三章十一話 ブラインドネスバクテリア

 間違っている。間違っていない。どちらでもない。

 自身の言動を振り返るたびに終わりのない問答がループする。始まりと終わりが繋がっていく。


「……行くかー」


 今日の放課後も、閑流は誰と話すこともなく教室を出る。日中は周りにいる女子たちは、ホームルームが終わるとすぐ部活に行ってしまうのだ。

 唯一同じ帰宅部である琳愛乃も、ここのところ放課後は姿を消すことが多い。おそらく一年のクラスに行っているのだろう。そんなことを言っていた、気がする。


「……行くか、じゃないんだけど」

「あれ、いた」


 訂正。今日は琳愛乃も教室にいたらしい。廊下に出てすぐ、彼女は行く手を阻むように立っていた。待ち伏せしていたのだろうか。

 腕を組んで穏やかではない目つきをしている。紅い瞳が薄暗い廊下の中、鋭く光っていた。


「あのさ、おシズ。最近なにやってんの? 放課後いっつもすぐいなくなるし……前はもっと教室でゆっくりしてたじゃん」

「……りあのちゃんもいないから、すぐ帰ってる。だけ」

「……ふ〜ん。そ」


 目を逸らして誤魔化す。

 今までなら琳愛乃がどこかへ行っても、戻ってくるまで教室で呆然と過ごすのが当たり前だった。この言い訳は苦しいだろうな、と言ってから選択ミスに気付く。


「帰るって、家と真逆の方に?」


 琳愛乃が下手な嘘を引き裂くように、視線を鋭くしたまま問い掛けてくる。閑流は半眼をゆらりと向けた。


「ちょっとハマってて。寄り道」

「……イブちゃん待たせてること、忘れてないよね?」

「──」


 言葉に詰まる。今はその名前を出されるだけで頭の中がぼんやりしてしまうくらい、聞きたくなかった。


 手紙、縁、願い──『黒川桔花の解放、黒川桔花からの解放』。そんなものは望んでいない。朱島伊吹が行動して外堀を埋めるより早く、一刻も早く桔花を見つけて謝らなければならないのだ。


 ごめん、ただそれだけ、一言だけ。

 きっと彼女はそれだけで許してくれるはず。


「ごめん、りあのちゃん。行かなきゃ」

「……やっぱ用事あんじゃん」

「……ごめん」


 悪天候で薄暗い廊下の中、微動だにしない琳愛乃の脇をすり抜けて階段へ向かう。通り抜ける時の彼女の横顔は見ないようにした。


 間違っている。間違っていない。どちらとも、いえない。


 問答が、今も頭の中をループしている。




 ◇◇◇




「キッちゃんって、なんで高校行かなかったの?」

「急だなオイ」


 夕方、茉莉花の叔母である比奈の家にて。

 身体の主導権を入れ替えることで表に出たレイナは、その純新無垢を貫く目つきで黒川桔花を見る。


「前から気になってたんだよ〜? 歳もリカちゃんと同じくらいみたいだし」

「……まあ、そうだな」


 頭頂部は黒く、毛先に流れるにつれ白くなるセミショートの髪。あまり整えられていないそれは、以前真っ白に染めていた面影だけを残して無造作に伸びていた。

 瞳は空よりも深い蒼。しかし外出時にはカラーコンタクトで紅くしていることが多いらしい。

 パンツスタイルのラフな格好の彼女は、暇な時は比奈の家で寛いでいることもある。本人曰く「電気代タダでありがたい」とのことだ。穀潰しである。


「別に中卒でもいーだろ。アタシは行く気にならなかっただけだ」

「じゃ、受かったんだ?」

「……」


 落ちた、と言わなかったことに追求すると、ギターのチューニングをしていた手が止まった。


「受かった。成績は良い方だったからな」

「えーなんで蹴っちゃったの? セイシュンしたくないの〜? レイナちゃんはすごく憧れてるんだけど★」

「青春、ねえ」


 茉莉花の声は聞こえない。二人の会話を遮らないよう気を利かせてくれているようだ。

 窓の外を一瞥すると、灰色の空模様に橙色が少し混ざって濁っていた。なんともいえない色味──それに似た感情を押し出すように桔花が溜息を吐く。


「いいんだよ、そんなモン。……どーでも」


 ブルーの瞳にハイライトが揺れている。そこに映っているのはきっと空模様ではなく、もっと遠いなにかだ。


「全部だと思ってた、全部だと信じてたモンが……アタシの知る形じゃなかった」

「……?」

「アタシが青春とかそういうのを捨てたのは、そんなくだらねー理由だってことだよ」


 言葉の意図が全く読み取れない。表情から彼女が何を考えているのかさえ分からない。レイナは笑みを崩さないまま小首を傾げる。


「あはっ★ 意味不〜」

「だろ、曲ばっか作ってっから、ポエマーになっちまったらしい」


 桔花が手を振る。ギターの音が鳴る。

 幾重にも連なる響きが空気に浸透して消えていく。一瞬のそれはやがて存在ごと抹消されていき、微かな余韻を残して霧散した。


 意味の無いこともある。その音にはそんな響きが含まれていた。




 ◇◇◇




「閑流、これやらねーか?」

「なにこれ……お、知ってる。バースト読んでまだ入るーのやつ」

「なんか家漁ったら出てきた。親父がやってたらしくてなー……格ゲーはやってみたかったんだよな」

「大乱みたいなもんでしょ、やろうやろう」

「クラブラって言え」


 ……。

 あ、そうか。この時からか。


「桔花、強すぎないか? コソ練すなー、消費税下げろー」

「どうにもならん要求添えてくんじゃねーよ。悔しかったらテメーも買って練習しろ」

「え~……楽して強くなりたーい。友情勝利勝利くらいがいい」

「アタシに連勝出来たらなんでも好きなモン買ってやるよ」


 そうだ――そうだった。

 このあたりから。桔花に勧められた格闘ゲームをやりはじめたんだった。

 なんで今更、こんなことを思い出したんだろう。


「――ぁは、りあのこーいうとこあんまり来ないから、ちょっとドキドキするかも」

「初見さん、いらっしゃい。やってみようか、なんか気になるゲームあったら」


 ……?

 桔花じゃなくて、りあのちゃんと喋っているわたしがいる。中学じゃなくて高校の記憶だ。

 桔花と毎日のように通い詰めていた小さなゲームセンターに行こうとしたら、りあのちゃんがついてきたんだっけ。


「これは? なんかいっぱいアイコンあるよ?」

「彼方が説明しよう。これは比較的古い筐体で、全国のゲーセンからはほとんど撤去済みのものなんだよ。でもここは片付けずに残してくれている。なぜかというとこのバージョンはアップデート商法によって置いていかれたバージョンの格ゲーがたくさん入っていて、家庭版でもプレイすることができないものも多いから。つまりこの筐体でしか遊べないゲームがたくさん入っているということで、中でもオススメなのはこの無印『デッドヒーリング』1.3……永パやハメ技のオンパレードという無法地帯の中、このバージョンでしか味わえない超ハイスピードバトルが」

「ちょちょちょちょちょっと待った! なに!? 急にどしたの!?」

「……え」


 説明を途中で止められて、わたしはぽかんとしていた。誰かに筐体の説明をする日が来るとは思わなかったから多分浮かれていたんだろうけど、りあのちゃんは一つも理解できていなかったみたいだ。


「……お、おシズって結構アレ? こーいうのが好きなオタク的な」

「ぶい。何を隠そう、中学では地元の大会で予選落ちの経歴持ち」

「経歴としてダメすぎでしょ、それ」


 わたしの言葉にりあのちゃんはすごく呆れていた。

 よく考えてみれば、桔花が勧めてきて一緒にハマったゲームのことを喋っても、りあのちゃんみたいなキラキラした女の子には伝わるはずもなかった。


「――オイ、勝ったらなんでも一つとは言ったが……最強キャラに安易に手を出すのはどうなんだよ、コラ」

「勝てばよかろうなのだ。桔花が最弱キャラ使ってるのがいけないんだー」

「わかってねーな。弱キャラで勝った時が一番気持ち良いだろーが。つーわけでもう一戦な」

「それはいーけど、ゴジバのチョコ買ってね」


 ――また、桔花との会話。

 もう喋ることはできないのに、触れることはできないのに――どうしても、何としてでも会いたくなった。触れたくなった。あの日から抑え込んでいた気持ちは、“もしかしたら会えるかも”っていう期待だけでどんどん膨れていく。


『無理だよ、諦めろ』


 誰かの声がする。

 聞きたい声なのに、誰よりも聞きたくない声。


 好きなのに、嫌いなくらい胸が痛くなる。そんな声。


『テメーはもう、アイツには会えねえ。だからアタシがいるんだろ、ここに』


 違う。

 そんなわけない。桔花とはちょっとすれ違ってしまっただけ。どうして怒ったのか、いなくなったのか。それを聞くまでは諦められない。


『……ハァ。いい加減目ぇ覚ませ。現実見ろよ』


 桔花の幻も呆れている。

 わたしは、呆れられてばかりだ。


 ――。

 ――――。


「……あれ」

「……どした?」


 ぼうっとしていたみたいだ。気が付くとわたしは街中を歩いていて、隣には――。


「……ふじ?」

「し・ら・ふ・じ! あと太輝な! いい加減覚えろよ」

「あ、そーだった」


 白藤。そうだ、白藤がいた。

 白藤はいつもの制服ではなくて、私服を身に着けていた。丁度通り過ぎた店のマネキンが同じ格好をしていた。そういうペアルックもあるのかな。

 今日は土曜日。わたしは約束通り、白藤と休日に出掛けて桔花を探すことにしたんだ。


「寒いね、なんか」

「……湿気もすごいしなー」


 雨は降っていないけど、じっとりした匂いがする。空気がゼリーで出来ているみたいな感じだ。

 靴がたくさん。細い足もある。地面を鳴らす軽い音と、硬い怪物の叫び声が街に満ちて、土曜の午後を奏でていく。


「ん」

「……お金? やば、あんまり持ってないかも」

「なんで歩きながら金の催促されたと思うんだよ!? 違うだろ、そうじゃなくて……ほら」


 白藤が立ち止まって、わたしに手を差し出してくる。わたしと同じくらいの背なのに、手は少し大きくて形も全然違っていた。


「……?」


 よく、わからなかった。

 今何か、彼の手に渡さないといけないものがあるのかな。


「……寒いんだろ、だから。手」

「……。……、…………」


 ……。

 あ。


「そーいう、ことか」


 ぐしゃり。心臓が潰れたのかと思うくらい胸が痛くなる。

 白藤の後ろに見える、魂の形。黒と白の混じった靄が渦巻いていて、中に少しだけ赤色が混じっている。


 ――ああ、そうか、この魂は。


「……な、なんだよ。そういうことって」


 照れくさそうにそっぽを向いているけれど、わたしはそれどころではなかった。


 失敗した。失敗したんだ。そうだ――あの日も、こうやって失敗した。

 わたしの目は人の魂の形を映してくれる。その人の本質とか生き様とかそういうものが見えるけど、これはすごく不便な情報でもあった。



 ――強い感情を映す魂は、感情の向かう先までは見ることができない。



 白藤太輝の後ろにある黒と白、そして赤は、わたしに向いていたんだ。


「……お、おい。マジでどうした? 具合悪くなったのか?」

「……。わかってたの?」

「は、何が――」

「きみじゃなくて」


 横から覗き込んでくる白藤とは反対を歩く幻に、わたしは問い掛ける。桔花の形をしたそれは痛々しいくらい清々しく笑っていた。嗤っていた。


『言っただろ、アイツには会えないって』


 怪物の音が強くなる。道路を勢いよく通り抜けたみたいだ。三色ののっぽさんが光ったり音を鳴らしたり、人がたくさん群れたりしているのに――わたしの耳にはほとんどの音が聞こえてこない。

 足に力が入らなくなりそうになって、ぐっと堪えた。信じたくない。違うって言ってほしかった。


「……白藤太輝」

「! お、おう。……なんだよ」


 唇を尖らせて返事をする彼の顔は、わたしの声に合わせて少し赤くなっている。それが何よりの証拠で、分かりたくもないのに心の奥底にまで伝わってしまっていた。

 ああ、ほんとうに、現実は。


「――うそつき」


 どこまでも、どこまでも、意味が分からない。


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