二章六話 瞑目と微笑
「そろそろ帰ろっか」
伊吹がそう切り出すと沙凪は静かに頷いた。時刻は15時過ぎ。買い物の途中で駅外の飲食店などに立ち寄るなどした上で、まだ夕方でもない微妙な時間だった。
いつも伊吹が友人と遊んでいる感覚をそのまま持ち越すなら、しばらく時間を潰して晩ご飯も外食で済ませて別れる、がベストだ。しかし今日はそれはできない。
「……すみません。よく分からなくて」
透き通った声で謝罪する沙凪。彼女の生活は基本的に勉強で埋め尽くされているらしく、それは休日でも変わらないことだという。今まで休日に誰かと遊びに出掛けることがなかったせいか、何時まで遊んでもいいのか分からない──だから早めに解散しておきたい、というのが今日出掛けるための前提条件だった。
「いいんだよ、気にしなくて。また今度遊ぼ?」
「……今度……ですか」
隣を歩く沙凪に両手をひらひらさせ、微笑みを向ける。彼女の表情は相変わらず一切の変化がなく、しかし声だけはどこか沈んでいるような響きがあった。
やや俯いて、顔を持ち上げて、また下を向く。そんな挙動をしてから沙凪は口を開いた。
「……朱島さん。貴女は……。……貴女の願いは、どんなものですか?」
階段の途中で問いかけられる。人形のように整った横顔と、通りをぬけた階段特有の人気のない灰色が静謐さを演出していた。
願い、という単語が今日初めて──彼女から初めて出てきて、伊吹は一足先に階段を駆け上る。そして振り返って腰に手を当てると、真ん中あたりで立ち止まる沙凪に胸を張って答えた。
「わたしの願いはメインヒロインになること! 運命の相手と出会って、その人と結ばれることだよ」
「ふざけないでもらえますか」
「ふざけてないよ!? ほんとだから!」
後から階段を上ってきて冷ややかな視線を送られた。目線が同じくらいの高さになってしばらく見つめられたが、沙凪は小さく溜め息を吐いてから歩き始め、素っ気なく顔を背けてしまう。
「それが記されていたと?」
「わたしは手紙とかじゃなかったから“言われた”って表現が正しいんだけど……それがわたしの願いだって言われたの」
「……なるほど」
階段を上がって地上階に戻ると、地下と同じくらいの人混みが形成されていた。キャリーバッグを連れた外国人や集団で行動する制服の集団など、様々な電車の路線にアクセスできる場所ならではの光景だ。
二人は常に移動を続ける雑踏の端を歩いて、帰りの電車まで向かう。
「その願いを叶えるために私とこうして関わろうとしている、という認識は……間違っていませんよね?」
淡々とした口調で詰めるように沙凪が言う。それはいつか誰かにも指摘された“願いのために他者を利用する”という、伊吹の行動の身勝手さを咎める言葉。
「……そうだね、わたしは自分のために人と関わってる。間違ってないよ」
否定はできない。覆しようのない事実だから。
沙凪の問いを肯定する形で返し、改札を通る。再び横並びになって会話を続けた。
「氷室さんやみんなと仲良くなりたいのはほんとなんだけどね!」
「……私には、目的のための手段を良いように取り繕っているようにしか思えません。まず私と仲良くなりたいという言葉の意味が分かりません」
路線の案内に従って歩く。入り組んでいるようで表示通りに進めば意外にも分かりやすい、そんな道だ。
沙凪は自身の左手を右手で覆うように包み込んで、小さな声量で落とすように言葉を紡ぐ。
「……理由がありませんよ、私と、仲良くしたいと思う理由が」
「そんなことないよ、だって──氷室さん?」
聞かせるつもりはなかったのかもしれない。あるいは返事を求めていないのかもしれない。けれど返さずにはいられなくて、彼女が言葉の裏で求めているものを口にしようとした。
しかしそれは叶わない。突然立ち止まった沙凪に気を取られ、数歩先の地点から振り返る──彼女は無機質な翠眼を大きく見開いて、呆然と立ち尽くしていた。
「……どうかした?」
感情は宿っていない。しかし微かな震えが異常を伝えていた。傷一つない宝石のような瞳が凝視する先を目で追うと、伊吹たちの前には一人の女性が静かに佇んでいる。
儚い、という表現がとてもよく似合う女性だった。長く伸ばした薄緑色の髪を結び、同様に緑がかった翠眼は濁りかけたような深みを帯びている。目の下に刻まれた小さな隈はモノクロームチックなアクセントとして、色白な肌の中で存在感を放っていた。
スーツ姿の、立ち姿から美しく麗しい女性。歩いても靴音一つしないような静謐を纏って、見るものを惹き付けて離さない。儚さと美しさを併せ持った、どこか既視感もある容姿だ。
「……こんにちは」
女性は筆舌に尽くし難い独特な音色を発して挨拶を向けてくる。伊吹は僅かにたじろいでから、口元でにこりと笑みを作って返した。
「こんにちは! ……って、わたしで合ってますか?」
「ええ、大丈夫ですよ。貴女に言いましたので」
落ち着き払った口調。どうしても既視感がある。女性がそう言うと、硬直していた沙凪が口を開く。
「……あ、あの……お母さん」
「え、お母さん──あー! すっごい似てる!」
振り返って二人を見比べてみると、初見ですぐに気づかなかったことが不思議なくらい、沙凪と女性の外見は似通っていた。大人になって数年後の沙凪、と言われても信じるだろう。
しかし声を大きくした伊吹とは対照的に、沙凪は更に声を落として瞳を震わせていた。焦燥、困惑──微かにそんな感情が見える。
表情の薄かった沙凪が初めて、狼狽した様子を見せていた。氷のような冷徹な雰囲気はなく、ただ目の前の存在に怯える子どものようだ。
「す、すみません。今日は……あの」
「沙凪」
たどたどしく言葉を紡ごうとすると、沙凪の声は短く名前を呼ばれて遮られる。彼女の母親は肝の据わった瞳で正確に、自身の娘を捉えていた。
「お友達ですか?」
「──っ」
説明を求められている、それだけは伊吹にも分かった。一切の余韻を許さない声音が凛と響く。周囲は人で溢れているはずなのに、二人の間だけ音が無くなったように静かに感じられた。
沙凪は目を逸らさず、微かに表情を歪めている。よく見ると指先が震えていた。二人のやりとりはとても、外出先で遭遇した親子のそれには見えない──親を前にして、どうしてこんな恐怖に満ちた表情と声になるのだろうか。
「……えーっと……氷室さんのお母さん、わたしは──」
口を閉ざしてしまった沙凪に代わって母親に話し掛けるが、その先を言う前に沙凪自身が動いた。彼女は質問に答えることなく、母親の横を通り抜けて走って行ってしまう。
「えっ、ちょっと氷室さん!?」
「……そうですか」
「あ、あのー……ごめんなさい、また改めて挨拶します!」
取り残された母親にぺこりと頭を下げ、返答を待たず沙凪を追いかけて走った。伊吹には何が何だか分からない。けれど初めて見た沙凪の表情から、彼女らの間に何らかの問題が生じていることだけは理解出来た。
人混みの音が舞い戻ってくる。氷に似た空気は、走っているうちに瓦解していた。
◇◇◇
電車に揺られること三十分と少し。合間に乗り換えを挟み、迷うことなくスムーズに帰路を辿った。東京駅から離れるほどに電車内も人口密度が下がっていく。あと五分もしないうちに、沙凪の降車する駅に到着するだろう。
「……氷室さん、大丈夫?」
呼びかけても反応がない。綺麗な佇まいで座る沙凪は、やや下に視線を向けて押し黙っていた。
母親の問いを無視して去り、その後の彼女は一切言葉を発することなく電車に乗り込んだ。陰鬱とした陰を表情に落として、電車の中でも乗り換えの時でも静かにそこにいるだけ。
彼女は今まで見てきた無表情でクールな様子ではなく、暗雲の立ち込めた空模様みたいな空気を纏っている。
「……親が、厳しい家庭に生まれたのだと思います」
突如として、沙凪が閉ざし続けていた口を開く。車窓から冷えた陽射しが舞い込んで、少しだけ眩しかった。まだ夕日にはならない。
「何と比較して厳しいか、と言われると難しいですが……たとえば私は、小さい頃から学業に関連したもので満点以外をとってしまうと叱られる、そんな環境で育ちました」
「満点以外、って……」
当たり前のことを話すように連ねられた言葉には幾つか心当たりがあった。確か沙凪はダーツの時やパフェを食べているときに「常に満点をとっている」と言っていた。
頭が良いから、勉強しているから。そう思っていた言葉に重みが裏付けられる。教育によって満点をとる前提の環境に身を置いていたのだ。口にするのは簡単だが、伊吹はそれがどれだけ難しいことなのかよく知っている。勉強したうえで、真面目に取り組んだうえで――テストなどで全て満点をとることは、並大抵の努力では叶えられない。
途方もない努力があったのだろう。しかし沙凪はそんなことはどうでもいいと切り捨てるように、続けた。
「全て満点をとったとして、次は字の巧拙を見ます。文字の大きさや一文字ずつの歪みなどですね。勉学以外で言うならば姿勢や睡眠時間、食事態度や家事のやり方などが教育対象で」
「氷室さんストップストップ! ……話してて辛くないの、それ?」
「特には。そういう環境に生まれただけですし、今話しているのはあくまで前置きですから」
前置き、と言われて戦慄する。ここからまだ厳しい家庭背景が繰り出されるというのか。
電車内に次の駅に到着するアナウンスが響き渡った。テーマパークの楽しさや煌びやかさを映し出した電子公告が光っている。耳に入ってくる情報とはかけ離れた現実だ。
「両親、特に母は……そういった教育を施した上で、自分の望む道を歩ませたかったのだと思います。習い事も色々しましたし、資格も幾つか。その上で最も母が拘ったのが人間関係です」
沙凪はおもむろにスマートフォンを取り出した。電源の入っていないそれは黒い画面のままで、暗い鏡のような機能を果たしている。黒の中に俯いた彼女の顔が映っていた。
「昔……私が唯一友人と呼べた人がいました。けれど母はその人のことを――釣り合わないから関わらないで、と罵りました」
「……その人とは、どうなったの?」
「どう……さあ、どうなっているのでしょうね。連絡もつきませんから」
色の薄い斜陽が等間隔で差し込む車内、揺れる音とまばらに散らばる会話の声。隣にいる沙凪の声は聞き逃してしまえば消えてしまいそうなほど静かで、ひどく冷徹だった。
とても旧知の人物の話をしているとは思えない――まるで自らを嘲るような、諦観の念すら含まれている。
「きっと、今日はひどく注意を受けると思います。朱島さんと居るところを見られたので」
「……ごめんね、なんか。わたしが誘ったから」
「いえ、問題ありません。慣れています。それに」
電車が失速し始めた。アナウンスが鳴る。それは会話の終わりを宣告していた。
沙凪はスマートフォンをバッグに仕舞って、ようやく伊吹と目を合わせる。
「気の迷いということにして、これっきりにしたかったので」
「え――」
目が合って、放たれた言葉。それよりも彼女の表情に声が出なくなる。
常に表情が薄かった。何を話しても問いかけても、どんな言葉を返されても彼女は一度もそのポーカーフェイスを伊吹に向かって崩すことはなかった。
母親の前で焦った時、僅かに変わった表情――しかし今の沙凪はその時よりもはっきり――敢えて見せるために感情を顔に表していた。
「ありがとうございました、朱島さん。楽しかったです。もう二度と関わらないでください……今日を楽しんだら、最後にこう言うつもりだったので」
減速が終了して、電車は完全に停止した。沙凪の降車する駅に到着したらしい。彼女は伊吹の反応など意にも介さず立ち上がると、風の巡りのように颯爽と立ち去っていった。後ろ姿の凛然さは完成し尽くされていて、無粋な言葉で引き留めることすら憚られる。
「……氷室さん」
ぽつりと虚空に落とした独り言。
伊吹の瞳にははっきりと、悲壮な微笑みを浮かべた少女の姿が残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます