二章二話 蜘蛛の這う的
図書館での勉強会は順調に進んでいた。スタートから躓くと後が大変なことを鈴蘭も分かっているからか、伊吹が教える内容を無限にインストールし続けている。
茉莉花も向かいの席でシャーペンを走らせてはいたが、そこまで向上心のない彼女は程々に課題を進めていた。
「はぁ〜〜……休憩させて……ください……死ぬ……」
「もう三時間もやってるもんね、そうしよっか」
「ありがとぉ……ありがとぉ……」
半泣きで脱力している。勉強漬けなこともだが、特に騒がしくできない場であることが余計に耐えられないようだ。項垂れた鈴蘭は身体の輪郭が崩れるのではないか、と思うほど力が入っていなかった。
「無理すぎる……ウチの記憶容量は1ビット……」
「それ、何も入らないでしょ。さっさと休憩しなさい」
「さっさと休憩するってなんだよ~……まっちゃんは余裕そうでいいなあ」
唇を尖らせる鈴蘭に、茉莉花は眉を吊り上げる。
「余裕なわけないでしょ。普段からちゃんと授業聞いてんのよ、こっちは」
「意外と真面目ちゃんなのか? ウチは爆睡かましまくりだけどな」
「誇らしげに言うことじゃないのよ。てか前の席でよく寝られるわね」
ノートを閉じて目を細め、茉莉花が冷ややかな視線を送っている。鈴蘭は運動神経にステータスを全振りしたようなスペックを持っており、144センチという身長でありながらあらゆる球技で猛威を振るうほどの実力者だ。中学のバスケ部でもキャプテンを務め、現在も上級生に一目置かれているらしい。
その反動が脳に集中しているのだろうか。学問は壊滅的である。
「授業だったらどこでも寝られるよね、すずちゃん」
「体動かしてないと眠くなっちゃうんだよ~……座学全般、この世からなくなってほしい」
「学生向いてないわよあんた」
「あ、でも最近起こされるようになったよね。現国の朝武先生に」
伊吹が人差し指を立てて教師の名前を上げると、茉莉花は首を傾げた。
「そうなの?」
「え、まっちゃんいたよな? 一昨日とか“コンプライアンスに違反する目覚まし時計の真似を見せてやる”って言ったやつ。マジで死を覚悟した」
「待って何言ってんの? え、ホントに何言ってんの?」
クラス中で大爆笑が起きた出来事を思い出しながらの説明だったが、茉莉花には思い当たる記憶がないようで混乱している。彼女がその日登校していたのは覚えているので、いなかったはずはないのだが――と考え始めたところで、伊吹は答えに辿り着く。
「あー分かった。茉莉花ちゃん、御手洗くんと話すのに夢中で――」
席が後ろの方で隣同士なのだから、彼女は慎之介との会話を楽しんでいたのだろう。そう思って言いかけると茉莉花は素早く立ち上がって、伊吹のところまでやってきて腕をがっしり掴んだ。
そのまま有無を言わさぬ勢いで引っ張られ、無言のまま連行されて席から離される。立ち並ぶ本棚の間まで連れていかれたところで解放され、伊吹は困惑しながら口を開いた。
「どうしたの急に~。二の腕は……ちょっと気になっちゃうんだけど」
「バカ。言っていいことと悪いことがあるでしょうが」
振り返った茉莉花の頬はほんのりと紅潮している。恥じらいを帯びた乙女らしい表情を見て、ようやく伊吹は席から離された理由に気付いた。
「ごめん、うっかりしてた……! すずちゃんは知らないもんね。茉莉花ちゃんが御手洗くんのことを好きって」
「確認するように言わなくていいのよ……! 幾ら事実とはいっても、授業聞いてるって言った後に男子と話してるのバレたら恥ずかしいでしょ」
「あ、そっち?」
不機嫌になりながら指先で肩を突いてくる茉莉花。感情的な時に口を開くと覗く八重歯があどけなさを醸し出していた。
彼女は連休明けからも慎之介に、僅かながらではあるがアプローチをしているようだ。自分から話し掛ける姿も見られるようになってきており、「もう助けは要らない」という宣言通り自力で恋に向き合っている。茉莉花の“意中の相手のメインヒロインになる”という願いが是非ともこのまま叶ってほしい、と心の底から思うばかりだ。
「静かにして貰えますか。場所、分かっていますか?」
――と、本棚の狭間で会話していると、冷気を帯びて伝う風のような声音が鼓膜を揺らした。
二人は会話を中断して声のした方を見る。
薄緑のハーフアップ、煌めく翠眼。アシンメトリーデザインな緑のプリーツシャツは、ロングスカートの黒との色合いが周りの空気によく馴染んでいた。
「あっ氷室さん……また会ったね。おひとり?」
「……ああ、どっかで見たと思ったら。あの氷室ね」
「失礼な方々ですね。どの氷室かは存じ上げませんが、図書館内ではもう少し静かに話していただけますか?」
言葉の一つ一つが冷たい。もう耳にするのは何度目かになるが、何回聞いても感情の乗らない声はどこか人間味に欠けていた。
沙凪は一度こちらに視線を向けたのち、僅かに鬱陶しそうにしながら本に目線を落とす。
「ごめんごめん、お邪魔だったね。氷室さんはなんでここに?」
「……この辺りで一番大きいのがこの図書館というだけです。病院からも近いですし」
「そっか……なるほど……」
伊吹は考える──偶然とはいえ、病院以外で出会えたのはチャンスなのではないか、と。「用事があるから迷惑です」と言わんばかりの態度も今はそれほどない。以前書店で出会ったときも多少は会話に応じてくれていたことを考慮すると、今は彼女に接近できる絶好の機会と言えるだろう。
「ねえねえ、氷室さん。この後ヒマ?」
「……何故そんなことを?」
「んー……仲良くなるため」
「ではお断りします」
「まだ何も言ってないのに〜」
話しながらゆっくりと、様子を見て近寄る。意外にも距離を詰められても離れられる気配はなく、ただ手に取った本に目を通し続けるだけだった。
近くに寄るとふわりとシトラスの香りが漂って、暖かく甘い匂いが鼻腔をくすぐる。香水だろうか。
「一回でいいからさ、一緒に遊ぼーよ。つまんなかったら帰っていいし、そうなったらわたしももう関わらないからさ」
「ちょ……それ大丈夫なの? そんなので」
「本当ですね、それ」
「食いつくんかい」
後ろで茉莉花が呆れた声を上げている。ノリで持ちかけてみた提案がなんとかなり、伊吹は早速行動に移すことにした。
鈴蘭のところに沙凪を連れて行くと、「誰?」と当然の反応をされた――のだが、予定を遊びにシフトすることを伝えると歓喜に踊り狂っていた。
◇◇◇
「今日って勉強会……のはずよね?」
「まあ、すずちゃんの勉強は来週ってことで。テスト期間に入ったら部活も休みだから」
「……知らないわよー、どうなっても」
呆れた様子で茉莉花が吐き捨てるように言う。勉強会をしていた女子三人、そこに加えて沙凪というメンバーで構成されたカラオケルームの空間は、まだ曲を入れる前ということもあってなんともいえない空気が漂っていた。
但し、勉強から逃れて歓喜している鈴蘭は別である。
「っしゃー歌うぞ! どーしても練習したいのあるから連チャンいっていい?」
「えー、この前のやつでしょ? 誇れよ我らの米をー、みたいな歌詞の」
「もち! ああいうので百点とれたら絶対ウケるっしょ。十八番にすんぜ、ウチは」
慣れた手つきで採点を予約しながら鈴蘭と会話するが、伊吹の目線は備え付けの端末と端の方に座る沙凪の間を交互に行き来していた。
沙凪は入室してから一言も発さず、姿勢正しく座っている。歩く姿も随分整っていたが、座っていても様になるほど凛然とした態度だ。
誘ってからすぐに図書館を出て近場のカラオケに連れてきたのだが、彼女は最低限会話に応じるだけでそれ以上の行動を起こす気配はない。鈴蘭の「誰!?」という疑問にも「よろしくお願いします。今日限りですが」としか返さなかった。
「伊吹……大丈夫じゃないでしょ、何考えてんの」
隣に座る茉莉花が不安そうな声で訊ねてくる。ひとまず誘いに応じてもらってカラオケに連れてきたのはいいのだが、正直なところ図書館に一番近い娯楽施設がカラオケだったという理由でチョイスした場所だ。受けがいいかは微妙な賭けだった。
「まあ、なんとかなるでしょ!」
「……あんたが普段どういう遊び方してるか、なんとなく想像つくわ」
ジト目で睨まれる。鈴蘭の入れた曲が流れ始め、室内は日常生活にはないほどの大音量で満たされていく。耳朶を打つ電子音の発散、響く重低音の充満。多色発光のミラーボールが天井から少女たちを照らしていた。
曲が始まって茉莉花との会話が途切れたので、伊吹は沙凪の隣まで行って声を掛ける。
「氷室さん何歌う? 順番いつがいい?」
「……カラオケ」
「え? うん。カラオケだよ?」
「初めてです」
そう呟く表情に変化はないが、口調はどこかいつもより優しくなっている気がした。
沙凪の翡翠色の瞳は汎用映像が流れる画面に釘付けになっている。
「来たことないの?」
「こういった娯楽施設には……疎いので」
「なんかこの前もそれ聞いた気がする。楽しめそう?」
「……っ、いえ、全く楽しめません。面白くないです」
「あれっ駄目だった!?」
心を掴めそうな雰囲気がある気がしたのだが一蹴されてしまう。沙凪は静かに立ち上がり、まだ音に支配されたままのカラオケルームを見渡したのちに伊吹を見据えた。
「帰ります。約束通り、もう関わらないでくださいね」
「ちょっと待ってよ氷室さんっ! あー……ごめん出てくるね!」
騒がしい室内から逃げるように出ていった沙凪を追いかけ、部屋番号の札が並ぶ廊下の途中で彼女の手を掴んだ。振り返った時にはもう、いつもの氷みたいな表情が戻っている。
「なんですか。約束でしたよね。反故にする気ですか?」
「……えーっと――そうだ! ちょっとついてきてよ!」
「は――」
掴んだ手を引っ張り、有無を言わさぬまま建物の中を移動する。伊吹は当惑しながらも抵抗はしない沙凪を連れて受付まで戻り、ロビー横のダーツ筐体の使用許可を得てから適当な部屋に入った。
部屋、といっても簡易的な壁で隔たれた空間で、カラオケルームよりは閉鎖感がない。しかしダーツは土曜の午後は意外と空いているらしく、一番端を選ぶことが出来た。
「……あの、これは」
「ダーツだよ! ここのカラオケ、今だけダーツもカラオケの室料とセットで使えるんだよね~。折角ならやってみない?」
「誘っているようですが、もう連れ込んでいますよね。拒否権があるようには見えませんが」
「えへ、バレた? とりあえずカウントアップやろ~」
慣れた手つきで筐体のパネルを操作し、二人用でゲームを開始する。沙凪は後ろでハウスダーツを握ったまま、じっと伊吹のことを見ていた。
「よしっ、じゃあ始めるよ」
「あの私――」
伊吹はスローラインまで戻ると、ラインに合わせて真横に立って構える。クローズドスタンスだ。左手で構えて狙いを定め、しなやかな手つきでダーツを投擲――狙いすました一投目は、ど真ん中のインナーブルに刺さった。二投目も真ん中、三投目はやや外れてしまったがそれなりの得点だ。
「絶好調! はい、氷室さんの番ね」
「貴女……よくそれで人付き合いできますね」
「えっなんで!? 急にどうしたの!?」
「当然のように初めてはいどうぞ、はあまりにも不親切だと思っただけです」
口を小さく開いて溜め息を吐かれる。直立したままの沙凪は、手元のダーツと離れた位置にあるボードを交互に見た。
「ルールから教えてください。真ん中が満点ということは分かります。これはひたすら点を重ねていくものでしょうか」
「うん、合ってます! 外側の円が得点二倍で、内側は三倍……あ、ごめん。これもやったことなかったのか。先に聞いとけばよかったね?」
「全くです。……投げ方は?」
「えーっと、ここの線から出ないように立って……わたしの立ち方はいきなりやると難しいかもだから……ちょっと触るね?」
口頭での説明が難しいので沙凪の腰に手を回して身体を密着させる。外見から分かってはいたが、彼女の肉体は程良く華奢だ。一応断りは入れたがするりと懐に入り込んだせいか、一瞬だけビクリと体が震えた。
「……早く教えてください」
「はいはーい。前足に体重を掛ける感じでこうやって立って、同じ方の腕を前に出して……そうそう。持ち方は……うん、そんな感じ! 投げるときは紙飛行機みたいな感じでやるといいんだって」
ミドルスタンスの立ち方と投げ方のイメージを伝えて離れる。他にも幾つか伝えようかと思ったが、真剣な眼差しでボードを見据える沙凪があまりにも綺麗なので、思わず見とれてしまう。
彼女は一呼吸置いてから教えられたとおりに投げた。おそらく人生で初めて投げたダーツは山なりの軌道を描いて飛んでいき、真ん中より少し下にずれた位置に刺さった。
「……3点」
「ブル狙ってギリギリ3点なら十分だよ! 本当に初めてなの?」
「ですから、こういった娯楽施設には疎いんです。来ようと思ったことすらありません」
薄緑の髪をかき上げて復唱するように言う。一つ一つに精巧さが感じられる所作だが、話せば話すほどに彼女の人間らしさが溢れているような気がした。カラオケもダーツも初めて、そもそも人と遊ぶことすらなさそうな口ぶりにすら思える。
少なくとも、今この状況を「楽しくない」と思っているようには見えなかった。
「とりあえず1ゲームやろっか? わたし何かしらハンデつけるから」
「要りません。そのままやってください。手を抜かれるのは嫌いです」
「お、やる気出てきたね!」
その後、沙凪は否定的な言葉を発することなくダーツを続けた。投げ方や狙う位置を変えてみたり、伊吹の姿勢を横から考察するように凝視したりと、初回とは思えないほど熱心に取り組んだ。
その姿は純粋に娯楽を楽しむ少女でしかなくて、伊吹は思わず嬉しくなる。
「……なんですか」
「楽しい?」
「さあ、どうでしょう」
はぐらかしてスローラインに立つ沙凪。先ほどまでならば「つまらない」と返されていただろう――今は問いに対する肯定が聞こえなくても、彼女の気持ちが少しだけ分かる気がした。
「これ投げたら終わりだね、どうしよっか? 戻る?」
1ゲーム目は彼女の番で終了となる。惜しいところには投擲できているのだが、未だに沙凪は中央部分に当てることはできていなかった。
それが悔しいと思うのか、
「これがブルに当たったら、もう一度最初からやります」
と宣言してきた。
伊吹は予想外の言葉に瞬きを数回してから答える。
「……うん、頑張ってね?」
返答を聞き終えてから、深呼吸がその場に一つ置かれた。店内に流れるBGMや僅かに聞こえるカラオケルームの音たちを背景に、薄緑色の透き通った髪が揺れる。少女の瞳は真っ直ぐに的だけを見ていた。
ゲーム中に試行錯誤した結果、最も馴染んだのはミドルスタンスらしい。最初と同じように構え、沙凪はゆっくりと口を開く。
「ここまで酷い点数はとったことがありません」
「……ダーツ初めてじゃなかったっけ?」
「初めてですよ。ですから、酷い点数なんです」
瞳と的、間に細く白い手指とダーツが一つ。スコアボードに表記されている二人の点数はかなり差が開いており、これが真剣勝負ならば笑えないほどの惨敗状態だった。
「自慢ではありませんが、常に満点なので……私にとって“点”は、そういうものです」
「満点……やっぱり、氷室さんってすごく頭良い?」
黒い制服のことを思い出す。最近気になって色々な高校を調べたとき、彼女が身に着けていた制服らしきデザインを見つけたのだ。
偏差値などではなく場所でしか選ばなかった伊吹では入学も難しいような難関高校。沙凪の満点という発言がもしもテスト等のことを指しているのであれば、相当の学力を持っていることになる。
「頭の良し悪しなんて考えたことはありません。ただ――」
沙凪は言い切る前に最後の自分の番、その一投目に臨む。しなやかな手つきから繰り出される投擲はこれまでのどれよりも的確な飛び方で進み、やがて真ん中――インナーブルに綺麗に刺さった。
「――それが通用しないのは……少しだけ、楽しいですよ」
沙凪は振り向いていつものトーンで告げる。しかしその変わらない表情の中に、一瞬だけ柔らかくなった感情が出た気がした。筐体は祝福の音を鳴らし続けている。少し上機嫌に思える動きで、沙凪はそのままダーツを楽しんでいた。
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