三章十三話 勝敗のない遠吠え
それはまさしく初恋であった。
「ちょっと邪魔、どいてー」
白藤太輝、当時中学一年生。運動も勉強も中途半端な自覚があり、彼は仲のいい男友達とゲーム三昧な生活を送っていた。小学校から自動的に中学校へ上がり、周りのクラスメイトたちは新しく春を迎えただけなのに、随分と背伸びしていたのを覚えている。
やれ好きな人がどうだとか、やれどの先輩が格好いいだとか、そんな会話。同性のクラスメイトももう彼女ができただとか、他校の生徒と仲がいいだとか、とにかく「一段階大人に近付いた自分」をアピールしたい人間ばかり――と、当時の太輝は感じていた。
「っわ、触っちゃった……あっごめんなんでもないよ?」
太輝はそんな色めき立った思春期とは無縁で、テストの点数が重要になったり勉強科目が増えたり、適当ではいられなくなったという実感以外には何も生活に変わりはなかった。年を一つ跨いで、どうして人は大きくなったと錯覚するのだろう。
それはまさしく初恋であった。
ゲーム。勉強。親がテストテストとうるさい。友人。隣から聞こえるうるさい声。ゲーム。自分の人生にはない色恋の話題。噂。勉強。
思春期の男女が好む話題から無縁であればあるほど、そういったものを好む人間からは距離をとられる。又は馬鹿にされる。太輝は直接何をされたわけではないけれど、教室の隅で好きなゲームの話をしているときに感じた――面白半分でこちらを指差すクラスメイトの姿だけはしっかり記憶していた。
「なんかさぁ、アレだよねアイツ」
「わかる。アイツっていうかアイツら。アレだよねー」
ああ、馬鹿にされているんだなと、思った。
冴えないから、パッとしないから、地味だから、恋愛とかしてなさそうだから。そんな理由で、同じ歳の生き物から嘲笑されている。その事実への対抗策は“意識しないこと”だった。
「――ぎゃ」
それはまさしく初恋であった。
ある日、休み時間に教室前を歩いていると――突然教室の方から誰かが突進して廊下にあるロッカーに激突したのだ。
「痛すぎ大明神……」
轟音を立てて頭からぶつかった割に、当の本人は平気そうだった。
白い髪、青い瞳、周囲の女子生徒より少し高い背丈。ゆらりと起き上がった彼女はクラスメイトの、確か――彼方閑流。
新雪の如く静かな響き、波紋の一つも浮かばない穏やかな水面。それらを髣髴とさせる少女だ。関わりはなかったがある意味目立つ人物だった。
「……ん。赤くなってるかな。ちょっと見てくれない?」
「え、み、見るって」
彼女は近くに棒立ちしていた太輝に気付くと、前髪を持ち上げて額をずいと近づけてくる。異性との関わりなどほぼ皆無だった少年からすれば、心臓が否応なしに跳ねてしまう距離だった。
「……赤く、なってる、けど……だ、大丈夫なの?」
「やばー、あんま痛くないのに。どーしよ、馬鹿になっちゃう」
「えっそこ心配するんだ……」
仲のいい友人くらいとしか話さない彼にとって、心臓の鼓動に邪魔されながら異性と会話するのは至難の業であった。普段の弱気な口調も相まって、次に何の言葉をつなげていいのか分からない。
「そんなに赤い、かな。全然、自分じゃ分かんないや」
「結構、すぐ腫れそうな感じはするけど」
「そんなにか。……てか、誰もいないね」
「次移動教室だからね……みんな先に行っちゃったみたい」
心配なら保健室に行けばいいのにとか、なんでいきなり無人の教室からぶっ飛んできたのとか、言いたいことは山ほどあった。もっと気の利いた言葉を回してあげられたらとか、人気者はこういう時なんて返すのだろうとか――
「桔花はインフルだしなー、どーしよ。今日はあんまり楽しくないし。……サボっちゃおっかな、授業」
「えっ」
「……保健室。行く? 一緒に」
眠たげな半眼を据えたまま繰り出される柔和な笑み。太輝は保健室に行く理由などないのだが、その女神のような表情に彼の心臓は貫かれてしまった。
「――う、うん」
「よっしゃ。サボり仲間、かくほー」
反射的に頷いてしまい、太輝は閑流と共に保健室へ向かうことになった。授業をサボるという、表面上は真面目に授業に取り組んでいた彼からすれば未知なる体験。射貫かれて爆発寸前の心臓と相まって情緒はめちゃくちゃだ。
向かう道中、静かな廊下。端麗な横顔。閑流がぽつりと呟く。
「頭、ガーンってするとさ。脳細胞死にまくって、記憶障害? とか。あるらしいね」
「えっ? あ、うん」
「……もしわたしが馬鹿になったらさ。教えて。どーして馬鹿になったのか」
言っていることがよくわからない。何の心配をしているのだろう。
「――約束ね、おぼえといて」
しかしその言葉は、その後彼の生き方を確立させるには十分すぎるものだった。
口調をもう少し男らしくして堂々と生きる。別にそんな約束はしていないけれど、彼の脳には常に彼方閑流の笑みが張り付いていた。
それはまさしく、初恋であった。
それから彼女を意識するようになり、どういう人物なのか遠巻きに理解していった。
友人は黒川桔花以外居ない。勉強は得意ではない。運動神経は良い。常に呆けている。何を考えているのか分からない。黒川桔花がいることで、男女ともに近寄りがたい存在になっている。鳥が苦手。メロンパンが好き。対人戦のゲームを好む。倒置法的な喋り口調。妹がいる。ドリンクバーでよく遊ぶ。ボーリングでオール0点をとったことがある。お笑い芸人が好き。少し音楽に興味がある。昔放送していた番組のまとめや切り抜き動画をよく見る。会話にネタを挟むのが好き。梯田高校を受験予定。
廊下で初めて喋って、保健室に一緒に行って。それ以来二人の間に会話は生まれなかった。端的に言って黒川桔花が怖かったから。観察を続けている間も桔花に勘付かれないか肝を冷やし続けていた。
しかし、彼女が高校に上がると――何故かその桔花がいなくなっていた。閑流は一人になる。また関わるチャンスだと思った。けれど話し掛ける勇気がなかなか出てこなくて、悶々としているうちに今度は横山琳愛乃が隣に居座るようになってしまった。彼女を中心として閑流は、同学年の女子たちから人気を集めるようになってしまったのだ。
人柄こそ違えど、桔花と琳愛乃は似ている。閑流の露払い的存在として機能する威圧感をどちらも持っていた。太輝は当然、声を掛けられない。
話し掛ける機会を――話し掛けても何があるわけでもないのだが――どうにか接触して仲良くなる機会を伺い続けた。
白藤太輝は女子との関わりがほとんどない。
ない、というほどないわけではないが――できれば「ある」にカウントしたくない程度の接触。それだけ。
学校が嫌いだった。友達と話している間だけは楽しかった。周りの視線を感じる時が嫌いだった。そんな中でも輝いている閑流を見ると、不思議と勇気がわいてきた。
やがて、その時は訪れる。
常に一緒にいたはずの横山琳愛乃が、何故か頻繁に姿を消すようになったのだ。
今しかないと思った。
そうして、数年にわたって一方的に思いを膨らませた男は――
「……この前、黒川を見掛けたんだけど……なんかお前ら喧嘩でもしてんのか? ずっと一緒にいたのに」
「……! 桔花が、いたの?」
「……。おう。もしよかったらなんだけど、案内しようか。見掛けた場所まで」
虚偽と欲望に満ちた、最悪の手段で――彼女と継続的に接する機会を得た。
そして、今。
目の前には、恋焦がれた少女の顔がある。
自らの行動が結んだ実が手の中にある。それがどんなに歪んだ形であっても。
自分と彼女との今後の関係を問う機会を得ていることに、白藤は知らず身を震わせた。
太輝が本当に黒川桔花を見た場所を教える。代わりにこの関りを今後も続けてもらう。くだらない交渉で、閑流のような人柄でなければ一蹴されている無様な申し出だ。
だが閑流は困ったような顔をして、言葉に詰まって天を仰いで――そして、覚悟を決めた表情でゆっくりと口を開いた。
「わかっ――」
「答えなくていいぞ」
不意に誰かの声がした。
すごく近く――閑流も白藤も気付かないほどの速さで、声の主は二人の隣に佇んでいた。
◇◇◇
「何やってるのか知らんけど、答えなくていい」
その声の主は、閑流よりも高い背丈と鍛えられた身体をもっている。短い黒髪に琥珀色の細い瞳、雨を物ともしない風格。
御手洗慎之介――閑流が遠ざけようとした人物の一人が、白藤の手を掴んでいた。
「おい、こんな雨の中何やってんだお前は……ん? どっかで会ったことあるか?」
「なんだお前、離せよ! 部外者が入ってくんな!」
「じゃあまず自分が手を離すべきだな」
二人きりの空間に邪魔が入ったことで白藤が再び怒りの感情を剥き出しにする。閑流の肩から手を離し、慎之介を押し飛ばそうと両手を突き出して――瞬時に背後に回り込まれて拘束された。
ほぼ一瞬。比喩表現にあらず。瞬きすら許さない速度で慎之介は白藤の腕を後ろに回して拘束。警察の逮捕術のような動きだが、速度も相まって練度が素人のそれではない。
「ぐっ――いだだだだだだっ! 痛っ、お、おい! やめろ!」
「え、落ち着いて話をするなら離すけど……落ち着くまではこのままだな」
苦痛に満ちた表情の白藤に慎之介は涼しい顔で返す。場にいる全員が雨に濡れているが、もはやそんなことは気にならなかった。
唐突な展開に閑流は赤くなった肩を抑え、安堵に溢れた胸中を自覚する。そこへよく知る声が飛び込んできた。
「――いーよ、そのまんまで。腕の一本くらいやっちゃいたいくらいだよ」
雨音を掻き消してやってきたそれは、鈴の転がるような音色。傘も差さず、通りの方からゆっくりと向かってくるのは――この一年間、ずっと一緒に過ごした友人だった。
「みたらし。ちゃーんと抑えててね。逃げられたら困るから」
「はいはい、雨ひどいから手短に頼みますよ。先輩」
「ぁは、それはこのクソ野郎と……おシズ次第かな?」
琳愛乃は雨が嫌いだと言っていた。化粧が落ちやすいし、湿度が高くなるのも嫌だと。
そんな彼女が無数の雨粒の中、それらを一切歯牙にもかけずやってくる。
「おシズ、奇遇だね」
「……りあの、ちゃん」
「ちょっとお話しよっか」
頬に人差し指を当てて笑みを浮かべる友人。水が滴る顔には、白藤とは違った怒りが内包されていた。
勢いを増す雨。しかし遠くの空には僅かに青が見える。ずっと待ち続けていた晴れ空が、すぐそこまできていた。
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