二章八話 罪と傷の境目から
約9年前、下校中の小学生低学年の少女二人が誘拐に遭う事件が起きた。
男二人組による拉致、車内に監禁して逃走。子どもを盾にした身代金目的の誘拐だった、とのちに判明している。しかし事件は少女二人の親それぞれが動くよりも警察が捜索するよりも早く、山中の自動車道から車が転落するという形で終幕した。
捜索後、男二人の遺体からは過剰なアルコール等を摂取したことが確認されている。身元調査の結果、自己破産せざるを得なくなった成人男性たちの自暴自棄な行動であった、という結論が付けられた。
少女たちはというと、転落の仕方と後部座席に乗せられていたことが運良く噛み合って、二人とも一命を取り留めていた。
五体満足の後遺症なし、無事親元に送り届けられ、入退院もスムーズに終了。不運に見舞われたものの、結果として何一つ失うことなく少女は帰還した。
二人のうち一人は、だが。
「……そういうわけです」
事の顛末を簡潔に説明し終えて、大きく息を吐いた。締め括る言葉を合図に、それまで静聴していた伊吹も吐息を漏らす。
「じゃあ、この子は……」
「はい。無事ではなかった方の、被害者です」
沙凪は伊吹には一度も目線を配ることはなく、ただひたすらベッドに横たわる少女の顔を見続けていた。深い焦げ茶色の髪をもつ少女はやせ細っていて、顔色も生きているのか疑わしいほど白い。点滴に繋がれて生命を維持している姿が痛々しかった。
誘拐事件に見舞われた少女二人、その片方――沙凪には転落による怪我こそあったものの、今に至るまで残るほどの傷はない。ほとんど奇跡といっていいだろう。その代償とでも言いたいのか、もう一人の少女は意識不明の重体で発見された。
「この子……名前はなんていうの?」
「さ――……、……
言い淀んでから、長いこと口にしていなかった名を呼んだ。これで起き上がってくれたらどれほど報われただろうかと何度も思って生きてきた。
9年前、まだ二人が小さかった頃。将来への夢や希望に満ち溢れていた頃。努力次第で何にでもなれたかもしれないあの頃。あの頃から、彩夏の時間は止まったままだ。植物状態として搬送された肉体は今も尚目覚めることなく、それでも生き続けている。
「彼女とは小学校に入学してすぐ知り合いました。同じマンションに引っ越してきて、クラスも同じで……当時、友人と呼べる人が一人もいなかった私にとって唯一の存在でした」
控えめな笑顔となんでも信じ切ってしまう純真無垢さがあった、そんな子だった。クラスの一番にはなれないがそれなりに物覚えがよく、生まれつき喘息やアレルギーをもっていて体が弱い子だった。氷室沙凪にとってただ一人の友達だった。
病室の白いカーテンが靡いている。声を発していないときはベッドモニタの音が聞こえる。純白のシーツを見ていると視界に飛蚊症特有のもやが僅かに飛んだ。沙凪は目頭を揉んでぎゅっと目を瞑り、もう一度目蓋を開く。
「回復の見込みはほとんどないそうです。それでもご両親が諦めきれずに様々な病院を転々として……何度も手術を受けて、今はここに落ち着いています」
「……そっか。楠木さんのおうちの人と氷室さんは、会うことがあるもんね」
「いえ……基本会わないようにしています。放課後すぐの夕方、今のような時間帯なら鉢合わせることもありません。今言ったのはそれでも会ってしまったときに聞いたお話です」
病院を移り続けている間、沙凪は彩夏の見舞いに行くことは出来なかった。どんなところでどんな治療を受けているのか、勉強一筋の環境に身を置く沙凪には知る由もなかったからだ。今の病院に移ったとき長らく会うことのなかった楠木家の母親に会い、その時に教えてもらったのがここだった。
「本来なら、もっと前から何度も来るべきでした。それなのに私は、楠木家の扉を開けることができず……友人失格です」
視線を下に向けているせいかズキズキと頭が痛み始める。ゆっくりと首を持ち上げて天井を仰ぎ、痛みが治まるまで待った。伊吹は必要以上には喋らず、沙凪の言葉を待っている。
「事件が起きる前から母には度々言われていました。友達と遊ぶよりも勉強に集中しなさい、関わるだけ時間の無駄だから、と」
「……昨日言ってたのって」
「はい。昨日朱島さんにお話したのは事件の後のことです」
“関わるべきじゃなかったの。だから言ったのに”
“後遺症もなくて良かったわ。これで勉強も再開できそうね”
何度も何度も、思考に余裕ができると脳内を残響として留まり続ける母の言葉。
何度も何度も、何度も、何度も。頭痛がするほどに頭の中で響いている。どうにかして消したくて振り払おうにも消せなくて、暇潰しのパズルや聴き慣れないドイツ語音源で紛らわしてきたのだ。
それでもどうにもならなくて――少し、楽しいと思えてしまうことがあったせいで、心が揺らいでしまった。
「言われて、私は思いました。私が私の生き方に楽しみを見出してしまえば……今よりもっと彼女を置き去りにすることになると」
「氷室さん、そんなこと――」
「ありますよ。そんなことあるんです。私の人生は両親の言う通りの教育を受けて、両親の望む進路を選択して、余った時間を学業に費やすだけでいいんです」
屈み込んで彩夏の横顔を見る。ほとんど毎日見に来ているのに、今日はいつもより辛そうに見えてしまうのは何故だろう。
“はじめまして、よかったらなかよくしてください!”
桜舞い散る季節での出会い。今でもよく覚えている。
目覚めて欲しいと思った。話したいと思った。どれも今では叶うことのない幻想だと、認めたくなかった。だから毎日、その横顔を忘れないように病院へ足を運び続けている。
「人付き合いというものが娘の教育に不要と捉えた母を無視して関わったせい……だと思っています。だからこれは私の罪です。……そもそも、私が誰かと関わりたいと思ったところで止められるのでしょうけれど」
嘲るように、吐き捨てるように言って立ち上がる。慎之介と話していた時間も合わせてギリギリだ。もうすぐ楠木家の両親、そのどちらかが見舞いに来る頃だろう。早く立ち去らなければならなかった。
「私から話すことは以上です。ひとまず出てください。私も帰ります」
伊吹は特に反論することなく病室を出てくれた。こんな事情など説明する必要もなく、わざわざ彩夏の姿を見せる意味もない。不必要で無意味で、意味不明だ。
矛盾に矛盾を重ねた自身の脆い精神をよく表す行動だと思う。きっと構ってほしいのだ。でもそんな欲も願望も捨てなければならない。くだらない感情を発露する自分とは、今日で本当に別れなければならないのだ。
◇◇◇
病院を出て駅に向かう道中、突然伊吹が前に出て来て振り返った。向かい合う形になる。
「じゃあ、次はわたしが話す番ね!」
「……聞くだけですよ。急いでいるので手短に」
鞄の持ち手を強く握って頭痛を紛らわした。要らない話をしたせいで感情が表に出そうなので、極力言葉も短くした。
カラスの鳴き声を背景に伊吹は手を差し出してくる。首を傾げてその手をじっと見た。
「氷室さん、わたしと友達になってください」
「は――……」
不意を突かれて声が声にならない。何を言っているのだろう。
「話、聞いていなかったんですか? 私は貴方と、ではなくもう誰とも関わりません」
「うん、だからそのルールの最初の例外になりたいなって」
「意味が分かりません。ルールってなんですか、私は遊びのつもりではないんですよ」
苛立ちが込み上げてきて抑え気味に喋る。意識しなければ眉が勝手につり上がってしまいそうで、口も不快感を露わにしてしまいそうだ。
沙凪は表情が薄いのではないことを知っている。どちらかといえば顔に出やすいほうで、悩みや頭痛さえなければもっと感情を表に出して会話できることも分かっている。けれどそれを一度許してしまうと、頭痛と一緒に心に閉じ込めているものが溢れてしまいそうなのだ。
「……貴女に誘われて遊んだものや行った場所が楽しかったのは認めます。勉強しかない生活には強い刺激で、良い発散になりました」
「じゃあこれからも色んなとこ行ったり、遊んだりしようよ! カラオケが初めてだったから、ボーリングとかバッセンとかどう? 映画もいいし、スイーツ巡りとかウインドウショッピングとかもしたいよね。あ、遊園地とかさ――」
「それとこれとは話が別です。なんなんですか、貴女は。少し気を許したくらいで簡単に仲良くなったなんて思わないでください」
候補を幾つ挙げられても迷惑極まりないことだ。沙凪は冷静を装って応じているが内心焦っていた。心の淵や底に溜まっている蟠りが少しずつ喉の奥から迫り上げていて、このままでは何を言い出すのか自分でも予測できない。疲労と頭痛、過去の記憶と心の揺らぎと、この後母に叱責を受けることが確定している状況――全てが絶妙に噛み合って彼女の余裕を削ぎ落していく。
「行きません、もうどこにも。今まで通り生活させてください。記された願いも叶うべきではないんです。ここまで話を聞けば分かるでしょう、私の願いが――あの子の回復とは無関係なものだってことくらい……!」
羅列する言葉たちが口を出るたびに語調が強くなっていく。息をする暇もないほど口が動いて、声量も徐々に大きくなっていった。伊吹は差し出した手をそのままに目を丸くしている。
4月21日、16時ちょうどに丁花公園に行くこと――そんな奇怪な命令に従ってしまった沙凪の願いは、楠木彩夏の回復や治療の効果が向上することなどではなかった。校舎の改装に伴って早くに授業が終了したあの日、沙凪に届いたメッセージには――
「『罪悪感から解放されること』……そう書かれていたんです。私は自分だけ助かって生き延びるようなどうしようもない人間で、あの子の御両親からも逃げ続けているのに……それなのに、私はその願いを見て、少し期待してしまった……!」
生きてきた中でほとんど出したことのない声量に、喉が掠れて傷んでいる。棘だらけの物体が喉の上の方に引っ付いたみたいで気持ち悪くて、鼻孔にまで痛みが伝わってきた。
比較的人通りの少ない道だが、遠くから何事かと二人を眺める視線が飛んできている。それでも沙凪は溢れる感情の奔流に逆らえず、論理的な思考が破綻して口が止まらない。
罪悪感から解放されたら、この人生も色がつくのだろうか。ストレス性の偏頭痛や飛蚊症もなくなって、もっと豊かな思考ができるようになるのだろうか。
もしそうならと思ってしまって、あの日足を運んだことが結果的に今の自分を更に苦しめていた。
俯くと頭痛がする。だから前を向くけれど、それは頭痛から逃げているだけで正面の景色を正確に捉えているわけではない。
「この罪悪感は持ち続けないといけないんです。罪は罪のままにして、それを背負ってあの子の分も生きていくしかないんですよ。だから、私は……っ」
――やめろ。
それ以上は言う必要はない。心の中で叫んでも現実の身体が言うことを利かない。
「だから……罪を理由に、学業に打ち込む以外許されなかった人生を肯定してきました。これが普通の生き方でないことを理解しながら、成績だけは常に頂点であり続けようとしました……っ!」
――言うな。
字の歪み一つで何時間説教を受けようと、習い事のミスで体罰を食らおうと、全て“高望みして友人などという存在にかまけた罰”とすることで耐えてきたのに。このままでは、そうして納得していた思考が崩れてしまう。
一番、言ってはいけないことを言ってしまう。
「楽しいと思うことも、誰かと笑って話すことも、全部不要なんですよ……っ。貴女みたいな常に楽しく生きている人と私では生き方が違うんです、考え方も違うんです!」
叱責の記憶が蘇る。氷室、という漢字のバランスが悪かったせいだった。
叱責の記憶が蘇る。水泳で前回泳げた25メートルを泳ぎ切れなかったからだった。
「私と仲良くしたい? どこを見てそう思ったんですか? 楽しいことを顔にも出さず態度も冷たい、学ぶこと以外無知な私のどこを見てそう思ったんですか!?」
叱責の記憶が蘇る。叱られて反省として3時間正座していなければならなかったのに、それを途中で崩してしまったからだった。
叱責の記憶が蘇る。どうして怒られたのかは覚えていないが、とにかく自分が悪かった。
「貴女は自分の願いのために好きに生きていけるかもしれませんが、私は願いが叶った瞬間にこの罪悪感が消えるんですよ!? そうしたら私はきっと、私のことも……私を取り巻く環境のことも許せなくなる……!」
𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が蘇る。𠮟責の記憶が――
「出来ることなら私だって、普通の人生を送りたかった! あんな家じゃなくて、もっと普通の――っ!?」
突如、目の前が真っ暗になる。思わず舌を噛んでしまって、目尻から反射的に涙が零れた。しかしもっと前から涙は流れていたらしいことを、捲し立てていた口が止まってようやく理解する。
真っ暗な中で顔面に伝わる柔らかい感触、後頭部を締め付ける微かな痛み。甘い香りがする。ドクドクと聞こえる鼓動の音が自分のものではないと知って、息もできないまま沙凪の腕は力なく垂れ下がった。
「大丈夫だよ、氷室さん。それ以上はもう言わなくて、大丈夫」
心の輪郭を直接撫でてくるような優しく、溶けるように甘い声がする。頭頂部からゆっくりと手のひらで撫でられる感覚があった。どうやら今、強引に伊吹に抱きしめられている状況らしい。
「抱えすぎだよ……一人で、全部」
「……ぅ、……」
囁かれて変な気分になってきて、両手で伊吹の肩を掴んで引き離した。思ったより簡単に離れて再び彼女の目が合う。
生い茂った緑に灰色のアスファルト、青々とした空に差す茜色。飛び往くカラスにうっすら見える月。それら全てを一枚の画に収めて中央に位置するのは、包み込むような優しい笑みを浮かべる少女だった。
茶色と赤で織り成す綺麗な髪が揺れている。赤い瞳がぱっちりと開いて、一秒も逃さずに沙凪を見据えていた。
純真で真っ直ぐで、陰り一つない瞳の煌めきが恨めしい。そんな風に生きられたならと、何も悪くない相手に向かって憎悪の感情が渦巻いていく。
「抱えすぎって……貴女に何が分かるんですか! 知った風な口を利かないでください……っ!」
「まだあんまり仲良くないかもしれないけどさ」
目尻から零れ落ちる涙をハンカチで拭き取られた。淡いピンク色の可愛らしい色合いだ。
「氷室さんが、どういうキャラクターが好きで、どんな作品に興味があるのかはちょっとだけ知ってるよ。でもお家には持って帰れないから、全部買えずに諦めてたのも知ってる」
昨日出掛けた時の話だ。
彼女の語る部分は今までの人生では全く出てこなかった沙凪の一面。もっと好きなことがしたい、楽しみたいという本音を“罪”と“環境”という建前で誤魔化す様が如実に表れていた。
「実は結構ノリが良くて、話し掛けた分だけ返してくれるのも知ってる。ほんとはもっと怒ったり笑ったりしたいけど、それができないから冷たくするのも……なんとなく、そうかなって思ってた」
「……そんなの、全部貴女の勝手な妄想じゃないですか」
「ほんとに?」
本当、とは言い返せなかった。
優しく首を傾げる伊吹に反論できず、言葉が見当たらなくなってしまう。唇が震えても喉から声が出ないのだ。考えていることはたくさんあるのに、心の底に沈殿している言葉はいくらでもあるはずなのに。
「…………っ」
反論できないのをどうにか誤魔化そうとして、沙凪は伊吹の瞳から目線を逸らした。あの煌めきに当てられ続けて、感情を抑えられる自信がなかったから。
しかし瞳から顔、風景へと移った視界の中――会話とは全く関係のないものに気を取られ、沙凪の視線は無意識に伊吹の顔へと戻っていく。反射的に二度見することで映し出されたのは右目下の頬辺り、横一直線にうっすら刻まれた傷のラインだった。
人一人分あるかないか、そのくらいの近距離でようやく視認できる傷の痕。気に掛けることも気になる要素もないはずなのに、見れば見るほど痛々しい線は強く存在感を放っている。
――あんな傷、あっただろうか。
「……! ……えっと」
沙凪の不審な挙動と目線に気付いて、伊吹は目を丸くしたのちに右頬を手で隠した。まるで見られたくないものに蓋をするかのような仕草だ。それまでの柔らかな微笑みも、困り果てた表情へと変容していた。
「わたしの願い、メインヒロインになることって言った……よね」
伊吹は手で傷を覆い隠したまま、声の調子を落として言う。光の塊のようだった少女の背後には黒々とした影が伸びていて、沙凪は妙な胸のざわつきを覚えた。
「物語で素敵な主人公と結ばれるようなメインヒロインになりたい。その願いのためにわたしはずっと生きてきたし、これからもその願いのために生きていくんだ」
「……何の話ですか」
「だからね――“これ”は、あんまり見ないで貰えると嬉しいかな、って」
目線を落とす伊吹の瞳には、僅かながら揺らぎに近い波がある。
メインヒロイン、という言葉に馴染みはないけれど、以前「ふざけないでください」と一蹴したのは覚えている。昨日は帰ってから言葉の意味を調べたけれど、空想上の概念であって現実を生きる人間が用いる言葉ではないはずだ。
それを笑うことも、誤魔化すこともなく大真面目に口にしている――頬の傷だけを隠して。
傷の意味など沙凪には知る由もない。ずっとあったものなのか、最近できたものなのかさえ知らないのだ。その傷が彼女の妄想めいた願いにどう関わりがあるのかも、沙凪にとってはどうでもいいことだった。
けれど今の伊吹は、ただ明朗快活に、夢や理想を追い求めるだけの少女には見えない。隠したい傷があって、それを抱えてでも進もうとする覚悟がある。何の事情も知らない沙凪にも、その程度のことは伝わっていた。
「……なんなんですか、貴女は」
“罪悪感から解放されること”が沙凪の願いだというのなら、あの時集まった他の四人にも何かしらの願いが提示されているはずだ。
どこかで、周りを見下している自分がいた。
自身の環境を辛いものと前提して、当たり前の安寧と日常を享受する者たちをくだらないと、吐き捨てる自分がいた。
みっともなく騒ぎ立てていた紫髪の少女も、呆けた様子の白髪の少女も、先ほどジュースを押し付けてきた御手洗慎之介も、目の前の朱島伊吹も、充足した日常生活を送っている上で。その上で更に願いを求める強欲な者の集まりだと思っていた。決めつけていた。
もし、それが違うのなら。
常に明るく楽しそうで、困り事の一つもなさそうな伊吹にも――願いを叶えなければならないだけの理由があるのなら。
それは果たしてくだらないと、本当にそう言い切れるのだろうか。
「あ、あはは……わたしのことは良くてねっ? さっきの続きだけど、わたしは氷室さんが……すっごく、抱えすぎているように見えるんだ」
一瞬みせた陰りのようなものを笑顔と手振りで打ち消して、伊吹は沙凪の目をじっと見た。捉えて離すまいという圧力が感じられる。傷のことや願いのことを言及するより早く、伊吹は続けた。
「氷室さん、罪を背負わなきゃ! って思ってる自分自身が一番負担になってるんじゃないかな。わたしにはそう見えた……ううん、今の話を聞いたら、誰だってそう感じると思うな」
「だから、貴女に……」
もう、“何が分かる”とは言い返せなかった。彼女にも抱えている何かがあって今ここに立っているのなら、それはもう理解と無理解だけで跳ねのけられるラインをとうに超えている。馬鹿馬鹿しいともくだらないとも思えなくなって、相手を遠ざける常套句を一つ失ってしまったのだ。
口を噤んだ沙凪の視界には、ぱっちり開いた赤の瞳が綺麗に映っていた。
「“罪悪感から解放されること”が願いって言ったけど……それって、ほんとに叶ったらダメなことなのかな? 願いが叶ったら、楠木さんのことも何もかもどうでもよくなるってことなのかな」
「……そ、れは……」
「もっと前向きな……氷室さんにも楠木さんにもプラスになるようなこと、って可能性はない? 確かめてみなきゃ分かんないよ、ダメかどうかなんて」
もっともらしいことを言う。必死に言い訳や反論を脳内のストレージから探してみるけれど、逡巡するほどに心臓が早鐘を打った。昨晩から蓄積した空腹が胃を締め付けて、軽い吐き気まで込み上げてくる。
「それにさ――ずっと頑張ってるなら、少しくらいは自分のこと許してあげてもいいんじゃないかな。そのための願いだって思えない、かな?」
苦痛に顔を歪める沙凪に、伊吹は可愛らしく小首を傾げた。甘くて反吐がでるほどの提案で、いつもなら躊躇なく切り捨てている囁き。けれど心も体も脆くなった今は、そんなものに縋りたいと思ってしまう。
「……わ、たし、は……私は、そんなの……無理です。無理ですよ、だいたい……いくら貴女が説得しようとしても意味がないんです」
声たちがへばりついて不快感の溜まった喉をどうにか震わせて、掠れた声音を口から出す。伊吹は柔らかくて優しい笑みで待っている。
「どうして?」
「……、……今朝、母に言われました。今日は早く帰ると……昨日のことについて、話があるからですよ。私はこれから帰って、逃げたことと、貴女との関わりについて叱られるんですよ。だから貴女が何と言おうと無駄なんです」
叫んでから数分経過して、外気に当たられた頭が冷えている。お陰で現実的な問題を思い出すことができた。
自身の罪とか、伊吹の覚悟とか、そんなものは些細なことだ。沙凪がどんな選択を取ったところで結局、母は伊吹との交流を認めないだろう。家庭をどうにかしなければそもそもこんな話し合いに意味なんてないのだ。
伊吹は暫く考え込んだのち、
「……それこそ、確かめてみなきゃ分かんないよ! 怒られるならわたしも付いていく!」
などと言い出した。
「――は?」
あまりにも突拍子もないことを言い出すものだから、言葉の意味を理解するのに数秒を要した。ゆっくり脳に声が浸透してから沙凪は小さく声を漏らす。
付いてくる? 今から叱られる自分に? 何を言っているんだ、世話焼きにも程がある。
「ほら、行こ! わたしが引き留めちゃってお母さんお待たせしてたら大変!」
「え、あの、えっ……いや、なんでそうなるんで――」
脳の処理が追い付かないまま、腕を引っ張られて足が進んでいく。涙の膜で潤んだ瞳に風が当たって、一層冷たく感じる。振りほどいてしまいたいのに、腕に力が入らない。勝手に話を進める伊吹に引っ張られる以外何も出来なかった。
否、出来なかったのではない――したくなかったのだ。
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