何を隠そう、中学では地元の大会で予選落ちの経歴持ち”
“経歴としてダメすぎでしょ、それ”
――わたしの言葉にりあのちゃんはすごく呆れていた。
――よく考えてみれば、桔花が勧めてきて一緒にハマったゲームのことを喋っても、りあのちゃんみたいなキラキラした女の子には伝わるはずもなかった。
「……、……!」
その続きが、今になって思い起こされる。鮮明に。
“……こーいうとこ来るなら、事前に言ってね。シュミ合わないだけでドン引きするヒトって結構いるからさ。――ま、りあのはおシズが好きなものなら、なんでもいいけどね♡”
「……そ……っ、か」
あの時琳愛乃は呆れこそしたが、閑流の趣味を否定しなかった。
桔花と築いてきた「好き」の一つ。それを真っ向から受け止めてくれたのだ。
それがどうにもたまらなく、うれしかったのに。
どうして今の今まで忘れていたのだろう。
「……今、生きてんのかー……」
「そーだよ。おシズはちゃんと、今ここにいるんだよ」
桔花のことばかり考えて、考えて、考えていたから、大事なことを沢山忘れていた。
入学式の日に泣いていた琳愛乃に声を掛けたのも、決して「桔花の代わりになりそうだから」ではない。もっと純粋に助けたいと思ったから、それだけだった。
桔花が去ってしまったときの自分と琳愛乃が重なって――声を掛けずにはいられなかったのだ。
「ばか、だなー……わたし。頭打ったせいかな」
「ぇ、頭?」
「……ううん、気にしないで」
殴られてから微動だにしない白藤を見る。鼻血を出しながらもこちらに目を向けたままの彼は、自分の中にいた感情という名の怪物を飼いならし切れずに呆然としていた。
「ごめんね。しらふじ。……忘れてた。約束したのに」
「っ……! そんなの、今更言われても……」
「そーだよね。ほんとに……今更」
彼との会話は、閑流にとってなんでもない「桔花以外」でしかない。けれど彼にとってはかけがえのないものだったのだろう。
それを失念していた。どうでもよくなんてないのに、必要ないと記憶から除外していた。
それは紛れもなく、彼方閑流の罪だった。
「りあのちゃん。お願いがある」
「なーに、言ってみ」
「黒川桔花。友達だったんだ、わたしの。ずっと一緒だった」
もう今は、その名を人前で口にしても怖くはない。
どこまでも他人に依存している自分が情けないが、今はそれでもいいと琳愛乃が言ってくれているから。
「会って謝って、また仲良くしたかった。でも……違うみたい」
探そうとしてこんなことになるのは、きっとその選択が間違っているからなのだろう。クラスメイトを怒らせて後輩を待たせて、別の後輩を巻き込んで、友達を泣かせて。
それならば、もう。
「――忘れたい。桔花のこと……桔花がいなくても生きてるよって、言えるよーになりたい」
『彼方閑流
きみの願いは
“黒川桔花の解放、黒川桔花からの解放”』
最初から、答えは出ていた。
これが、自分の願いなのだと――閑流はようやく理解する。
「だから。今を生きるのを……手伝ってほしい、です」
恥ずかしいような、まだ少し怖いような。震える唇で告げた。
琳愛乃は涙のせいで赤くなった目元のまま、花が咲き乱れるように笑う。まるで曇天を吹き飛ばす太陽のようだと閑流は思った。
「――まかせろ! いくらでも手伝ったげるから!」
閑流の目からも、抑えきれないほどの涙が溢れ出そうになる。それをなんとか堪えようと上を向いて、いつの間にか雨が止んでいることに気付かされた。
ビルの谷間から灰色の雲たちを割って覗くのは、待ち焦がれた煌めき。降り注ぐ光が眩しくて、けれど愛おしくて――閑流は目を細めながら空を眺める。
あの日の思い出を詰め込んだ、夢みたいな大空。
そこには眩い青と、よく澄んだ白があった。
世界に再び、空が舞い降りていた。
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