二章七話 愁苦辛勤
地上に営巣する鳥は、捕食者を巣に近づけないようにするため、翼を地面にこすりつけるなどして傷ついた振りをするのだという。傷を負ったように見せかけて捕食者を本来の目的から遠いところまで誘導し、引き離す。
擬傷、というらしい。
(……痛い)
沙凪は身体を起こしてまず頭を軽く抑えた。起床後は必ず頭痛がする。
我ながらなんとも、先日の言動は擬傷に近しいものであったと呆れてしまう。面倒な家庭環境という傷をひけらかして、不幸自慢をするような浅ましい人間であると主張した。
その上で、改めて別れを告げた。単純な拒絶だけでは押し切ってくる朱島伊吹でも、他人の親という問題、生まれ育ちの辛さをアピールするような人間性――それらを受けたなら、流石にもう話しかけてはこないだろう。
事実、あの後彼女からレイルで連絡がくることはなかった。電源を入れたスマートフォンに通知がひとつも無いのを見て安堵する。
氷室沙凪は、生まれ育ちを後悔したことはない。
氷室沙凪は、親を憎んだことはない。
人を遠ざけるためだけに、あたかも自身の置かれた環境が傷であるかのように振る舞った。いつもより酷い頭痛は、そんな嘘吐きに与えられた罰なのだ。
重い頭を抑えながらリビングに向かおうとして、人の気配がして扉を開けるのを躊躇った。今日はまだ母か父がいるようだ。
「……」
気配と声を押し殺して朝の支度を済ませる。今は両親に合わせる顔がない。洗面台の滞在時間もいつもより短かった。
昨日は伊吹と別れた直後、出来るだけ早く布団に入った。両親ともに帰りが遅く、寝るまでに帰ってはこなかった。しかし今もしリビングに居るのが母ならば、きっと昨日外で起きたことを詰められる。親の前から逃げたのだから悪いのは自分自身で、叱られるのは当然で――
(……お金、返し忘れた……)
現実逃避にも似た思考が過る。伊吹がパフェ代を奢ってくれたのに、それを返していない。もう会わないと宣言したが、このままではあまりにも行儀が悪かった。どうにかしてお金だけでも返せないだろうか。考えても無駄だ。
制服に袖を通してバッグを持ち、再びリビングの前を静かに通ろうとしたその時だった。
「沙凪」
リビングの扉が開いて、向こうから母が現れる。母は冷徹な表情を張り付けたまま、同じくらいの目線で沙凪を射貫いていた。
「……、はい」
心臓が跳ねて鼓動が加速する。何を言われるのだろう。可能な限り表情を殺して向き合った。
「……今日は、早く帰るから」
短く用件だけ伝えると、母が容赦なくリビングの戸を閉めた。昨日のことについて触れてこないことを不思議に思いながらも、沙凪はマンションを出た直後に言葉の意味を理解する。
母は既に仕事着だった。あれは「朝ではなく夜にゆっくり時間をとる」という意味だったのだ。確実に、今日の夜は伊吹のことや逃げたことについて触れられる。それを理解した途端、全てが崩れ落ちてゆくような心持ちになった。
駅のホーム、電車の中、並木道、校舎。ありきたりな通学路が一層色褪せて見える。死地に赴くような気持ちで一日が始まった。昨晩から食欲がわかず何も食べていないせいか、今日は頭痛だけでなく腹痛までしていた。
「……あっ、ごめんなさ――」
廊下ですれ違いざまに誰かにぶつかり、向こうから先に謝罪の声が飛んできた。相手の女子生徒は言葉を言い終えるよりも早く、沙凪の顔を見て表情を曇らせる。
「あ、ひ……氷室さん、すみません……」
睨んだつもりはないのだが、女子生徒は小動物のように怯えていた。深々と頭を下げたかと思うと、近くに居た友人らしき生徒たちに身を寄せて逃げるように消えていく。謝罪を返す暇もなかった。
中等部の頃に自分で作った環境。今まで何度も同じような反応をされたが、沙凪自身が望んだことだった。関わりを持ちたくないのであれば遠ざけられるほどの、強固な壁があればいい。誰も寄り付かないくらいの、誰も関心を持たないほどの。
「おはよう、氷室さん」
止めていた足を再び進めようとすると、いつの間にか隣にクラスメイトの折原琴葉がいた。栗色の髪が窓の隙間から入る風になびいている。
「おはようございます。それでは」
「待ってよー、一緒に教室まで行かない?」
「……好きにしてください」
切り上げようとした会話を、気さくな態度でつないでくる。その姿が赤い少女と重なって心が苦しくなった。
(どうして……私に関わろうとする人がいるんだろう)
琴葉は誰にでも分け隔てなく優しく接することができる。ゆえに周りから距離を置かれたり怯えられたりする沙凪も例外ではなく、こうして臆せず話し掛けることができるのだろう。しかしそれは無意味だ。沙凪自身に仲を深めようとする意思がないから。
では、伊吹はどういうつもりで関わりを持とうとして――どうしてそれを、跳ねのけずに二度も受け入れてしまったのだろうか。
「昨日ね、飼ってるウーパールーパーが喋ったかと思って、家中大騒ぎだったの。そしたら喋ったのはカメの方でもっと大変なことになっちゃってね」
相槌も打たない沙凪に、琴葉はまったく気にしない様子で話し掛けてくる。ほとんど独り言に近い状態で、沙凪は聞き流しながら思考に黒い影を落としていた。
“氷室さんやみんなと仲良くなりたいのはほんとなんだけどね!”
記憶から声が抜粋される。よくもまあ屈託もなく笑って綺麗事を並べられるものだと、もはや感心する域に達していた。
「……担任から言われている、もしくは周りの目を気にしている。貴女が私に話しかける理由はどちらですか」
「え?」
切れ良く飛び出した言葉に自分でも少し驚く。何か話をしていた琴葉は目を丸くしていた。
ほぼ無意識に意地の悪いことを言ってしまった。彼女の優しさの裏に何かあるという前提の、最低な質問だ。しかし口から出てしまったのならむしろ好都合だと思った。
琴葉も伊吹も、建前で接してきているだけ。本来の目的のためにどうしても、関わりたくもない沙凪に関わらなければならない。そんな背景があれば納得できるから、この際はっきりさせようと思った。
「うーん、全然そんなのじゃなくてさー」
しかし琴葉は腕を組んで考えながら平気な様子で返してくる。かなり失礼な物言いをしているはずなのに、彼女は一切動じていなかった。
思考を上手くまとめられたのか、琴葉が「えっとね」と前置きをする。
「氷室さん、よく一人でいるからさー。どんな話するのかな、とか。何が好きなのかな、とか。あと笑ったらどんな顔するのかなーって気になってて……そしたらなんか、話し掛けちゃった」
朗らかな笑みを向けられ、そこから先のことはよく覚えていない。ただしばらく、彼女の放った言葉に考えがまとまらなくなったのだけは記憶していた。
気が付けば一日の授業も終了していて、チャイムと共に生徒たちが各々の行動を取り始めている。頭痛と腹痛は収まっていない。弁当も用意していないのだから当然だ。
(……行かないと)
ふらつく身体で教室をあとにして、いつも通り病院へ向かう。よほどのことがない限り毎日訪れている見舞いへの道のりも、今日だけはひどく重かった。
澄んだ空に僅かな雲が差している。目に染みる鮮やかな青に、自分がとても矮小な存在であると思い知らされた。
“今日のテストはどうだった?”
古い記憶の声が幻聴となって聞こえてくる。もう長いこと聞いていない旧知の声。罪悪感が蟲のような形になって胸中を這いずりまわり、咀嚼音を立てながら蝕んでいく。
目の奥に刺すような痛みがある。痛みが一本の針金となって脳を突き刺している。俯いては駄目だ。前を向かないと。
“いいな、わたしもそんなふうになりたい”
記憶の声が止まない。暫く聞こえなかったのに、と頭を抑えた。
“関わるべきじゃなかったの。だから言ったのに”
「――っ」
母の声も脳に響いてくる。
それは氷室沙凪という少女にとって生き方の一つが定まった言葉で、巻き付いて離れない鎖となっている呪いで。誰とも仲良くしないと、心に誓ったきっかけだった。
(なら……朱島さんと過ごした時間、私は……)
心に相反する二つの自分が居る。
人と関わりたくない、関わる気がないと壁をつくり続ける自分。
どこかで現状を後悔していて、心の揺らぎを許してしまう自分。
伊吹に誘われてカラオケに行ったりダーツをしたり、パフェを食べたりグッズを眺めたりした自分は、間違いなく後者であった。本気で拒絶すれば良いだけなのに、わざわざ相手の誘いに乗ってから断ったのも――今の自分も生活も環境も、何もかもに不満があるからに他ならない。
なんとも、愚かで、馬鹿馬鹿しい。
「――よっ、元気か?」
「……貴方は」
重い足取りで病院まで辿り着くと、閑散とした入り口前には見知った男がいた。
御手洗慎之介――丁花公園で顔を合わせたうちの一人で、おそらく伊吹に協力しているらしい人物。彼にも沙凪や伊吹と同じようにメッセージが送られてきたのだろう。病院内で顔を合わせても会話などなかった赤の他人なのに、最近になってこうして声を掛けてくるのが何よりの証拠だった。
「何か御用でしょうか。邪魔ですよ」
「今日は一段と手厳しいな。まあそう言わず話そうぜ、たまにはさ」
階段手前で軽快に笑う慎之介に、しかし沙凪は顔色一つ変えることなく向き合う。強引に通り抜ければいいだけなのにそれができないのは何故だろう。
「……目的は?」
「俺も願いのために何かしたいのにさ、朱島ばっかり動いてて申し訳が立たねえんだ。だから今日、出来ることを聞いてみた。というわけでちょっと付き合ってくれ」
「……。分かるように話してください」
いまひとつ要領を得ない返答だ。
しかし彼も“願い”を叶えたくて接触してきているのはよく分かる。変に取り繕って綺麗事を並べないだけ伊吹よりはマシだった。
「分かんないだろ? だから話そうぜ、俺と。そしたら分かると思う」
「嫌です。興味がありません」
「まあそう言うなって。ほら、これやるから」
拒絶の言葉にびくともしない壁のような男は、リュックから何やら取り出して差し出してくる。自動販売機で売られている缶ジュースだ。『300%いちごオレ』と書かれているそれは、これでもかというくらいイチゴの主張が激しいデザインをしていた。
「気持ち悪くなるぐらい甘ったるいもの欲しい時に飲むやつ。すげーからな、これ。悩みとか吹き飛ぶくらいのイチゴで吐きそうになるから」
「要りません。劇薬じゃないですか」
「まあまあまあ」
「まあまあまあではなくてですね」
無理やり押し付けられようとするが微塵も興味がわかないし、美味しくないと説明しているようなものだった。手中に収められかけた缶ジュースを突き返そうとすると、慎之介はたまらず噴き出す。
「っふ……ははは! なくてですねって……漫才みたいだな、今の」
「……不快なので、人で笑わないでもらえませんか――あっ」
「はい隙あり。それもう氷室のだから」
愉快に笑われて油断したところを突かれて、要らないのに缶ジュースを渡されてしまった。しっかり冷えているのが余計に不愉快だ。
受け取ったことに満足したのか、慎之介は腰に手を当てて「よし」と呟く。何もよくない。身長差さえなければ蹴り倒したいくらいだった。
「なーんか、俺は全然氷室のこと知らないからさ。人形みてーなやつだな、くらいの感覚だったんだけど」
人のことを足止めしておきながら、彼は階段を上って病院の方へ向かっていく。爽やかさの中に掴みどころのなさと誠実さを感じてしまって、不快になりきれない。
「今、俺にムカついてるみたいに……ちゃんと色々考えてんだなって思ったよ」
「はあ……貴方に何が」
「お……早かったな。じゃ、俺の役目はここまでってことで」
言いたいことだけ言って、慎之介は何かに気付いたのちに病院の自動ドアの向こうへ行ってしまった。彼の言葉を受けて沙凪は自身の頬に触れる。表情に歪みはなかった。
人を寄せ付けないための仮面、笑みすら浮かべない無表情。感情を表に出さないことで拒絶し続けてきた立ち振る舞いは崩れていない。今のやり取りのどこで、彼は「ムカついている」と思ったのか分からなかった。
「……何なんですか」
やり場のない感情を逃がすように呟いた。小さな声は吹き抜けた風に乗って消えてしまう。揺れる青葉や木々を見て、母の「早く帰る」という言葉を思い出す――背筋が凍るような思いをして、急いで見舞いを済ませようと、階段の一段目に足を掛ける。
「――ちょっと待って、氷室さん……!」
行動を止めるべく、やや遠くから全力の声が響いた。風の音すら上書きして耳朶を打った声は、最近で一番よく聞いた人のもの。鈴の音のような響きを持ちながら透き通っていて、甘美で柔和な声音だった。
「……朱島さん」
「もう一回だけ、お話ししよ! わたしまだ……話したいことがあるの!」
制服を身に纏った伊吹が息を切らして走ってくるのを見て、立ち去ることも拒絶することも出来ない。沙凪は立ち尽くしたまま彼女を待った。
缶ジュースのせいで手のひらが冷たい。額に当ててみると、逡巡で焼き切れそうな脳の熱を優しく冷ましてくれた。
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