三章十話 ぼくらは一生エゴイスト


 長く続いている雨期だが、来週には晴れるらしい。雨は嫌いではないけれど、こうも毎日続いているとさすがに気が落ちてくるというものだ。異常な梅雨の終わりが見えて少しだけ、心に安堵が芽生えていた。

 その安堵とは真逆に、心の真ん中には大きな穴がぽっかりと空いたままだ。


「……どこ行ったんだよ、ばか」


 桔花との別れから一年と数ヶ月。中学の卒業式までは学校に来ていたのだが、その日を境に彼女は忽然と姿を消してしまった。

 彼女の両親に聞いても、「出て行った」としか答えてくれなかった。敢えて言葉を選ぶようなその素振りから、かなり心象の悪い家出をしたことが汲み取れる。お互いしか友と呼べる相手がいなかったせいで、他に彼女の行方を知るものはいなかった。


「……桔花」


 ぶっきらぼうで、がさつな口調。

 だけど所作は丁寧で、意外と表情も豊か。特に美味しいものを食べたときの緩み切った顔がお気に入りだった。

 可愛いものとか綺麗なものとかが好きで、けれどそれを隠すために敢えて粗雑な振る舞いをする不器用なところも――好きだった、のに。


「何がいけなかったのかな」

『……さあな』


 閑流だけに見える桔花の霊。これは未練が生み出した後悔の塊だ。

 ビニール傘越しに雨空を見上げる。どこまでも黒と灰色が広がる景色が一層気を重くする。制服のシャツの上からカーディガンを着込んでも、スカートから出た部分の脚が寒かった。


『別にいいじゃねえか。何が問題なんだ? テメーは今の生活に満足してんだろ』

「満足……してるのかな」

『中学までは話し相手が一人しかいなかったのが、今や学年中の女どもから一目置かれる存在だ。男もそうだろ、未だに告られてんだし』

「そう、かも、しれないけど」


 灰色の街並みを青い半眼でぼんやり見ながら、閑流は桔花の霊と会話する。独り言が怪しいと一度だけ噂されたことがあったので、最近は対策としてスマートフォンを耳元で当てるようになった。


『だからもういーだろ、探さなくて。テメ―から逃げたんだぜ、テメ―の近くにいるわけねーだろ』

「……逃げたか、なんて。わからないよ」

『どーだか』


 霊の桔花は、どこにいるか分からない本物に対して辛辣だ。もしもあの時彼女が離れていなかったら、閑流が選択を間違えなかったら。受かったはずなのに入学しなかった梯田高校の制服に袖を通した彼女は、きっとそんな『ありえたかもしれない』今の姿なのだろう。


「――悪い、遅くなった」


 白藤が息を切らしながら到着した。自由に伸びた黒髪と垂れ下がった目尻、しかしそれに似合わず口調には男らしさがある。

 いつもは彼を待たせているので、閑流がこうして待つのは珍しい。彼との待ち合わせももうこれで6回目になっていた。


「やー、なんか先生から呼び出されちゃ……呼び出し食らってな。プリント提出してなかったみたいだわ」

「……プリント……」


 そういえば、何か出さなければならない書類があったような気がするが――思い出せそうにない。閑流の頭の中は、桔花を探すことでいっぱいだった。

 白藤と放課後に出かける理由。それは彼が「黒川を何度か見た」と申し出てきたからだ。中学が同じだった彼が桔花を知っているのは当然で、もし本当なら桔花は今もこの街のどこかで生活しているということになる。


『なら一回くらい遭遇してもおかしくねーだろ。なんで今になってコイツが見つけんだ? おかしいだろうよ』

「……」


 正直、桔花の霊が言うことも分からなくはない。

 だが信用に足るのかなどと言っている場合ではないのだ。自力ではどうやっても探せなかった桔花を見つけられるのならと、藁にも縋る思いで彼を頼ることにした。

 それでも、こうして協力してくれる人がいるというのはとても心強い。


「ふじし……白藤くん」

「あっ、ちゃんと覚えた……のか」

「ギリギリ。……ありがと、探すの手伝ってくれて」

「――!」


 閑流がふわりと微笑みかけると、白藤は驚いて肩を震わせたのちに目を逸らす。それから笑みに対して投げやりに答えた。


「……お、おう。いいって」

「今日はどこ?」

「今日はな、前から気に――先月くらいに友達と行ったとこなんだけど」


 白藤はよく言い間違える。

 閑流はそれを、少し自分と似ていると思っていた。


『……バカが』


 それは違うと、解像度の高い幻影は言っていた。

 しかし頭に入ってこない。本物に会って失った過去を取り戻すことの方が、彼女の中では何よりも重要だったから。




 ◇




「おれが黒川を見掛けたのは全部で5回。だけどそれらの場所からどういうところに行くのかとかって、考えられそうじゃね?」


 なるほど。パターン化してなんとやらだ。賢い。


「でも一か所だけちょっと遠いところで見てさー、放課後だと行きづらいんだよな。だから、その……こ、今度の休日って空いてるか?」


 空いてる、って答えた。

 別に予定もないし、桔花がどういうところにいたのか早く知りたかったから。


「! よ、よーし。じゃあ今度の土曜はここな。待ち合わせ場所は――」


 白藤くんはすごく楽しそうに桔花探しをしてくれる。二人に接点があったとは思えないけど、多分彼は優しいからわたしにここまでしてくれるのだろう。

 そうじゃないと、説明がつかない。


「……なあ、その白藤……ってのさ。ほら、隣のクラスに白藤がもう一人いるじゃん。だからその名前で呼んでほしいかな、なんて……」


 ……。

 善処する、と答えた。


「……てか、さ。嫌じゃない……か? 男と二人でこうやって色んなところ行くの」


 ちょっと申し訳なさそうに聞かれて、わたしは首を横に振る。

 飲食店、ゲームセンター、カラオケ。あとなんだっけ、忘れたけど。

 いろんなところに彼と行って、桔花はどこにもいなかった。わたしは今ある望みがこれしかないから、「タイミングが悪かったんだ」と自分に言い聞かせた。


「そっか、よかった……まあ、一回行ったところもまた付いていくから。探そうぜ」


 白藤くんはもう紹介し終えたところにもまた来てくれるらしい。なんて親切なんだろう。

 どうしてかクラスではあまり話さないようにしているけど、彼はとてもやさしいひとだ。教室でも男子と楽しく喋っているし、きっと人気者なんだろうな。


『……閑流』


 桔花によく似た桔花が、何とも言えない顔でわたしを見る。

 わたしにはその顔がよくわからない。幽霊みたいな存在は、後ろに魂とかそういうものがないから、何も見えないから。


 そういえば、白藤くんの魂はすごく複雑な色と形をしている。

 どこを向いているのか分からないもやもやしたそれがなんなのか――どこかで見たような気がするのはどうしてなのか、わたしには全く理解できなかった。




 ◇◇◇




 頭を抱えたいくらいの気持ちだった。


 公衆の面前で分かりやすく悩むポーズをとるのも恥ずかしいので、茉莉花は小さく溜め息を吐く。できるだけ肺の空気を押し出すイメージだ。

 今日は雨が降らなかったため、ベンチはすっかり乾いている。そこに座り込んで彼女は難しい顔をしていた。


「……もうボケはじめたのかなー」

『実際そうじゃない?』


 レイナの声。視覚を共有する二人が見ているのは、手に持った一冊の本だった。

 先週発売したばかりの、今話題のラブコメ漫画、その三巻。まだ買いに行けていなかったと思い学校帰りに寄り道したのだが、もう既に購入していたことを思い出したのは書店を出た後のことだった。


「なーんかおかしいと思ったのよね、記憶力ヤバいのかしら……」


 気付いてすぐ返しに行けたなら良かったが、違和感を覚えてわざわざ中身を確認して思い出してしまっている。開封して手を付けてしまった以上、返品は難しいだろう。


「レイナに脳のリソースが圧迫されてるとか、そういう説はない? ありそうな気がしてきた」

『ちょっと! ヒトのせいにしないでもらえます~? レイナちゃんは知らないよ』

「……はあ、お金無駄にした」


 レイナはご立腹の様子で反発してくるが、彼女の活動のために身体を明け渡している間、茉莉花はこの世にはいないのと同義である。そんな時間が少しずつ蓄積すれば、夢現の境目があやふやになるのも無理はなかった。


「ちゃんとメモとらなきゃ――……なんであんたがいんのよ」


 後悔先に立たず、切り替えようと顔を上げると――目の前にはよく知る人物が立っていた。


「何故、と言われましても……偶然としか」


 氷室沙凪だ。

 お洒落な黒い制服、よく透き通った薄緑の髪。同色の瞳は無感情を貫いている。曇り空を背景に佇む彼女は、毅然とした佇まいでそこにいた。


 茉莉花が最近、何度も衝突している相手である。


「偶然、ねえ。あんた家この辺だっけ? どーでもいいけど」

「電車を利用しているので、家はもっと遠いところにありますよ。病院に寄った帰りです。どうでもいいでしょうけど」

「……」

「……」


 眉根を寄せて表情を強張らせる茉莉花と、向き合って静かに見下ろす沙凪。

 伊吹を含めた三人で初めて出掛けてからというもの、放課後に少し集まって駄弁ったり、休日に遊びに行ったり――茉莉花は沙凪と顔を合わせる回数が多くなってきていた。

 だが、相変わらず絶望的に相性が悪いのを肌で感じる。


「……で、その病院帰りで何してんの?」


 とても何度か一緒に遊んだ相手に向けるべきではない声音で訊くと、沙凪は全く気にしていないような様子で横方向を指差す。そこには先ほど茉莉花が出てきた店があった。


「そこの書店に用事があります。買いたい本があるので」

「ふーん……」

「乾さんこそ、どうされたんですか? ここは梯田高校から離れていると思いますが」

「あたしも今そこで買い物してきたとこよ。家からだとここが一番近いの」


 「そうですか」と短く切るように返された。いつ会ってもポーカーフェイス、楽しんでいるのかどうか分かりづらく、冷徹な少女だと思う。何を言っても柳に風といった感じが茉莉花は苦手だった。


(……帰ろ)


 最初は、閑流と接触できないことを悩む伊吹を助けるつもりだった。丁花公園で出会ったメンバー全員がある程度仲を深めておくことで、願いを叶えるまでの道のりが楽になると思ったから。


 そのためにはまず、閑流以外――慎之介や沙凪と、自分が仲良くなるべきだと思ったのだが、如何せん相性が悪い。伊吹には申し訳ないが、彼女と打ち解けるのは相当の時間を要するだろうという確信があった。


 ――と。


「……その本」

「え?」

「乾さんも読まれているんですね。私もそれを買いに来ました」


 沙凪が見つめるのは、茉莉花がダブらせてしまった『恋仮狂争』の最新巻だ。


 主人公の男子高校生が元彼女に見栄を張るため、同じクラスのヒロインに付き合っているフリをしてもらうところから始まるストーリー。ありがちな出だしだが、登場するヒロインたちが悉く異星人――しかも主人公は『大きな失恋のたびに覚醒していく』体質で、ヒロインたちは「本来の能力を覚醒させたのちに侵略を手伝わせる」という共通の企みがある。元彼女でさえそれを狙う異星人だ。


 そんな狡猾な少女たちと、弄ばれる少年のラブコメディ。

 なんとなく手を出してみたものの、単なるラブコメの枠には収まらない壮絶な物語や駆け引きの面白さから、茉莉花もすっかりファンになっている。


「……あんたもこれ読んでたんだ、へー。意外」

「漫画は生まれて初めて読みましたが、複数のキャラクターの手管や思惑が巡る描写が面白いですよね。小説には出来ない心理描写の連続は、絵という視覚情報があってこそだと思いました」

「生まれて初めて読んだ漫画がこれなのはちょっとよくわかんないけど、言ってることはよく分かるわー。こう……いろんな子がいろんなこと考えてるんだなーって」


 少し意外だった。ラブコメ漫画という文化には微塵も馴染みのなさそうだと思っていたのだが、しっかり読み込んで最新巻を買いに来るくらいハマっているらしい。

 気分が少し良くなって茉莉花は続ける。


「主人公がさ、最初はしょーもないやつだと思ったのよ。でも結構アツくて、しかも否定するとこはしっかり否定する冷静さもあって……嫌いじゃないっていうか」

「分かります。一巻の途中までは中身のない人物と勘違いしていましたが、彼も考えながら生きていることが度々描かれるので、不快感が薄れますよね」

「そ! 小出しにしてくれるから重くないのがいいのよね~。ヒロインたちも濃いけどいいキャラしてるでしょ、あんたは誰が好き? あたしは――」

「――ローン星の柊木ひいらぎ闇香やみか


 喉が詰まった。言おうとしていたことを若干食い気味に重ねられたからだ。


「……よ、よく分かったわね。あたしが闇香ちゃん好きだって」

「あ――。……すみません。聞かれたので、答えなければと思って」


 一瞬面くらったような顔をしたのち、それを誤魔化すように沙凪は隣に腰を下ろしてきた。彼女は被せてきたのでも言い当てたのでもなく、茉莉花の質問にノータイムで答えてくれたのだ。


「明るく前向きで、けれど人一倍思い悩んでいる姿が素敵でした。……推し、というらしいですね」

「……伊吹に変なこと吹き込まれてそうだけど……まあ、そうね」


 横顔を覗く。無表情の中、ほんの僅かに頬が赤らんでいた。

 その色を見ただけで彼女の人間味が一気に増して、今まで邪険にしていた感情はなんだったのかと馬鹿馬鹿しくなる。


「はい、これ」

「……? いえ、ですからそれを買いに」

「あげる。ホントにバカなんだけど、あたしこれ買うの二冊目なのよね……ちょっとうっかりしすぎてたっていうか」


 キョトンとして三巻を受け取る沙凪。同じ漫画を間違えて二冊購入したことを言及されたくなくて、茉莉花は質問を受け付けまいと言葉を重ねた。


「あー無駄にならなくて良かった! ……読んだら感想教えなさいよ、三巻は闇香ちゃんメインの話あるっぽいし」

「……はい。感想、お話しましょう。……それはそれとして代金はお返しします」

「いやいいから。捨てたお金拾ってもらったみたいなもんだから」

「それは私としても申し訳ないので――」


 お金を返す、返さない。そんなやり取りを二人はしばらく繰り返した。

 その様はとても仲睦まじい友人同士のようで、放課後に会話に花を咲かせる女子高生たちの姿として、非常に微笑ましいものであった。

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