三章五話 きみがいても、きみがいなくても


 きっと、理解されることのない感覚だ。

 明地水脈は自身の内に宿る感情や想いをそう断定して、全て内側に留めて外には出さないようにしてきた。

 過去は過去。今を生きる自分と、過去は別物。そう言い聞かせながら。


“はじめまして。月見里やまなし美里みさとです。よろしくね……えっと、明地……あ、すいみゃく、でみおって読むんだ。きれい!”


 美里と初めて出会ったのは、中学に入学してすぐのことだった。

 席替えで隣同士になってすぐに話し掛けられ、向日葵みたいに笑ってみせる彼女が好きになった。ほとんど一目惚れだった。

 当時、恋愛というものがまだよく分かっていなかった水脈でも、“好き”という感情がすぐに理解できる程度には月見里美里は魅力的だったのだ。


“テスト66点いぇいいぇい~。ゾロ目ボーナスだよ、お祝いしよっ! ……え、不吉? 40点以上って良いんじゃないの?”


 彼女はお世辞にも、頭がいいとは言えなかった。

 しかしそれを補って余りある魅力がある。ころころと人懐っこく笑う姿や、聞くだけで心に平静を得られる声色。ぱちりと開かれた瞳には太陽を宿し、透き通ったセミショートの茶髪からはいつもいい匂いがした。


“私ね、将来は漫画家になりたいんだー。ほら、絵の練習、小一からしてるの”


“仲良いグループでカラオケいったんだけど、私の点数聞いてくれない? 66点だよ? なんかもしかしてほんとに呪われてる? ヤバいかな”


“あ、その本知ってる! 漫画の方しか読んでないけど面白かったな~。えっ……い、いやあいいよ……活字は苦手です……”


 月に一度の席替え、しかし何故か彼女は常に水脈の近くにいた。

 何かの運命ではないか。そう錯覚してしまうほどに――彼女と話せば話すほど、水脈の心は美里への好意に溺れていった。


“……あのね、明地くん。ちょっと……行きたいところあって。いいかな”


 そして、その好意は水脈だけが持っていたものではなくて。

 半年以上隣の席で話し続けた結果、美里もまた水脈のことが好きになっていた。

 両想い。美里からの告白を受け、二人はお互いに人生初の恋人を得る。幸せの象徴、それからは毎日が格別に楽しかった。


“記念日がハロウィンってことはさ、来年のハロウィンは二人で仮想パーティとかしちゃうやつだよね。うふふ、今から楽しみ”


“メリクリ~! サンタ帽で、プチサンタになってみました! ちゃんとプレゼントもあるよ! みおのためだけに用意したやつ~!”


“ハッピーバレンタイン~。付き合って最初なので、めちゃくちゃ気合を入れてみました。おかげでほぼ徹夜です。ヤバいです”


“私たちも二年生だねえ、後輩いびりにでも行くか。チビすぎて逆に干されるかな”


“夏になったらさ、プールとか行きたいよね! ま、まあ……まだそんなに、お見せできるほどのものではないかもしれませんですけど……成長期だから。うん”


 季節や行事が巡るとき、必ずいつも彼女が傍にいた。

 どんな時も笑顔を絶やさず、常に明るく振る舞って、存在するだけで周りに勇気を振りまくような少女。

 部活の終わりを寒い中待ってくれたこともあった。イヤホンが使い物にならなくなったと呟いたら、すぐに新しいものをプレゼントしてくれたこともあった。誕生日は日付が変わった瞬間に電話を掛けて、誰よりも先に祝ってくれた。


“みお”


 彼女が、水脈のすべてだった。


“好きだよ、ずーっと。ね”


 今でもその声は脳の奥の奥にこびりついて、剥がれることなく存在している。


「……惚気……ではないだろうけど……良い話じゃねーか」


 つらつらと過去を述べる水脈に、慎之介は眉をひそめている。何が言いたいかよくわからない、といった顔だった。

 それもそうだろう。今話したのは水脈の過去の、幸せだった部分の話なのだから。


「……俺、今一人暮らしって話したことあったっけ」

「あー、前に言ってたな。なんかそれとバイトがセットの条件みたいな」

「よく覚えてるね」


 人のいなくなった体育館、昼休みはあとわずかだ。

 慎之介は棒立ちでドリブルを継続。冷たい壁にもたれ掛かって、水脈は続ける。


「もともと地方住みでさ。遠いところで一人暮らししたい……地元から離れたいって言ったんだ。そしたら母さんのお姉さんが店長やってるとこでバイト募集してるっていうから」

「そこでバイトするのを条件に一人暮らし、か?」

「そう。あとは学校の成績維持」


 バスケットボールの弾む音。絶え間なく降り注ぐ雨の音。

 一週間以上降り続ける雨は、最初こそ「地面に穴が開くのではないか」と心配していたが、段々気にならなくなってきていた。寝ている間に止んでいることが多いらしい。

 湿り気を多分に含んだ空気が肌に纏わりつく。いい気分ではない。


「耐えられなかったんだ。地元で生活し続けることが」

「……? どういう」

「美里。……死んじゃってさ」

「――、……なんでって聞いても、いいのか?」


 死、というワードを出した途端、慎之介の顔が神妙なものへと変わった。


「精神的な病気だった、って言われてる。真相は分からないんだけど」


 月見里家は、表面上は円満な家庭だった。両親と美里、そして妹の四人家族。水脈も何度も遊びに行っているし、何か思うところがあったわけではない。しかしそれは巧妙にプライベートを隠されていたが故のものだった。


「変だなって気付いたのは、付き合い始めて半年くらい経った頃だった……と思う。美里の様子がおかしくて……知ることはできた。できたんだけど」


 月見里家の抱える問題、それはどうしようもないほど両親が喧嘩を繰り返すことだった。

ヒステリックになりがちな母親と暴力的な父親。一度始まれば崩壊といって差し支えないほどの喧嘩が始まり、美里は自室にこもって妹を守っていた。

 ずっと前から続いていた劣悪な関係、しかしそれを聞いたところで水脈にできることはなかった。日に日に衰弱していく美里を支えようと、励ますことしかできなかったのだ。


「しかも美里は……それを人に打ち明けることはしなかったんだ。俺と喋るときはどれだけ疲れていても、学校ではいつも明るい人気者だった」


 演じなければならなかったのだろう。

 隠したかったのだろう。


 それでも、唯一水脈にだけ見せてくれたのは――それだけは喜んでいいはずだった。


「二年の夏のちょっと前くらいからかな。いよいよおかしくなり始めたのは」


 軽度の躁鬱、拒食症。その他諸々と説明を受けたとき、水脈は何が何だかわからなかった。なったことのない病気の説明をされても簡単に理解などできない。

 美里の衰弱は加速していった。食事がのどを通らず、欠席回数が増え、遅刻と早退を繰り返した。それでも明るく振る舞おうとする彼女に、水脈は何もできないまま。ただただ時間だけが過ぎていった。


「それで、俺たちの記念日……の、次の日。学校に来ないし連絡もないし、おかしいなと思って学校飛び出して、美里の家に行ったんだ。そしたら……。……もう、遅くて、さ」


 自殺。

 どのようにして命を絶ったか、など思い出したくもない。最期に見た彼女の顔は、感情なんて一つもない虚ろなものだった。


「それがすぐに広まって、女子たちの中である噂が広まったんだ」

「噂?」

「……“自殺は彼氏が追い詰めたからじゃないか”って」

「――っ、なんだそれ……」


 ボールを叩く手が止まる。目を見開いた慎之介は僅かに怒りが混じった声を漏らした。


「……学校、行きづらくなっちゃって。なんとか通ったんだけど……その頃からなんか目がおかしくなっちゃったみたいでさ」


 噂が広まったことにより、学校のどこを歩いても視線を感じた。女子たちは人気者だった美里がいなくなったことでそれぞれの感情を発露した――その結果が、有り得ない憶測による“悪者”の確立だったのだ。

 家庭事情を知らない者からすれば、そういう説もあるのかもしれない。けれど水脈は最愛の人を失ったショックと、人の存在を弄ぶ噂によって――


「女子の顔が見えなくなったんだ」


 比喩表現ではない。

 言葉通り、異性の顔に存在するパーツが全て視覚的に捉えられなくなってしまっていた。見ることを拒んだ心が反映した幻覚、とでも例えようか。


「のっぺらぼうだよ。朱島さんも保住さんも、乾さんも……横山先輩も皆、俺には顔が見えないんだ」

「……それが、先輩から逃げる理由……?」

「怖いからね、毎日妖怪を見てる気分だよ……あとは単純に、女子と距離が近いと気分がすごく悪くなる。それだけ」

「そっちのが重症だろ」


 吐き気、悪寒、動悸が早くなって眩暈がする。その他諸々。

 異性に対して強いトラウマを持ってしまった水脈は、物理的に近付くことや目を合わせることが完全にできなくなってしまっていた。


「けど理解した、お前がなんで告白を断り続けてんのか……そりゃ、無理なわけだ」

「でしょ。分かってくれてよかった」

「なら敢えて聞くが――そのままでいいのかよ?」


 体育座りの姿勢で見上げていると、慎之介は仏頂面を向けてきた。背の高い彼に見下ろされると威圧感がある。

 どういう意味だ、と聞き返すより早く彼は続ける。


「トラウマがあって苦手。だから逃げる。そのまま一生過ごすのかって聞いてんだよ」

「……いや、じゃあ逆にどうしろって言うのさ。顔も見えない相手に」

「俺は……羅衣斗の姉貴がお前に執着してくれているこの状況は、チャンスだと思う」


 無責任な発言だ。人の過去を聞いただけで思いついたことを簡単に解決案として提示する。それで救った気になって、気分がいいのは発言者だけだ。

 水脈は苛立ちを覚えて立ち上がるが、慎之介はお構いなしに距離を詰めてきた。


「生活に困るだろ、今のままだと。そのままでいいわけねえだろ? だったらどんだけ逃げても好意を寄せてくれる相手に協力してもらってでも、少しずつ直していった方がいい」

「そんな、簡単に言うなよ。直し方も知らない、そもそも病気かどうかすらわからないのに」

「じゃあ分かんないまま済ませんのか? 一生そうやって逃げるのか? 先輩からも――元カノからも」

「……っ!」


 発言に我慢ならなくなって、思わず慎之介の襟元に掴みかかっていた。彼はそれでも動じることなく、真っ直ぐ見据えてくる。細い目から力強い意志が迸っていた。


「今聞いただけじゃお前の過去の全部は把握できない。だから俺はこれしか言えねーよ。それでも“今のままでいい”って言うんなら話は終わりだ」

「……直したくない、わけ……ないだろ……どんな気持ちで俺が……!」


 引っ越して、一人暮らしを始めて、バイトをして。

 高校に入学すると自分でも引くくらいモテた。あまり異性と関わらないようにするために静かに過ごしていたのだが、それが琴線に触れることが多かったらしい。


 “好き”

 “格好いい”


 どれだけ言葉を受け取っても、それが心に響くことはない。

 水脈の心には今もなお、亡霊と化したあの日の彼女が巣食っている。


「……っ、わかってるよ……逃げてるのは……!」


 両手の力を緩め、その場に膝をつく。頭の中はぐちゃぐちゃだ。


「本当にどうでもよかったら……男子校に行けばよかっただけだよ……分かってる」


 極限まで異性を避ければいいだけ。それでもその選択をしなかったのは――過去を引きずり続けることは美里が望んでいないだろうと、思ったからだった。

 喪失と失望で壊れた心。歪んだ視界。本当はずっと直したかった。けれど何もわからなくて、先延ばしにし続けてきたのだ。


「――! 壊れた、心……そっか、そういうことか……」

「……どうした?」

「……これ、なんだけどさ」


 ズボンのポケットに仕舞っていたスマートフォンを取り出す。少し前に新調したばかりのものだ。


「実はずっと画面割れてて……下半分が特にひどくてさ。でも連絡することもそんなないし、いいかなって放置してたんだけど」

「それでお前たまに返信なかったのか。さっさと直せよそんなもん」


 画面の下部分が割れていると、メッセージアプリの最新メッセージが見えなくなるという致命的な問題が発生する。バイト先の叔母に「さすがに買い替えろ」と言われて新しくしたのだが、実はもう一つ問題が起こっていた。


「見て」


 慎之介に画面を見せる。屈んだ彼は、その内容を見て目を丸くした。


「……お前、これ――!」



『 親愛なるきみたちへ

 今日、16時ちょうど。夕日を背景にひとつ鐘が鳴るその時、丁花公園の時計前にて君たちは運命の出会いを果たすだろう。

 その出会いを無碍にせず、縁を生涯大切にしなさい。そうすれば君たち一人ひとりの願いが、夢が叶う。


 記された願いは君たちが心の奥底で一番強く願っているもの。心当たりがあるのなら、16時ちょうどに丁花公園に行くことだ。


 “明地 水脈”

 きみの願いは

 “壊れた心を修復し、過去と決別すること” 』



「最初見たとき、一番下がバッキバキだったから。いたずらかなーって思ってたんだけど……最近見返したらなんかそうでもないのかなと思って」

「いや、そうでもないっていうか……これ、なんで……!」

「朱島さん、たまに願いがどうとか言ってるのが聞こえるからさ。何か関係あるのかなって思ったんだ」


 場所を問わず、朱島伊吹は何やら意味不明な言葉を口にする。しかしそれは乾茉莉花や慎之介と話しているときに限っていて、同じクラスであるが故に水脈にも少しだけやりとりが聞こえていた。


「――俺の心、壊れてるらしいよ。はは……過去と決別、だって。こんなこと書いてあるくらいだから、できる望みがあるのかな」

「お前なあ……こういうのは先に言えよ! 話変わってくるだろうが」


 呆れた表情の慎之介。しかし水脈が力なく笑ってみせると、彼も微笑みを返してくれた。

 美里のことを忘れたいわけではない。けれど今のままでは自分が一番困る。だから最低限、まともな会話ができる程度には女子と関われるようになりたい。

 メッセージにある「出会い」の部分は果たせていないけれど、今からでも遅くないのなら。


「……変われるよ。もし駄目なら、俺がいくらでも担いでやる」

「はは、頼もしいなあ」


 地元を離れて、生活を大きく変えて、それでも変われなかった自分がいて。

 この日初めて、明地水脈は――この高校にきて良かったと思えたのだった。


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